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第拾話 うんめいのはぐるま

 運命の歯車


「うそだ……」

 嘘だ嘘だ嘘だ!

 あれは、ただの夢だった。悪い夢でしかないはずなんだ。

 それなのになぜ、この人は僕の家が全焼したなんて言うんだ?

 なぜ、僕は足を怪我している? 包帯の合間に見えるのは火傷? 手首にくっきりついている、指らしき痕は?

『人形を殺す』

『アルルッ!』

『オレの作り上げた最高の悪夢ナイトメアはどうだ?』

 耳に、頭に残っている声はどれも生々しいけれど、それが何だというのだ?

 右手首の指の痕。

 まざまざと蘇る感触。息苦しくなるようなおぞましい光景。僕は、母さんで赤く濡れた。

 それは赤い炎の中に消えた?

 だとしたら、メイは?

 メイは、あの火事で——

「ちがうっ!」

 僕は大きくかぶりを振った。

「ちがう、うそだうそだうそだ! そんな、全部、夢だったはずなんだ!」

「アルルくん」

 柔らかな先生の声に、僕は少しくらくらする頭を上げる。先生の緑の瞳が、近くにあった。

「残念ながら、現実だよ」

 優しく、宣告する。

 足の火傷も、手首の痕も、先生の言葉を否定することはできなかった。だって、本当は覚えている。僕が覚えてしまっている。

 夢はず——そう思っている時点で、粗方認めてしまっているんだ。

 でも、それなら。

「なら、僕は……救えなかったの?」

 たった一人でも、救いたかったあの子を。祈りのリボンを結んだ、金色の髪のあの子を、失ってしまった?

「メイは、死んでしまったの?」

 その疑問に、ヨセフス先生は答えなかった。

 代わりのように、腕の点滴を抜いて、去っていった。

『確かめておいで』

 そう言っているかのように。

 僕はひたっと床に足をつけた。

 診療所ここの床は冷たい。あの日と同じく。

 けれど今日は、僕を止める人はいない。待合室にはちらほらと、受診に来たのであろう人たちがいるだけ。どれだけ望んでも、緑色のドレスを纏った少女はいない。

 外に出て、街を進んでいく。足がひりひりと痛い。それでも歩き続けた。擦れ違う街の人々は僕を避けていく。時折、憐れむような視線を感じた。

 一歩、進むごとに現実が近づいてくる。足の痛みのせいか、そんな実感が心を重くしていく。自然と歩みも遅くなった。

 行きたくない。見たくない。

 そんな思いとは裏腹き、僕は辿り着いていた。僕の家に。

 家場所に。

 原形なんて留めていない。壁も屋根も柱も燃え落ちて、地面に少し黒い塊があるだけのほとんど更地状態。僕の部屋や居間などは一切残っていない。唯一残っていたのは、母さんの仕事部屋の機。

 もはや炭化して、崩れゆく運命さだめしか残していないそれは、けれど織り手を失ったことを悲しむように、寂しげに佇んでいた。

 それだけ。

 これが現実。

 もし煤屋がここを片付けるなら、仕事が楽でいいだろう。

 閃いたそんな考えに、僕は天を仰いで笑った。

「はは、ははは……」

 空は快晴で、その色が目に染みた。

「メイ、君はもう、空の向こう?」

 零れた問いに、自分を笑う。

 メイは人形だ。目も顔も体も、全て布でできたただの人形。呪いのせいで動いていただけで、元々「命」なんて持っていない。

 だから「死んだ」なんて、ちゃんちゃらおかしい。

 でも、メイは死んじゃった。僕には、そうとしか思えないんだ。

「死んじゃった、の?」

「そうとは限りません」

 独り言のつもりで呟いたのに、答えが返ってきて驚く。上から、金髪の男の人が僕を覗き込んでいた。片眼鏡をかけている。その向こうには、メイのものより深い空の青があった。見たことのない人だ。

「貴方は?」

 そう問いながら立ち上がると、男の人は畏まるように片膝をついて礼をとる。

「私はメビウスと申します。アルル様、お迎えに上がりました」


 メイは走った。ずっと走っていた。

 ご主人様がメイによく言い聞かせていた。

『メイ、お前は人形だ。しかも布でできた人形だ。人間よりも遥かに燃えやすい。だから、炎には気をつけるんだよ。お前に消えてもらっては困るから。火を見たら、すぐ逃げるんだよ』

 メイはご主人様が言ったことは全部覚えている。ご主人様の役に立ちたくて、一所懸命覚えたことだ。

 だから、アルルの家からすぐ逃げた。

赤い炎がめらめらと、アルルの部屋の入口の方からやってきたのだ。

 メイは何も考えず、逃げ出した。開いたままの窓から身を乗り出して、ふらついて地面に転んだ。ドレスが土まみれになったけれど、かまわない。まず逃げなきゃ。あの炎から逃げなくちゃ。メイの頭にあったのは、それだけだった。

 けれど、起き上がって人混みを縫って走るうちに、メイは見つけた。見たことのあるご主人様の色を。どこにいてもひときわ目立つ鮮やかなあの色。

 ご主人様!

 メイはその色を追いかけた。ご主人様、ずっと会いたかった。三年間、アルルといた時間も楽しかった。でも、でも、メイは本当は、ずっとご主人様と一緒にいたかった。叶うのならもう一度、ご主人様の側に。

 できるのなら、ご主人様にアルルを紹介して、三人一緒に過ごしたい。だからただひたすらに、その色を追いかけた。

 でもやっぱり、メイの歩幅じゃ追いつけなくて。人混みがなくなってきたところで、完全に見失っていたことに気づいた。

 そして、見知らぬ場所まで来てしまったことにも気づいた。どれくらい、アルルのところから離れてしまったのだろうか。アルルは無事かな? ご主人様は、どっちに行ったのだろう。わからない……

 色んなことが頭を駆け巡って、もやもやする。ごちゃごちゃになって、ぼんやりしてきて、だんだん、走る気力もなくなってきた。

 アルル、ご主人様。

 心で何度呼んでも、二人は今、メイの側にはいない。そう思ったら、足は動かなくなってしまった。

 ここはどこ? メイはどこに行けばいいの?

 泣きたいような気分でそう思ったとき、メイは蹴飛ばされた。さらに踏まれる。一人にじゃない。踏んでいった足は四つ。とても痛かった。それなのに、まだ足音が近づいてくる。また踏まれる——!!

「あら? 可愛らしいお人形さん」

「……え」

 メイは踏まれず、誰かに拾われた。優しそうな女の人だ。触れた手がアルルによく似てあったかい。

「まあ! こんなに汚れちゃって、可哀想に……って、この靴跡。——ユノ! ジュピター!」

 女の人がメイの服の土ぼこりを払いながら言った。くるりと返されて、その人の顔が見える。さらさらとした長い金色の髪と、アルルとおんなじ灰色の目を持つ人だ。ただ、さっきの優しそうな声と裏腹に、今は怒った顔をしていた。

「ユピテル様を呼び捨てにするなと何度言ったらわかるのです、ヴィーナス」

「こんないたいけなお人形さんを踏んづけるような輩に敬称もへったくれもないわ!」

 ぷんすか怒るヴィーナスと呼ばれた人。そこに長い黒髪を一つに結い上げた女の人と、その人より頭一つ分背の低い赤髪の男の人が近づいてきた。男の人の方は眼鏡をかけている。

 きつい目をした女の人とヴィーナスをなだめるように眼鏡の人が間に入る。

「まあまあ、ユノ。今回のところはヴィーナスの方が正論だよ。ヴィーナスも、ぼくら謝るから、落ち着いて」

 すると、目線でばちばちといがみ合っていた二人は、ふぅ、と少し息を吐いて距離をとった。

「ユピテル様が、そう仰るなら」

 黒髪の人が、メイを見て頭を下げた。

「落ちているのに気づきもせず、申し訳ございませんでした」

 丁寧な口調で言うと、その人が顔を上げた。透明感のある茶色い瞳と出会う。なんだかこの人、ご主人様に似ている?

「いやぁ、本当にごめんね」

 そんな思考を遮るように、眼鏡の人が言った。申し訳なさそうにして、頭を掻いている。

「あんまり強そうな結晶に見えたから、ちょっと抹消イレイズ強めで踏んじゃった。相当、痛かったでしょ?」

「ほえ?」

 眼鏡の人の発言に、メイが首を傾げると、なんか周りの空気が固まった。黒髪の人も、メイを抱えたままのヴィーナスも、凍ったように動かない。

「って、おいおい。冗談だろ。ジュピターの呪詛破壊受けて無事とか」

 ヴィーナスの後ろから、おっきい男の人がメイを覗き込んで呟く。メイはちょっとわけがわからない。

「ともあれ」

 凍った空気を溶かすように、眼鏡の人は言った。

「この出会いは偶然ではなさそうだ。はじめまして、人形のお嬢さん。ぼくは呪詛破壊者のジュピターといいます」


 こうして、運命は動き出す。



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