災厄の夢
「中から一人、出て来たぞ」
「子ども、子どもだわ。機織りマーガレットの息子さんよ」
「そうか、無事だったか。よかった」
名前も知らないおじさんやおばさんが、僕の方に寄ってくる。口々に「よかった」と口にしながら。
よかった? 何が?
僕は混乱した頭で自分の姿を見下ろす。ずいぶんと血まみれだ。手も足も服も。左腕なんか特に酷い。点滴を抜いてそのままにしていたから、針が刺さっていたところから、とろとろと赤いものが流れ出している。それ以外の血にもまみれて、何が何だかわからない。その上痺れてろくに動かないし、感覚がない。
そんな左腕がだらんと垂れた先には、母さんの指の痕がくっきりとついた足首。痕の部分がひりひりと痛い。見ただけであの指の感触がまざまざと蘇る。
そこから視線を逸らして、右足、右腕と顔を上げていき、右手首を見て固まる。そこにも赤く、握りしめられた痕があった。杭で吊り下がっていた、母さんの腕。綺麗なままだった腕を思い出して目を閉じる。
いやだ! なんでこんな……
その場にへたり込む僕。目の前には赤々とした炎に包まれ、黒い煙を上げている家。炎はぎらぎらとその存在を誇示するように揺らめいていた。
「おい、きみ、大丈夫かい? 怪我は?」
訊ねてくる街の人の声が遠く聞こえる。僕は言葉の意味をろくに
怪我なんてしていない。傷なんてどうでもいい。それよりなぜ僕の家が燃えているのか、誰か、説明してほしい。
そんなことを思いながら、家を呆然と見つめていると、まだ火の手が回っていない窓にちらり、と炎ではない赤が見えた。炎よりも血よりも、鮮烈な赤──赤い髪。
赤い具者! なぜここに?
思うと同時、立ち上がって、後ろを見る。街の人々の中に、あの赤を見出だすことはできなかった。
「アルルよ、オレの作り上げた
しかし、その声が頭に流れ込んでくる。
「ナイト、メア……
よく働かない頭で、具者の言葉をそう解釈する。
夢。そう、これは夢だ。悪い夢なんだ。赤い少年が出てきた、あの夢の続きなのかもしれない。だって、あの子によく似た赤髪の男が出てきた。家も、ほらそう、あの空間みたいに黒くなっていく。
『早く、早く』
赤い少年の歌が聞こえて、ふとあの絵本の一節が蘇る。
そこで、見つけた。
黒い手。
この火事で死んだのは、茶色いのただ一人だと聞いている。だから、そういうことなのだろう。
黒い手は何かを求めているようだった。だからそこに僕の手を重ねたら──
それはぼろぼろと崩れて消えた。
「あ……」
とっさに閃いたのはメイの顔。
部屋に置いてきたままの友だち。
母さんの手、マグとホリー、メイ。みんなあの手のように、黒く崩れて消えてしまうの? ──そんなのは、いやだ!
僕は駆け出していた。
「おい、何やってるんだ!」
「離してください」
僕の肩を掴んだ人の手を思い切り振り払う。羽交い締めにされそうになるのを、乱暴に身を振って抜け出す。
「行かなきゃ!」
『早く、早く』
赤いのの歌が急き立てる。
「正気か!?」
「正気じゃないです!!」
言い捨て、走り出す。
正気なわけがない。これは夢、夢なんだ。元々正気じゃない。
でも、それでも失いたくないものがある。失いたくない人がいるんだ!
崩れかけの玄関をくぐって、真っ直ぐ僕の部屋へ。
しかし、辿り着いたそこは、完全に火の海だった。
クローゼットも本棚も皆、燃えている。本棚は崩れて、そこに納められていた本たちが炎を纏って床に散らばっており、足の踏み場もない。それでも諦めきれず、火の中に一歩踏み入れる。じゅう、という音がした。痛くない。痛くなんかない。
「メ、イ……!」
呻くような声しか出ないのがもどかしい。叫びたいくらいなのに。メイ、メイ、そこにいるんだろ?
「メイ……っ」
返事をして。
「メイ、メイ、メイ!」
熱気が口に入ってきて、喉が焼けるような心地がした。けれど、返事はない。メイもこの熱気の中で声を出せずにいるのか?
そう思い、机の方へ手を伸ばし──ようやく気づいた。
そういえば、そう。この部屋のものは
既に半壊した机にすがりつくこともできずに立ち尽くす。もう窓すら見えない。
がらがらと、色々なものが崩れ落ちていく。
「そんな、メイ、メイ」
からからの声で名前を呼ぶ。
ねぇ、どこにいるの? メイ。家を探検しているのかな。いっつも何かしら欠けさせて戻ってくるじゃないか。僕はとても心配しているんだよ。
名前を呼んだら出てきておくれよ。それじゃ出会ったときに聞いておいた意味がないじゃないか。
ねぇメイ。メイ。
僕がこんなに呼んでいるんだから君も応えてよ。「アルル」って。それが僕の名前だって、教えたでしょ?
部屋を出て、ふらふらと廊下に出る。居間はもう抜けられない。メイは向こうにいるだろうか。でも、居間を抜けた先は、母さんの部屋だ。
ああ、母さん。貴女はこの夢の中で、灰になってしまうんですね。茶色いのみたいに。
思ううち、服に火が燃え移る。
メイも見つけられず、母さんも守れない。なんて夢の中の僕は、滑稽で無力なんだろう。
こんなことならいっそ、僕も燃えてしまいたい。いや、もしかして、僕が死ねば、この夢は覚めるのか。
「そう、なら」
きっと、目覚めたら。
「またメイや母さんに会えるよね」
それならば躊躇など生まれやしなかった。
僕は部屋の火の海に身を投げた。
数時間後、火はどうにか消し止められた。他の家に飛び火することはなかった。
だが、機織りマーガレット宅は全焼。飛び火がなかったのは奇跡と言えよう。
家主であるマーガレットは行方知れず。この火事で亡くなったと思われるが、遺体は発見されていない。
その息子、アルルは意識不明ながらも、どうにか一命をとりとめ、町医者ヨセフスが怪我の治療をしている。
「ったく、あいつめ。厄介な役回りを私にばかり押し付けおって」
そう愚痴る茶髪の町医者は、移した視線の先で眠る黒髪の少年を見、眉をひそめる。
「本当に、嫌な役だ」
ヨセフスは手元を見下ろす。その手の中には「僕の可愛い黄色い人」が握られていた。彼が以前、アルルに読み聞かせた本だ。
「なあ、どうしてこうなった? ——ルよ」
目を開けると、そこは白い天井、白い壁、白いベッド。ほとんどが白で統一された清潔感溢れる部屋。見たことがある。ここは診療所だ。僕はやっと、目を覚ました。
起き上がろうとすると全身に痛みが走った。ぐ、と呻くけれど……あれ、メイがいない。
嫌な想像が脳裏をよぎる。が、それを振り払うように首を横に振ると、頭がずきずきと痛んだ。
「アルルくん、いきなり動かない方がいいと思うよ。何せ今度は十日も寝込んでいたんだから」
声の方を見れば、淡いカーテンから、ヨセフス先生が入ってきた。
「瀕死の重症、といっても過言ではなかったんだからね。体の怪我は少なく済んだけれど、火のせいで起こった有毒ガスを吸って、虫の息だったんだ」
え?
待って。何? 火? 火って。それに先生、「今度は十日も」と言った。それはつまり。
「先、生。僕の、家は?」
恐る恐る、問いを口にした。
先生はさらりと答えた。
「全焼したよ」