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第捌話 ちぞめのしろいはなたばを

 血染めの白い花束を


 白い壁、白い天井、白いベッド。

 アルルの家から初めて外に出て、やってきたのは診療所、だった。メイがアルルを助けて、と叫んだのを聞いてくれたのがお医者さんだったのだ。

 お医者さんの名前はヨセフス。優しい緑色の目をした男の人だ。なんだか優しい雰囲気を纏っている、不思議な人だ。

 ヨセフスの手当てのおかげで、アルルは目を覚ました。アルルはアルルが生きていることをなぜだかとても不思議がっていたけれど、メイはとっても嬉しい。

 アルルが目を覚ましたから、メイはアルルといっぱいお話をしたかった。でも、アルルは右目のことを話したら、「母さんは?」って言った。

 信じられなかった。アルルは何よりもまず、あの怖いおかーさんのことを心配するのだ。アルルをこんなに傷つけたのはおかーさんなのに。アルルの右目を奪ったのは、あのおかーさんなのに!

『やめて、もうやめてくれ。もう何も話さないで喋らないで聞かないで。僕のことなんか気にしないで。メイは大事な友だちだけど僕と一緒にいちゃいけない触れあっちゃいけない……母さんはあんなことするけどそれでも大事な人なんだ。家族を失った悲しい人で僕が僕だけが守れるたった一人の人なんだ。守るって言った人なんだ……だからもうやめてやめようやめてくれ。もう嬉しいとか悲しいとか感じないで。泣いたり笑ったりしないで。動くのもだめだ』

 そう言って、メイを止めた。

 アルルは泣いていた。いっぱい、いっぱい泣いていたんだ。

 それなのにおかーさんがいちばん大事だって言って。言いながら苦しんで、おかーさんのところに行きたいって、お部屋を出て行っちゃった。まだあんなにぼろぼろですごく苦しそうなのに。

 ヨセフスがそれを止めに行った。メイにはここで待っていてほしい、と言って。

 本当は嫌だったけれど、メイはそれに頷いて、ベッドに座って待った。だって、メイの歩幅じゃアルルに追いつけない。

 メイはアルルと会ったときよりちょっとだけ大きくなった。でも、アルルもずっと大きくなった。

 知っている。人間はどんどん、子どもから大人になっていくんだ。そのために大きくなっていく。

 人形は違う。本当なら、作られたときの大きさから変わることなんてない。メイは呪いをかけられて動いているからちょっとずて大きくなっていくのだけれど、アルルに追いつくにはまだまだ差がありすぎる。

 人形は、そうでなくても置いてけぼりにされるものなのに——

 そんなことを考えていると、入り口のところのカーテンが揺れて、ヨセフスが戻ってきた。アルルを背負っている。アルルは目を開けていない。

「アルル!?」

「静かに」

 ヨセフスはベッドにアルルを横たえながらそう言った。「眠っているだけだよ」と教えてくれた。たしかに、息はしっかりしている。ただ、汗の量が尋常じゃない。

「アルル、お熱ひどい」

「ああ、今氷水を持ってくるよ」

 ヨセフスはすぐ桶いっぱいの氷水とタオルを持ってきた。タオルを水に浸けて、しぼろうとするのをメイは止める。

「メイがやる」

「そうかい」

 ほれ、と渡されたタオルは冷たくて重かった。でも、メイがアルルにできるのはこれくらいだから、いっぱいしぼった。

「アルル、何があったの?」

 タオルをアルルの頭に乗せてから、メイはヨセフスと向かい合った。ヨセフスは苦く笑う。

「無理のしすぎだよ。体はもちろん、心もね」

 ヨセフスの言葉に胸のあたりがきゅっと痛くなった。

「よほど、お母さん思いなんだね」

 ヨセフスが優しく、アルルの黒い髪を撫でる。その顔はなんだかとても悲しそうだった。

「きみも、厄介な血筋に生まれたもんだねぇ。そうでなきゃ、私だってあんな本、読みはしなかったのに」

 ヨセフスはアルルに語りかけているようだ。……あの本?

「ヨセフス、本って?」

「これさ」

 ヨセフスは一冊の絵本を示した。「僕の可愛い黄色い人」——これって。

「メイ、知ってる。アルルのおうちで見たことある」

「おやおや」

 ヨセフスは驚いた後、また苦笑いを浮かべた。

「なら、その本は大切にとっておきな。アルルくんにとって、とても大事なことが書いてあるから」

「うん……?」

 ヨセフスの言う意味が、メイにはよくわからなかったけれど、なんとなく頷いた。

「いい子だ」

 すると、頭を撫でられた。ヨセフスは続ける。

「アルルくんが元気になったら、一緒にアルルくんのお母さんのところに行ってあげよう」

「うん」

 アルルのおかーさんは怖い人だけれど、アルルの大事な人だから。

 たぶん、メイがアルルのこと、心配なのとおんなじなんだ。だから、アルルがおかーさんのところに戻れるように……

 戻るためには、メイはちゃんと「人形」にならなきゃいけないのかなぁ。マグとホリーみたいに。

「メイちゃん」

 考え込むメイに、ヨセフスは言った。

「きみは、きみのしたいようにすればいいんだよ」

 そう言われた瞬間、その言葉が三年前のあの雨の日と重なった。

 あの日、雨の中でご主人様はメイに言った。

『あとは、お前がやりたいようにやればいい』

 そう言って、ご主人様はメイをあの場所に置いていった。

 本当はあのとき、ご主人様と離れたくなかった。ご主人様とずっとずっと、一緒に過ごしていくんだと、そう思っていたから。ご主人様の背中を追いかけたかった。でも、雨の中で上手く動くこともできなくて、足の速いご主人様の背中を、すぐ見失ってしまった。

 あれは辛かったけれど、だからアルルと出会えた。それがとても嬉しい。アルルと一緒にいられるのが楽しい。

 アルルとずっと一緒にいたい。

 それがメイの今の気持ち。いちばんやりたいこと。

 三年間、ずっと楽しかった。アルルはメイに知らないことをいっぱい教えてくれた。なんてことないメイの話を笑って聞いてくれた。こっそり探検して、ボタンを落としちゃったり、膝をすりむいちゃったりしたときも、痛くないようにって直してくれた。

 アルルは優しい。——その優しさに、触れていたい。

 でも、アルルがおかーさんの所に戻るのなら、メイは「人形」になるか、アルルと離れなくちゃいけない。

「ねぇヨセフス、どうしたらいいの?」

 ヨセフスの緑色を見上げるけれど、彼は笑んでいるだけで答えない。

 とりあえず、今のメイにできるのは、眠るアルルを見守ることくらい。そう思って、アルルの横顔を眺める。

 アルルはメイのこと、どう思っているのかな。


 目の前に広がる黒い空間。

 見覚えのある黒さに、ああ夢か、と納得する。以前と違って眠っている自覚はあったから。それでも以前感じた浮遊感というか、現実味のなさは変わらない。夢だから、当たり前だけれども。

「ははっ、本当、あいつそっくりに育ってやがる」

 嘲りを含んだ声が後ろからする。振り返るとそこには赤髪の少年が立っていた。燃え立つような鮮やかな赤い髪と時折ちらりとほむらが射す威圧的な茶色い瞳。そう、その子は「僕の可愛い黄色い人」の赤いのだ。それに、マグとホリーを通してか、少しだけ見えた赤い具者にそっくりだ。

 赤い具者。

 同い年くらいの少年の姿をしているのに、そう思えてならなかった。

「赤い具者、ね。まあ、あながち、間違っちゃないけど、違うよ、——ル似のおちびさん」

 赤いのが僕の思考を読んだように言う。それに——ル、と僕の知らないはずの、聞き取れない名を口にした。僕が——ルに似ていると。

「——ルって、誰?」

 マグやホリーにも訊ねた問いを返す。すると赤い少年は腹を抱えて笑い出した。

「はははははっ! こいつは傑作だ。何も知らないとは。あいつも報われないな。それともこれさえ計算のうちか。だとすりゃとんだ極悪人だ」

 誰のことを言っているのかさっぱりわからない。ただ引っかかる言葉があった。何も知らない? 僕が、何もわかっていないということだろうか。あいつって? 極悪人? それは、誰のこと?

「色々教えてやりたいとこだけど、ちょいと五月蝿い子どもが二人、お前を呼んでいるんだ。五月蝿くてかなわねぇから、早く行ってやってくれよ、アルル」

 赤い少年が笑みを収めて言った。子ども二人? 僕に友だちはいないし、呼ばれるような心当たりはない。

「早く、早く」

 僕が真剣に悩み始めると、赤い少年が歌い出した。嘲りも皮肉もない、純粋に美しい声に驚く。

「灰が散れば病が散る」

 紡ぐうち、赤い少年の瞳が赤色に染まっていく。

「病が散れば人が死ぬ」

 本来とは少し違う歌詞——そう思った途端、胸を焦燥が駆け巡る。

 行かなきゃ、行かなきゃ。帰らなきゃ、家に。

『アルル、アルル』

『アルルお兄ちゃん!』

 呼ぶ声が聞こえる。聞いたことがある。男の子が二人。姿も鮮明に思い浮かぶ。金髪と黒髪のくせっ毛を持つ双子の人形。瞳は青灰色。母さんと同じ色——


「母さんっ!!」

 飛び起きる。

 部屋は暗く、窓から射す光も到底明るいとは言えない。月と星がちらちらと照らすだけ。どうやら今は夜のようだ。

 左腕を見る。針が綿とテープで固定されていて、チューブが上の方に伸びていた。見上げれば、前に見たときは血液パックだったそれは点滴に変わっているようだ。あれから何日経つのだろう。

 動いても、前のように痛みはない。右の視界が少し足りない気もするけれど、元々大して右の視界は使っていなかったのだ。かまいはしない。

 ただ、動くのに左腕の針は邪魔だな、と静かに医療用テープを剥がし、綿を取る。それから慎重に針を抜いた。

 そこからは何にも構わず僕は歩き出したひたひたと冷たい床の上を歩く。ここを出て、目指すのは家。母さんがいるはずだ。僕の部屋にはボタンの目のマグとホリーもいる。あの子たちが、呼んでいる。

 呼んでいたのは夢の中でのことなのに、僕は真に受けていた。なぜって、二人の声が痛切に、僕に助けを求めているような気がしたんだ。二人と初めて会ったあの日みたいに。けれどあの日と違って、二人はちゃんと僕の名前を呼んでいる。——ルではなく僕を。

 それに、マグとホリーに付随して浮かんでくるのは、やはり母さんの顔。ヨセフス先生が僕を助けてくれたときは、誰の反応もなかったと言っていた。先生は後で様子を見に行ってくれると言ったけれど、今はもう待てない。

 僕の足は自然と早くなっていった。

 出入口は待合室のすぐ側だ。待合室には今、誰もいない。そこを走り抜けようとしたとき、くい、と服の裾を引かれた。

「アルル」

 振り向くと、僕の名を呼ぶ金色の髪の女の子。前髪を結うリボンの桜色が、窓から射す月光に冴えた。

「アルル、どこ行くの?」

 静かな問いは僕の頭に直接響くように聞こえた。りん、と耳鳴りがする。疼痛がじんじんと左腕を痺れさせていく。

 けれど僕は進むのをやめるつもりはなかった。故にメイを右腕で抱き上げ、その空色の瞳に応えた。

「母さんのところだよ」

 そう答えて、走り出した。

「ちょっと、アルルッ!?」

 だめだよ。もう僕は立ち止まらない。

 母さんのところへ行くって決めたんだ。母さんを守らなくちゃ。たとえメイであろうと、それを邪魔するのは許さない。

 僕は行くんだ。


 その先に何が待つかも知らず、少年は街を駆けた。


 家に着いて、僕は鍵の開いていた自分の部屋の窓から入る。メイも連れてきてしまったから、いきなり母さんと顔を合わせるわけにもいかない。

 そんなことを考えながら、メイを抱えて窓枠に足をかけたとき、ふと既視感がよぎった。なぜだろう、と思考を巡らせ、すぐ思い至る。

 メイと出会ったあの日も、こうして入ったのだ。そう、三年前。あのときはまだ僕は小さくて、メイを抱えたまま転がり落ちてしまったんだっけ。

 思い出し、なんとなく笑みが零れた。

 今はもう、転んだりしない。窓枠からそっと床に足をつける。それから右腕に抱いたメイを机の上に置き、あることに気づく。

 マグとホリーがいない。

『アルル、アルル』

『アルルお兄ちゃん!』

 夢の中で聞こえたのは、二人の声だ。ビー玉の目をなくして解放されたはずの二人。ボタンの目に変えてからも喋ることも動くこともなかったから、てっきり呪いは解けたのだと思っていたけれど。

 それとも、母さんが二人を連れていったのだろうか。

 ともかく、母さんも二人も探さなくてはいけない。窓枠に足をかけた瞬間から、僕はもう後戻りはできなくなっていた。いや、後戻りなんてするつもりは、最初からない。

「母さんを探してくる。メイはここで待っていてね」

「アルル、行っちゃうの?」

 空色の瞳は寂しそう、というより、懇願するように僕を見上げていた。──その空色が、心に痛い。

「うん、行くよ。僕は母さんといたいから」

 そう告げて、振り払うように背を向けた。でないと、揺らぎそうだった。

 メイとも一緒にいたいから。

 それは口にしなかった。それを言ってしまったら、僕はきっと逃げ出してしまう。

 今は、母さんを。

 守らなくちゃ。守りたいんだ、僕は。たとえ無力でも、側にいることしかできなくても、たった一人の母さんだから。

 部屋を出て、居間に向かう。人の気配はない。母さん、と一つ呼びかけてみたけれど、やはり返事はない。灯りを点けると、青灰色のクロスがかかったテーブルの上に花瓶と花弁があるだけ。異様なのは花瓶に挿された花に一枚ひとひらたりとも花弁がついていないこと。

 その分、白い花弁が大量に散らばっていた。

『嫌い……』

 そう呟いて花弁を千切る母さんの声が蘇る。

 僕を刺してからもずっと、続けていたのだろうか。あのどこか虚しい儀式を。「好き」と「嫌い」──最後はどちらで終わったのだろうか。

「母さん……」

 灯りを消し、居間を出ていく。台所や風呂場も探したけれど、いなかった。

 仕事部屋も暗いまま。窓からの月明かりに母さんの機が照らされている。なんだか、織り手を待っているように見えた。

「母さん」

呼んでみるけれど、答えはない。機に残る思い出が、残像のように母さんの面影を思い起こさせる。

 表情の変化に乏しく、口数も少ない母さんは街の人々から無愛想と思われているけれど、布を織るときの顔は違う。あからさまに笑ったりするわけでもないが、無表情ではない。とても真摯な眼差しをしているのだ。

 きっと、祈りを込めているのだと思う。誰より呪いに苦しんだ人だから、他の呪いに苦しむ人の力になれるようにと言っていた。そんな願いを込めているのだ、と。

 ねぇ、母さん。もう一度、布を織るのを見せてよ。機織り、興味があるんだ。でも、メイが一緒じゃ、やっぱりだめかな?

 心の中でそんな問いかけをし、隣の部屋の前に立った。少し緊張する。指折り数えるほどしか入ったことのない、母さんの寝室。

 こんこんこん。

 三回、ノックをする。返事はない。僕を急かすように、風が足元を通り抜けた気がした。悪寒がぞくりと背筋を凍らす。

 それでも。

「母さん、入るよ」

 僕は意を決して扉を開けた。するとむわっとした生温い空気が流れてくる。若干ではあるものの、ここまでとの温度差に驚く。

 しかし、目立って原因のようなものは見受けられない。というか、薄暗くてよくわからないというのが実情だ。

 とりあえず、灯りを点けよう。そう思い、一歩踏み出すと——

 がしっ

 誰かの手が、僕の足を掴んだ。その冷たさに、ひっと声を上げかけ、息を飲む。

「アルル」

 望んでいたはずの人の声は、少し不気味にしわがれていた。でもわかる。僕の名を呼ぶその声は紛うことなく母さんのものだ。

「母さ」

 僕は足元に視線を落とし、呼びかけて硬直した。

 視線を落とした先には、骨と皮ばかりのしわくちゃの手。それを辿った先にはゆるく波打つ、くせのある黒い長髪が広がっている。そしてその黒く乱れた髪の合間から、爛々と輝くくすんだ青い光。僕はその光に射すくめられ、声も、手足の感覚も、何もかもが凍りついてしまった気がした。

「だ、れ?」

 自分のものとは思えないほどか細い声で出たのは、わかりきった問いだった。

「アルル」

 わかっている。この声は、母さんだ。くすんだ青い瞳は、母さんのものだ。長く広がる黒髪も、母さんだ。母さんだ。わかっている。それなのに。

「アルル、アルル、アルル」

 声が、怨嗟のように聞こえる。手が違う。母さんはこんなじゃなかった。細くて滑らかな綺麗な手で、いつも布を織っていた。花を摘んでいた。僕に触れていた。

 こんな、骨に皮がついただけのような、固くてしわくちゃの手なんかじゃない。

 こんなの、母さんの手なんかじゃ、ない。

 けれど、手を伸ばしているのは母さんだ。僕の足首を掴まえているのは、母さんだ。

「かあ、さん」

 どうにか呼ぶ。

「アルル、アルル、アルル」

 返ってくるのは名を呼ぶ声。狂ったように僕の名を繰り返し続ける。

「母さん!」

 たまらなくなって、青灰色の光に叫ぶ。すると途端に、ぴたりと名を呼ぶ声が止んだ。

 代わりに言う。

「……うは、どこだ?」

「母さん?」

「……ん……うだ!」

 母さんの声が途切れ途切れで聞き取れない。

 僕がわからず、首を傾げると、苛立ったように母さんが声を張り上げる。

「あの人形だ! あの人形は、どこだ!?」

 叫んだ瞳には、見たことがないくらい恐ろしい光が——殺意が湛えられていた。僕は身を退こうとして、母さんの手に足を取られ、尻餅をつく。ぺしゃり、と床についた手が何かを潰した。

 その何かの正体を知る前に、ころろ、という音がした。その音の方向を見ると、月明かりにちらりと光る丸いボタン。そのボタンが転がってきたらしい方向に目をやる。嫌な予感がした。

 そのボタンは見覚えのある色をしていたから。

「あっ……あっ……」

 その先にあったのは、片目の欠けた人形の首。髪色が薄いくせっ毛の男の子の顔だ。

 つい、と目線を横に動かせば、同じような顔の黒髪の男の子の首。こちらは両目がついているものの、かろうじて取れていないだけで、だらんとボタンが鼻の辺りまで垂れ下がっていた。

 マグ、ホリー……

 頭の中で名を呟くが、答える声はない。

「人形、殺さねば」

 ただ、母さんの声がはっきりと言い放つ。

「まさか、マグとホリーを、母さんが?」

 引き千切られたような二人の人形の首と、母さんを交互に見る。

 信じられない。信じたくなかった。だって、マグとホリーは呪いで人形に変えられてしまったけれど、母さんの実の弟だ。この現状を母さんが作り出したというのなら、母さんは、母さんは、弟二人を、手にかけたということなのか!?

「嘘でしょ? 母さん」

 現状を否定してほしくて母さんを見つめる。けれど、母さんは——

「殺さねば。人形は、殺さねば。殺さねば殺さねば。人形を、殺さねば!」

 そう繰り返すばかりである。

「ねぇ、母さん」

 僕は母さんに手を伸ばす。すると今度はがしりと掴まれる。

 上?

 方向がおかしい。僕の伸ばした手は母さんに届くまでにはまだ遠く、掴まれるような距離ではない。それに僕の足を掴む母さんの手は、這いつくばるような格好で伸ばされている。上からなんて、おかしい。

 それに、僕を掴む手が何かに濡れているのは一体——?

 それを見て、絶叫した。

 母さんの片腕が、壁に刺さった杭に引っかかって、宙ぶらりんになっていた。二の腕の半ばから先が。

 皮肉なことにその手は血まみれでありながらも、柔らかく滑らかな、母さんとわかる手をしていた。

「ああああああああああああああああっ!!」

 叫ぶことしかできなかった。声の限り、泣き叫ぶしか。現実があまりにも明らかすぎた。

 けれど母さんの手を振り払うこともできず、僕はふと目を開け、ぎくりと固まった。

 目の前に母さんの顔があった。

「にん、ぎょう……人形を」

 息がかかるほどの距離。母さんはいつのまにか起き上がっていた。僕とくすんだ青の瞳がかち合う。ゆるく波打つ母さんと僕の黒髪が触れた。

 母さんは言う。

「人形を、殺さねば。人形は、呪い。呪いの人形。呪いは恐ろしい。全てを奪うモノ。私から、全てを奪った。呪い、恐ろしい。呪いは、絶やさねば。絶やす。根こそぎ、絶やす絶やす。殺す。そう、殺す。人形、殺す。呪いは、生きていてはならない。だから、殺す、殺す、殺す。殺さなきゃ、私が呪いに殺される。あの子が人形のろいに囚われる。だから殺す。それはいや。だから殺す。さあ、人形はどこ? どこだ? 殺す。殺さなくては。あの人形を、呪いを、呪いを……アルル、アルル、さあ教えて、教えろ、教えなさい……!」

 言葉を刻みつけるように、母さんの指が、手に、足に食い込む。しわがれておぞましいはずの声が、なぜだか微かに嘆願を含んでいるように聞こえた。

「母さん」

 震える声で呼んでみる。母さんは「教えろ」と繰り返すばかりだったが、僕は続けた。

「人形って、メイのこと? メイならいるよ。一緒に来たんだ、この家に。でもね、悪い子じゃ、ないんだよ……殺さ、ないで」

 母さんは答えない。ぎらついた目が一つ、僕にメイの居場所を問い続けるだけだ。

 一つ?

 ちょっと待って。なぜ今まで気づかなかったのだろう。僕をずっと見つめる目は一つ。青灰の光は、見つけたときからずっと一つだ。それはおかしい。普通、目は二つなのだ。髪に隠れているわけでもないのに。

 そこではたと気づく。直後、気づいたことに後悔する。

「い、やだ……」

 さっき手で潰した何か。その残骸が僕の掴まれた掌に貼りついていた。ぐぐぐ、と手を返してみる。そこは赤にまみれていた。けれどその中に一つ、くすんだ青——月明かりの中でそれは、しっかりその色に輝いていた。

「あ、あ……ああっ!」

 母さんの髪から垣間見えた右側の眼窩は、ただ黒く、空ろな穴を開けていた。

「アルル、アルル、アルル」

 その眼窩から頬を伝っていくのは、涙ではなかった。

「人形! 呪いを、呪いの人形を、絶やさねば! 殺さねば! 死ぬ、死ぬ、死ぬ! また死んでしまう。みんないなくなってしまう。そんなのはもう、いやなの! だからアルル、教えて、教えて。死んでしまう」

 僕は言葉を失った。

 死んでしまうって、母さん……貴女あなたは、もう。

 それを口にするのが嫌で、ぎゅっと唇を引き結んだ。

 すどんっ

 そんな音の後、母さんの声が途絶える。しん、と静まり返った中で、僕は目を開けた。それを読んでいたかのように、部屋の灯りが勝手に点く。

 残酷に現実を照らし出す。

 部屋中に散乱した赤、目の前に倒れ伏す人。その人の体は、なぜか腰から下がなかった。どこだろうと視線を彷徨さまよわせると、ベッドの上に引き裂かれた足が二本。思わず目を逸らすと、机の上に小さい何かが二つ、座っている。僕の見間違いでなければあれは、と目線を傍らの人形たちの首へ。間違いない、と二つの首を見て確信する。

「マグ、ホリー、母さんっ……どうして、どうしてこんな……!」

 床に臥せって泣こうとしたところで、更に新たなことに気がついた。

 足も手も、自由だ。

 なぜ? と顔を上げれば、一本の斧。斧は僕の足を掴んでいた母さんの腕を半ばから断ち切っていた。もう一方の手の方は、単に力を失っただけのようだが。

 足首を、まだ手が握りしめている。

 まだそこに命があるように。

「あ……母さん、か、あさん?」

 手を伸ばす。食い込む指に温もりを求めて。

 しかしそれは、叶わない。

 ぼとりと、母さんの手が足から離れた。触れようとした指先が、一瞬だけその肌を掠める。

 冷たかった。

「母さん」

 もはや物言わぬ冷たい骸に、僕は呼びかけた。

「母さ、ん……母さああああああんっ!!」

 手に触れる。髪に、顔に、頬に。冷たい。どれも異様に冷たかった。さっきまで、喋っていたのに。冷たい。もう、動かない。

 冷たい。床よりも、部屋よりも、家の空気よりも——いや、空気? 開けっ放しの扉から入ってくる空気は、生温い?

 深呼吸をしようとして、咳き込んだ。

 熱い!

 なぜ、どうして! その答えを求めて、ばたばたと玄関へ急ぐ。

 息を切らして開けた扉の先、外の空気を吸い込んだところで、目の前の光景に硬直する。

 人がいる。たくさん。僕の家の前に。いつもは知らないふりをする街の人々が。

 僕の家は村八分の扱いのはずだ。村八分に人々が手を貸すのは死んだときか——

 はっとして振り向く。

 僕の家が燃えていた。



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