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第漆話 ちゃいろいの

 茶色いの


 黒い黒い空間で、僕はぽつんと立っていた。

 ここはどこだろう?

 ただ黒いだけで何もない場所。手を伸ばしても何にも触れない。足だけが地面に触れている。

 どこだろうって……と僕は頭の中に渦巻く記憶に苦笑する。どこって、決まっているじゃないか。

 僕は死んだ。死んだんだ。右目をなくして、出血多量かもしれないし、ショック死かも。まあ、死因なんてどうでもいい。僕は死んだんだ。

 この真っ黒な空間は、きっと死人が辿り着く場所。だから、メイも母さんもいない。

 天国とか、地獄とか、本には色々な死後の世界があったけれど、思っていたより素っ気ない場所だ。何もないし、誰もいない。

「そんなことはないよ」

 唐突にそんなことを言う声があった。僕と同じくらいの年頃に感じられる少年の声。いつのまにか、目の前に茶髪の少年が立っていた。さっきまで、誰もいなかったのに。

「えへへ、びっくりした? 久しぶりだねぇ、。おれのこと、覚えてる?」

 その少年が僕を見て言った。ススヤと呼ばれたことに疑問を抱きながらも、同時に納得した。

 笑った少年の瞳は緑。それを見れば、自ずと答えは出た。

「茶色いの」

「正解」

 茶髪碧眼ですぐに思い当たるのは「僕の可愛い黄色い人」で早々に死んだ茶色いのしか思いつかない。案の定、それは当たっていたようだが、絵本の中の人物が、なぜここに?

 そう考えていると、茶髪の少年は切なそうに眉をひそめた。先程もそうだったが、考えていることが伝わっているのだろうか。

「僕はアルル。ススヤじゃないよ」

 そこで敢えて、名乗ってみた。すると少年が「やっぱりそうか」と呟いた気がした。口は引き結ばれていたが。

「そっか、アルルくんか。教えてくれて、ありがとう。どうやら人違いだったみたいだ。でも、きみはおれを知ってる。なんだか妙だね。あいつの差し金かな?」

 茶色い子の疑問符に僕はぼんやりと思い浮かべる。あいつ——赤いの。母さんから聞いた赤い具者によく似ている、この子の友だち。

「ねぇ、もしかして君は、本当に生きていた人なの?」

 あの絵本はなの?

 心の中で続けて問うと、茶色い子はただ笑った。何も口にしなかった。

「おれはススヤを迎えに来たんだ」

 ただそれだけ言った。

「きみはススヤじゃないんなら、おれはもう用はないよ。きみはお帰り、きみの在るべき場所へ。きみはまだ、おれと逝くべき人じゃない」

 そう続けて、茶色い子は僕の肩をとん、と優しく突き放した。

 瞬間、後ろから光が射すように、白く塗り潰されていく。黒の世界から僕が遠のいていく。茶色い子は黒の彼方に消えた。

「——ル」

 ふと、呼ぶ声が聞こえた。真っ白になった世界に、その声が谺する。懐かしい。僕の名前を呼ぶ、黄色い髪の女の子——

「——ル」


「アルル!」

 うっすらと目を開けると、飛び込んできたのは空色の瞳。僕はその布の目にただただ驚いた。目をぱちくりさせようとして、右側が痛み、思わず呻く。

「わ、アルル、大丈夫? 無理しちゃだめだよ」

 黒糸で一文字いちもんじに縫われた口で言う女の子はさらさらした金糸の髪をしていた。前髪を桜色のリボンで上げている。

 なんだか、視界が滲んだ。

「かみさまはやさしいね。死んだ僕をメイに会わせてくれるなんて」

 自然とそう零れた。

 メイがいる。そう思っただけで嬉しくてたまらなくて。熱いものが胸から込み上げ、左頬を伝っていく。右目の方がずきずきと痛むけれど、そんなの、どうでもよかった。

「アルル、ちがうよ」

 感涙に浸っているところに、メイの否定の言葉が降りかかる。

 違う? 違うということはまさか……

「メイも、死んじゃったの?」

 暗澹たる思いが心中に立ち込めてくる。

 しかしメイは「それもちがうよ」とからりと言ってのけた。

「アルルは、生きてるんだよ!」

 満面の笑みでそう告げた。

 メイがはしゃぐ傍らで、僕はその言葉に現実味を感じられずにいた。なんというか、喜んでいいのかわからない。メイを見た瞬間に溢れた感情が、自分に対しては働かなかった。

「そ、か……僕、助かったんだ」

「そうだよ、もっと喜んで! わーい、わーい!!」

 メイがぴょんぴょんと跳ね回る。喜び方が微笑ましいけれど、少し五月蝿い気もした。

「おや、なんだか騒がしいね」

 そこへ、知らない男の人の声がかかる。その声の方へ向いて、どきりとした。

 白で統一された清潔感のある部屋。入り口に扉はなく、カーテンがかけられている。その向こうから入ってきたのは、白衣を着た男の人。その人は短い茶髪と緑の瞳を持っていた。

 茶色いの——?

 どくり、と心臓が跳ねる。脈打つ音が頭に響いて煩わしい。落ち着け、落ち着け。この人は色が同じだけで、大人の人じゃないか。さっき夢で会ったのは僕と同じくらいの子ども。それにあの絵本の内容が実際にあったことだとしたら、茶色いのはとっくに死んでいるはず。それはそれで恐ろしい考えだが。

 何にせよ、髪と目の色が同じだというだけで、何を取り乱しているのだろう。僕は一旦深呼吸をし、もう一度その人を見た。

 その人は白衣を着ていた。この部屋の感じからすると、ここは病院で、この人は医者なのだろうか。

「あの、貴方は……?」

「ああ、私はヨセフス。町医者だ。ここは私の診療所でね。きみは三日ほど前、その子に助けを求められた私がここに運んだんだよ」

 その人、ヨセフス先生は親切に説明してくれた。「その子」と示したのはメイだ。

「たまたまきみの家の前を通りかかったとき、その子の声が聞こえてね。非常に危険な状態だったが、回復してよかったよ」

「ありがとう、ございます」

 命の恩人なのだと思い、感謝を口にしたのだけれど、語尾がしぼんでしまう。

「戸惑っているのかい?」

 僕の思いを読み取ったように先生が訊ねてくる。僕は小さく頷いた。

「助かったのが嬉しくないわけじゃないんです。ただ……」

 僕はベッドによじ登って傍らに座ったメイの頭を一つ撫でる。桜色のリボンが揺れた。そこによぎる言葉が二つ。

『これは、始まりの物語にすぎないのだよ』

『おれはススヤを迎えに来たんだ』

 赤い具者と茶色い子。この二人の言葉に胸騒ぎがしてならない。

「大丈夫だよ、アルルくん」

 そこに優しいテノールの声がかかる。ヨセフス先生がぽんぽんと僕の頭を軽く叩いた。

「きみの右目はどうしようもないけれど、きみは生きている。生きているのなら、他に不安に思うことも、まだどうにかできるよ」

 先生の手は大きくて心地よかった。

 さりげなく、右目が戻らないことを告げられたが、薄々感じていたのでいい。それよりも気になるのは——

「母さんは? 家に、母さんがいるはずです。母さんはどうしていますか?」

 僕の発言にメイが責めるような目を向けてくる。けれど僕はそれを見ないふりをして、先生の様子を窺う。先生は、はて、と首を傾げた。

「家に入るとき、声はかけたけど、その子以外の姿は見なかったなぁ。あれから訪ねてもいないから、わからないよ」

「そう、ですか」

 僕はその返答を聞くなり起き上がった。メイや先生の制止も聞かず、輸血台にすがりついて立つ。素足のため、ひんやりと床が冷たかった。一歩、一歩、と進んでいく。

 行かなくては。行かなくては——僕はそんな思いに囚われていた。帰らなきゃ。母さんが心配だ。母さんは、母さんは、僕が守らなくちゃいけないんだ。

 けれど数歩歩いたところで足が力をなくし、かたーん、と倒れる。頭がくらくらする。針の刺さった左腕が痛い。

 それでも行かなくちゃ、と立ち上がろうとする僕を、先生が肩を押さえて止めた。

「お母さんを心配する気持ちはわかるがね、今のきみは一人で満足に歩けない。まだ何日か、安静にしていなくてはいけないよ」

「何日かって何日ですか!?」

 優しく諭す先生の言葉に、僕は怒鳴りつける。

「母さんは、僕の大事なたった一人の家族なんだ。母さんにとっても、僕は最後のよすがだったはずだ。それなのに、僕はそれを裏切った! そのせいできっと、母さんは苦しんでる。謝らなきゃ、謝らなきゃ! それに、僕は、母さんを、守ら、なきゃ……いけないんだっ……!」

「アルルくん」

 憐れむような緑の瞳が僕を見つめた。

「呪いが台頭する、こんな時代だ。一般人であるきみのお母さんを心配するのは仕方ない。でも、今のきみは、何よりきみ自身を大事にすべきだ」

「貴方に、何がわかるって言うんです!?」

 身を焦がすような焦燥感に、怒り狂って僕は叫んだ。

「母さんは、ひとりぼっちなんだ。具者にひとりぼっちにされたんだ。なら、同じひとりぼっちの僕が、僕がっ……!」

 守らなくちゃ……!

 叫びは続かない。ヨセフス先生の大きな腕の中に倒れ込むことしかできなかった。それでも、その焦燥は消えはしない。

 喘ぎながらも「守らなきゃ」と譫言のように呻く僕に、緑色の目が細められる。どこか懐かしむような光が、湛えられていた。

「ああ、あいつに似て、聞き分けのない子だな、全く」

 郷愁の滲む声がそっと紡ぐ。

「きみをそこまで急き立てるのが、強すぎる思いのためなのか、あいつの目論見の一部なのかは知らないけれどね。医師としてはやはり、きみにはもうしばらく安静にしていてほしい。だから少し、昔話を聞いてもらうよ。代わりに約束しよう。もう一度きみの家に行って、お母さんの安否を確認しておく。これで、話を聞いてくれるかい?」

 母さんのことを確かめてくれる——そう言った緑の真摯な瞳に、僕は素直に頷いた。

 そこからヨセフス先生が手を貸してくれて、僕はこじんまりとした待合室の長椅子に座らされた。

 長椅子がいくつも並ぶ傍らに背の低い本棚が壁に沿って立ち並んでいる。先生はその中から一冊本を手に取り、僕の隣に座って本を開いた。朗読してくれるようだ。

 けれど何よりもまず、僕はその本の——絵本のタイトルに驚愕した。

 表紙にはこう書かれていた。

「僕の可愛い黄色い人」

 僕の驚きに気づいているのかいないのか、低く聞き心地のよい声で先生は読み始めた。


 僕は煤まみれで土まみれの黒髪の忌み子。地主さまから特別に許されて生きている。

 僕は火事の後始末の仕事をしている。燃えて、炭になった家が灰になる前に遠くの山に運ぶ仕事だ。

 灰は人の毒になる。けれど赤い髪や茶色い髪の人たちは体があまり丈夫でない。黄色い髪の人も。だから黒髪の僕が運ぶのだ。

 僕は煤屋と呼ばれている。


 あれ、と僕は思い、ヨセフス先生の持つ絵本の表紙を見る。そこには間違いなく「僕の可愛い黄色い人」というタイトルが入っている。

 ただ、よく見ると表紙の絵が少し違う。母さんの部屋にあったのは黒焦げの家の絵だけれど、これに描かれているのは黒い少年のシルエット——いや、これは、まさか。

 見覚えのあるそのシルエットに背筋が凍る心地がした。

「どうかしたのかい?」

 優しい声に顔を上げると、先生の茶色い髪と緑色の目がそこにあった。思い浮かべた人物と重なり、更に緊張が走る。と同時、僕は安堵した。

 この人のことではないはずだ。

 そんな奇妙な安堵感を抱きながら、僕は首を横に振った。

「いえ、なんでもありません」

「では、続けるよ」


 このあいだ、学校が燃えた。学校のほとんどのみんなが避難したけれど、一人だけ死んでしまったらしい。そいつの名前は知らないが、顔は知っている。僕と同い年くらいの子どもで、僕は「茶色いの」と呼んでいた。

 茶色いのはよく僕のことをからかっていた奴の一人だ。黒髪の僕をからかったり、蔑んだりする人は多い。その中でも茶色いのはよくよく来る奴だった。赤いのといっしょに。

 赤いのは火みたいな赤い髪と茶色い目をした、やはり同い年くらいの男の子だ。僕を蔑む筆頭格で、ほぼ毎日、僕のところに来て、何かしら言っていた。

 でも、学校が燃えた日、学校に迷い込んだ僕を助けてくれたのは、赤いのだった。

 さて、僕は今、学校の跡を片付けているのだけれど、一つ、問題というか疑問が出てきた。

 茶色いのが出て来ない。

 僕は火事跡の掃除という仕事上、人の死体を運ぶことはよくあった。だから慣れているし、見つけるのも得意な方だ。

 別にそう、見つけたいわけでもないのだけれど、ちょっと気になっていた。

 茶色いのはたぶん、赤いのの友だちだから。


 どきりとした。

 先生は淡々とした語り口で読んでいるのだけれど、それが僕には煤屋が直接、僕に語りかけているように思えてならない。それを、茶色いのと似た容姿を持つ先生が読むからか、尚更、奇妙で不気味な気がした。

 しかし、ふとより奇妙なことに気づく。

 この話、おかしい。

 以前読んだ「僕の可愛い黄色い人」と違う。否、違うというか、あの話の続きのように思える。前に読んだのは、不自然な終わり方だったし。

 まさか、連作?

 いや、絵本で連作なんて。同じキャラクターで、全く異なる物語の絵本はあっても、繋がっている話なんて——

「あれ以来」

 ごちゃごちゃとした頭に、すとんと先生の声が入ってくる。

 望んでもいないのに、僕はその物語なかに引きずり込まれていく。


 あれ以来、赤いのの姿を全く見ていないんだ。どんなに赤髪の人に囲まれていても、鮮やかすぎるあの赤いのが、ちらとも見えない。

 僕を助けて怪我をしていたし、火の中で少し灰を吸ったのかもしれない。それにしたって憎まれ口の一つも叩きに来ないとは。あれからもう、七日も経つというのに。

 その代わり、黄色い子とはまめに会う。黄色い子は、最近街に来たばかりの黄色い髪の子で、あまり僕を差別しない。いや、全く差別のない、優しい女の子だ。

 僕はこの子のために炭を運んでいる。

 黄色い子はとても体が弱いらしいから、人一倍、灰の毒を受けやすいんだ。だから交わす言葉は短いし、他愛のないことばかりだけれど、支えにはそれで充分。

「おはよう、ススヤ」

「おはよう」

「仕事は順調?」

「炭運びはね」

 僕が言外に含んだことに、聡いその子は眉をひそめる。

「……あの子、まだ見つからないのね」

「うん」

 その子は学校で、赤いのや茶色いのといっしょに勉強していたそうで、茶色いのが見つからないのを気にしているみたい。

「赤いのはどうしてる?」

 僕は別な話題を振ってみた。

「普通に学校に来てるよ。ススヤ、会ってないの?」

「うん。よかった、怪我がひどかったとかじゃなくて」

「意外と丈夫みたいよ。ススヤを助けに行くときも、体の丈夫さが取り柄、みたいに言ってたし」

 意外なことを知った。火事の中で平気なんて、僕並みの丈夫さだ。

「あのときは助かったなあ。ススヤのこと、悪く言うけど、良い人なのかも。あのときはありがとうっていっぱい言ったよ。……でも」

 会話を続けようとするその子に、僕は急に思い出したことを言う。

「あ、学校」

「あらやだ、遅刻しちゃう。ありがと、ススヤ」

 じゃあね、と黄色い髪をなびかせて、その子は去った。新しくできた仮の学校の方へ。

 僕は炭運びのため、歩き始めた。

 実のところ、あの子のあの言葉の先は聞きたくなかった。なんとなく、僕もわかっていたのだ。感じていたのだ。

『さあ、運べ運べ』

 僕をからかうために赤いのが作った歌の一節だ。

 早く、早く。灰が散れば病が散る。病が散れば皆が死ぬ。働かなければ人殺し。さあ、運べ運べ。

 僕をはやしたてるための歌だけれど、僕自身、意外と気に入っていたるする。ただ、自分で歌うよりも、赤いのが歌う方が好きだ。僕は、赤いのの声が好きなのかもしれない。

 だからかな。あのときの一節が、違って聞こえたのは。

『寂しそうだった』

 きっと黄色い子は、そう言おうとしたにちがいない。僕にだってわかったのだから。

 茶色いのがいなくなって、赤いのの中で何かが欠けた。だからあんな、力ない声だったんじゃないかって。


「そんなの、らしくないよ。赤いのじゃない」

 ヨセフス先生の声が、そこで不意に止まる。不審に思って先生を見上げると、先生はなぜだか、きょとんとしていた。

 文章をまじまじと見つめている。それから、心底可笑しそうに声を立てて笑った。傍から見ているだけの僕は、訳がわからない。

「先生?」

 不審の声を上げると、先生は「すまんすまん」と笑いを収めながら言った。

「いや、あいつがそんなんだったとは」

 その一言は、果たして誰を指してのものだったのだろうか。

 それを問う前に、先生は一つ咳払いをし、続きを読む。


 そんなの、らしくないよ。赤いのじゃない。

 だから僕は欠けてしまったその何かを——茶色いのを、探しているのかもしれない。

 余計なお世話と言われるかな。

 辿り着いた山に炭を放りながら、自分の考えにほんのり笑った。

 灰が少し口に入って、ざり、と音を立てた。少し苦い味がして、やはり笑った。

 仕事の話に戻ろう。

 当たり前のことだけれど、炭はまず外側から片付けていく。外からの放火でないかぎり、外側の方が原形を留めていて運びやすい。それに外側から片付けなきゃ、内側のものも取り除けない。

 ただ、内側に近づくほど、火元にも近くなるので、灰に崩れてしまうのは早い。そこが煤屋稼業の微妙なところだ。

 だが、結論は単純。早く運べばいいのだ。

 この仕事は早さがものを言うのである。

 とはいえ、学校となるとなかなか大規模なもので、七日そこらで終わるものではない。十日目を迎えようとする今、ようやく外側の壁や柱の大部分を片付けたところだ。

 それによって露になった内側というのが、これまたなかなかな惨状だった。教室だったのであろう場所に並ぶ机の残骸。机、椅子は生徒の数相応な分だけあるのだろう。おまけに教卓もあるし、黒板もしっかり残っている。これだけ運ぶとなると、かなり骨がいるな。

 しかし引っかかるのは、この期に及んであれが見当たらないこと。

 茶色いのの死体。

 茶色いのの家族から捜してくれとか、頼まれてはいないのだけれど、人が灰に還ってしまうのは、なんとなくいやだ。だから見つけてあげたかった。たとえ、茶色いのがいやなやつだとしても、こんな煤の中に埋もれるのは悲しすぎる。

 煤にまみれるのは、煤屋だけでいいんだ。

 そうは思えど、外側を取り払ってからしなければならないのは、第一に火の出所の確認。そこが一番灰になりやすい場所であるから、真っ先に運ばなくてはならない。

 茶色いのはそれから、と後回しにし、当時学校にいた人たちからの情報を思い出す。火の手はだいたい校舎の真ん中から上がった、とほとんどの人が言っていた。

「真ん中、真ん中」

 呟きながら、感覚的に燃えた一体の中央となる場所に向かった。

 そこで——


「やめてくださいっ!!」

 僕は叫んで、先生の手から本を叩き落としていた。

 続きを聞きたくなかった。何かとても、嫌な予感がしたのだ。物語ほんの向こうで、赤い具者が嘲り笑っているような、そんな。

 ヨセフス先生は僕の突飛な行動に動じた様子もなく、黙って本を拾った。

 本を開く。

「やめてくださいって、言っているでしょう!?」

 僕は先生の手と本を掴み、引き剥がそうとする。けれど本を持つ先生の手は固く、僕の手は簡単に払われてしまった。

「一度始まった物語は、終わらせなくてはならない」

 先生は言う。

「終わるにはね、進まなければいけないんだよ」

 向けられた眼差しが、夢で会った茶色い子のそれと重なる。

「きみには酷なことだけれど」

 そう言ったのは先生か、茶色い子か、はたまた二人ともなのか、僕には判別がつかなかった。

 緑色の目はどちらも、憐れみの光を湛えていた。

 物語は続く。


 そこで、見つけた。

 黒い手。

 この火事で死んだのは、茶色いのただ一人だと聞いている。だから、そういうことなのだろう。

 黒い手は何かを求めているようだった。だからそこに僕の手を重ねたら——

 それはぼろぼろと崩れて消えた。


「うわああああああああっ!!」

 絶叫した。

 襲いくる痛みに、衝撃に、僕はただ叫んだ。本から伝わってくる得体の知れない絶望ナニカが、全身を刺し貫く。実際の僕は、ただ椅子の上でのけぞっているだけだ。この痛みは錯覚。そう頭が認識したところで、本物の痛みがついでのようにやってくる。右目が、右目が、熱い、痛い、痛い。

 ああ、まるでマグとホリーの記憶を見たときのようだ。本の中から、先生の声から流れ込んでくる言葉にならない何かが、どうしようもなく、苦しい。

 もがき苦しむ僕を見て、さすがに先生も耐えかねたのか、本を置く。僕を横から支え、背中をさすってくれた。その大きな手は、温かかった。

 けれど、そうしながら先生は紡いだ。

「思えば、おかしなことはいくつもあった」

 その絵本ものがたりの続きを。


 思えば、おかしなことはいくつもあった。

 赤いのはなぜ、僕を助けに来たのかとか、怪我をしてもなぜ平気な顔をしていられたのかとか、少し寂しそうに見えたのかとか。

 なぜ、火事の最中で茶色いのが死んでいると断言できたのか、とか。

 僕は赤いのと会わなければならなかった。ううん、僕がどうしても、赤いのに会いたかったんだ。だから黄色い子に頼んで、赤いのに会う算段をつけた。

「火事以来だね」

 僕はありがとうより先にそう言った。赤いのは僕の薄っぺらいお礼なんて、求めていやしないだろう。

「……煤屋の仕事はいいのかよ」

 案の定、ぶっきらぼうな彼らしい答えが返ってきた。少しほっとする。

 僕は笑顔で返す。

「君が思っているより順調だよ。火元の片付けも済んだし」

 その言葉に、赤いのの肩がぴくりと跳ねる。顔が険しくなった。

 それにも構わず、僕は笑顔のままだ。


 そこでヨセフス先生が口にした煤屋の言葉は、闇に落ちていく僕の意識の中で、とてつもなく響いた。

 信じられない、言ノ葉が落ちる。


 僕は時折、炎みたいに揺らめく赤いのの瞳に、真っ直ぐ微笑んだ。そして、全く関係のないことを紡ぐ。

「ねぇ、赤いの。僕とともだちになろうよ」

 そう言って僕は、煤まみれの手を差し出した。



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