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第陸話 ゆがみはじめたのろい

 歪み始めた呪い


 小さなボタンの小さな穴に針を通す。このとき、針先が布に当たったら、ボタンを少し持ち上げ、すぐまた別の場所から針先を出さなくてはいけない。それに、持ち上げるといっても、本当に動かしたのか疑問に思う程度だけだ、二回目以降は。だからこのボタン付けには短針しか使えない。長針ではまず穴の大きさがぎりぎりだし、そこまで細かい作業はできないのだ。

 と、これは、四ツ穴ボタンの場合である。二ツ穴くらいなら動きも単純だし、丸ボタンという下だけを縫いつけるだけであれば、こんな繊細なことはしなくていい。

 第一、今僕がやっているのは人形のボタン付けだ。普通、服の布を通った針が肌に当たろうと刺さろうと、関係ないはずで、気を遣う必要なんて針の先ほどもない、と思うだろう。

 けれど、違う。僕にとっては違うんだ。呪いを受けた人形を見てきたからか、どうしても彼らをぞんざいに扱うことができない。

 特にメイは。

「メイ、痛くない?」

「うん、ちくちくしないよ」

「よし、と。じゃあ、今留めるから。……と、はい、できた」

「わあ! アルル、ありがとう」

「自由に動けるからって、やんちゃはよしてよ。これだって結構、大変なんだから」

「はぁい」

 直前の注意をちゃんと聞いていたのかいないのか、机の上からぴょん、と飛び下りるメイ。その金糸が、しゃらんと揺れる。

 メイと出会ってから、三年が経つ。

 メイは出会ったときより自在に動き回るようになったし、表情変化にも富んでいる。何より髪が伸びた。心なしか体も服ごと全体的に大きくなった気がする。本人も、三年前は悠々と収まっていた机の引き出しを狭いと言い始めている。——それくらいの月日が経った。

 僕は無邪気にはしゃいで踊るメイの様子に軽く溜息を吐き、窓を見る。

 昼の街並みにうっすらと、髪が全体的に長い少年の姿が映っていた。街の色と同化しそうな瞳は灰色。ただし、右目は前髪で隠れている。まだ針を握る手には淡い色のリボンが結ばれていた。

 背は少し伸びたし、手も足もちょっとは大きくなったはずだけれど、ちっとも男の子っぽくなっていない僕。手に巻いた桜色のリボンが殊更そう見せるのかもしれないけれど、これを取るわけにはいかない。母さんが僕を守ると言ってくれたものだから。

 そのためか、この三年間は平穏な日々が続いた気がする。ただ、母さんは相変わらずだ。目の下の隈は濃く、体型はやせ細ったもののままだ。最近、少しだけ黒髪の中に白いものが目立つようになってきたかな。

 それでも、母さんが無事で過ごせるのなら、と僕はリボンの巻きつく手をきゅっと握る。

 視線を机の上に戻すと、その片隅には二体の人形。金髪と黒髪の男の子の人形、マグとホリーだ。

 あれから、目のない二人が悲しくて仕方なくて、僕は母さんに頼んで二人を譲ってもらった。それから、街に出たときにあのビー玉の代わりに丸ボタンを買って二人の目に縫いつけた。けれど、二人が動いたり、喋ったりすることはもうなかった。

 それと、「僕の可愛い黄色い人」という絵本。僕の部屋にも同じタイトルの絵本があったけれど、手に取る気にはなれずにいた。

 あれは怖い感じがした。煤屋の思いは純粋で、黄色い子も、口では煤屋を責める赤いのも、結果として煤屋を助けてくれて……悪い話ではないはずなのに。

『これは始まりの物語にすぎないのだよ』

 赤い具者が囁いたその言葉が抜けなくて。

 これ以上、あの具者に母さんの幸せを壊されてたまるものか。そう思って見ずにいる。

 僕は裁縫道具を仕舞い、読みかけの本を開く。もちろん、呪詛破壊についての本だ。ただ、今は少し毛色の違う話を読んでいる。「呪詛破壊の適性について」というものだ。


 四人種とは別に、人には様々な分け方がある。その中でも最たるものが、髪や目、肌の色といった身体的特徴。もっと明確に言えば、「色」である。

 呪詛破壊者や具者などの適性を最も端的に見分けられるのは「髪色」である。

 世には黒髪、金髪、赤髪、茶髪が主に存在する。希に生まれながらの白髪を持つ者がいるが、極めて少数であるため、今回は除外する。

 さて、髪色それぞれの特徴を説明していこう。

 まずは黒髪。黒髪の者は、呪いの存在を感知する能力が低い。故に、呪詛破壊はもちろん、呪いを行使する才能が開花する可能性は極めて低いので、一般人や人形職人には黒髪が多い。

 続いて金髪の人間は呪いに対する抵抗力、耐久力が非常に高い。そのため、呪いにかかっても侵攻が遅いという特徴がある。

 赤髪はあらゆる面において呪いとの相性がいい。それは呪いをかける場合でも、呪詛破壊を行う場合でも同じ。実は目の色でも赤っぽい色の人物は呪いとの相性がよく、この研究の中で、赤という色は呪いと因縁の深い色なのではないかと考えている。

 そして茶髪。彼らは寿命が短い。否、若くして命を落とす者が多いと言った方が正確か。新種の病、不慮の事故、殺人……所謂「不運にも若くして命を絶たれた」ような人間は、茶髪が大多数を占める。このことと呪いとの因果関係は解明されていないが、茶髪の人間の死に方は呪いにかかったにしては「普通すぎる」と考えている。

 これはあくまでも統計的に見たものであり、赤髪でない具者や呪詛破壊者なども数多くいる。黒髪でも呪いを見る才を開花させる者とて皆無ではない。

 まだこの書を綴っている時点で全てが解明されているわけではないものの、あくまで目安として使うならば比較的正確な情報となっている。


 呪詛破壊の基礎知識や四人種のことにばかり気を取られていた僕にとって新しい見解だった……のだが、結構のっけの方で自分に眠る才能を否定されているような文面に心が折れかかっている。

 黒髪で一般人の僕は、やはり無力なのだろうか、と途方に暮れていると、メイが横合いから覗き込んできた。

「アルル、何読んでるの?」

「ん、えーと」

 説明しようとしたところで、メイがいたっと声を上げる。針は全部仕舞ったはずだ、と思って見ると、メイが少し長く、目にかかるようになった前髪を邪魔そうに払っていた。

 そういえば、髪は全体的に伸びるものだ。後ろの方がいいくらい伸びたのだから、前髪だって伸びもする。

「ん。じゃ、メイ。ちょっと待ってて」

 僕はこのとき大事なことをいくつも見落としていた。というか、忘れていたのだ。

 母さんが、直に昼食だと僕を呼びに来ることを。

 メイが人形だということを。

 気づいていたなら、僕は手のリボンを、外したりしなかった。母さんがくれた「祈りのリボン」の儀式まじないを、解くことなんて、なかったのだ……

「今、結ってあげるからね」

「アルル?」

「アルル……?」

 二人の名を呼ぶ声が重なり、リボンを結び終えた格好で僕は固まった。

 掠れすぎた声は、音にならなかった。一体僕はどちらの名前を呼んだのだろうか。

 どちらにせよ、僕が大きな過ちを犯してしまったことに変わりはない。三年間、守り通してきた秘密を──メイの存在を母さんに知られてしまったのだから。

「ア、ルル? その人形は何?」

「母さん……」

「こ、の人形、は、何?」

 不自然に言葉を途切らせながらすたすたすたと母さんが詰め寄ってくる。青灰色の目が今まで見たこともないほどに見開かれていた。もはや目の下のみならず上にまででき始めている隈が、目の大きさを引き立てる。たまに見る、厚化粧の女の人のようだ。美しいのではなく、怖い。

 怖い怖い怖い!

「ねぇ、アルル? それは何?」

 その表情のまま、今度は滑らかに問いかけてくる。僕は、答えられなかった。

「人形の、メイ。僕の、友だち」

 母さんに嘘は吐きたくなくて。

 正しい答えを出せなかった。

 その答えを聞いた途端。

「あ、あああああああああああっ!!」

 母さんは狂ったように叫んで、机の上に出したままだった裁縫道具の箱を開け、裁ちばさみを手に取り、メイに向かって振り下ろす。

「呪いの人形なんで死んでしまえぇぇっ」

 一瞬の出来事だった。

 ぐしゃっ……

 その音の意味を、ちゃんと理解できたのは、たぶん、僕だけ。

「か、さん、やめ、て」

 言葉を発するたび、息をするたびに痛んだそれはきっと「死にそうなほど」と形容してもおかしくはなかった。実際、僕は死にそうだったもの。

 右目をはさみで刺されて。

「あ、あ……」

 母さんは状況を理解したのか、手を放し、ゆっくりと後退る。目は見開かれたまま。

 掠れてしわがれたような母さんの声が、思わずといった体で呟く。

「アルル……恐ろしい子」

 え?

「呪いを守って、恐ろしい子! 私はあんなに、呪いがどれだけ恐ろしいか──人形がどれだけ恐ろしいか、教えたのに! それでも人形のろいを守るというの? 恐ろしい、恐ろしい」

 その後、母さんは恐ろしいとばかり虚空を見据え、呟く。ゆらり、ゆらりとその足はメイの方に近づいていく。手が、メイの首根を掴もうとするのを払おうとして、逆に振り払われる。

「恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、おそろしい、おそろしい、おそろしい、おそろしい、おそろしい、おそろしい、おそろしいおそろしいおそろしいおそろ、しい…………い……ろいのろいのろい呪い呪い呪い呪い憎い呪い憎い憎い憎いぃぃぃっ!!」

「くぅ、あ」

 メイのか細い首が、凄まじい怨嗟えんさを込めて絞め上げられる。メイが苦しそうだ。メイが、メイが、死んでしまう!!

「母さん!」

 僕は必死に母さんに飛びついた。その反動で、メイが母さんの手から落ちる。

「お、ねがい、やめて……メイは悪くない、メイは悪くなんかないんだから。悪いのは、僕なんだ。ごめ、なさっ……ごめんなさい! メイともう話したりしないから、メイを殺さないで!!」

 嘆願する。母さんを守りたくて、メイを守りたくて。

 すると母さんは立ち上がった。

「そこまで言うなら、いいよ」

 母さんはいつもどおりの素っ気ない声に戻っていた。けれどその先は──

「でももう、お前なんか知らない」

 その先は恐ろしく冷たい声だった。まるで母さんのものではないような、尖った声。鋭く研ぎ澄まされた刃のような。そんな母さんの声なんて聞いたことがないはずなのに、なんだか記憶に引っかかる。

 立ち去る母さんは右足の視界に消えて、追えなくなって、それでもよたよたと体は追いかけ──ぱたん、と閉められた扉の前で力尽きた。

 右目に少し食い込む痛みが走る。そういえば、はさみが刺さっていたんだっけ、と思い出す。

「アルル!」

 メイが僕の名を呼びながら小走りに近づいてくる。髪に結んだ桜色のリボンに、僕がさっき母さんに言った誓いがよぎる。

「来ないで」

 短く拒絶の言葉を口にすると、メイがはたと止まる。……いい子だ。

「やめて、もうやめてくれ」

「アルル?」

 メイの震える声にも、僕の決意は揺るがない。思いを一気に吐き出す。

「もう何も話さないで喋らないで聞かないで。僕のことなんか気にしないで。メイは大事な友だちだけどぼくと一緒にいちゃいけない触れあっちゃいけない……母さんはあんなことするけどそれでも大事な人なんだ。家族を失った悲しい人で僕が僕だけが守れるたった一人の人なんだ……だからもうやめてやめようやめてくれ。もう嬉しいとか悲しいとか感じないで。泣いたり笑ったりしないで。動くのもだめだ」

 ぎくしゃくと立ち上がる。まだ、立ち上がれる。足元で僕を見上げるメイが、いやに小さく見えた。

 それより、と右手で、右目の辺りにあるはさみの取っ手を握った。しっかり掴まえる。そこから、ありったけの力で勢いよく引き抜いた。

 激痛が走る。

「痛くない。痛くなんか、ない……うっ……」

 赤黒い液体がぼたぼたと落ちる。赤と黒。まるで、僕とあの具者を混ぜたみたいだ、ととりとめのないことを考える。

 霞んでいく視界。優しくはなさそうな闇が押し寄せてくる片隅で、メイの表情が、今にも決壊しそうになっていた。

「だめだよ、泣いちゃ」

 声に感情が乗らない。僕が僕から遠のいていく。そう感じながらも、僕はメイに手を伸ばしていた。自分で触れちゃいけないと言ったばかりなのに。なんだか笑える。

 でも、それがメイに届く前に崩れた。

 最後に見えたのは、はさみに刺さった血まみれの、灰色の虹彩──


「だめだ、だめだよ。泣いちゃ、だめだ……だれか、この涙を止め、て……」

 だれに言っているのかわからない言葉を呻きながら、アルルは左目を閉じた。

「アルル? アルル、アルル、アルル!」

 メイはたくさんアルルの名前を呼んだ。だって、このまま、アルルが目を開けないような気がして。そしたら──そしたら、アルルが死んじゃう!

 アルルはメイは喋っちゃだめだって言った。アルルと話しちゃだめだって。動いてもだめだって。

 でもメイは、アルルが死ぬのはいや。アルルが死んじゃうのだけはいやなの! それはいちばんだめなの。だってアルルはメイの友だちなの。メイにとっても友だちなの!

 それに、アルルが怪我したのはメイのせいだもん。怖いあのおかーさんからメイを庇ってこうなったの。だから、このままだと、アルルはメイのせいで死んじゃう。それは絶対やだ!

 だから、アルル、ごめん……

「だれか、だれかアルルを助けてぇぇっ!!」

 窓を飛び出し、全力で叫んだ。



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