枯れた木には結べないもの
僕がメイにすがりつき、泣きじゃくる傍らで、こととん、と固いものがいくつか落ちる音がした。それからころころと転がる音。ちょん、と何かが足先にぶつかり、そちらを見ると、足元には青灰色のビー玉が四つ。何となく嫌な予感がして机の方を見ると、目の部分のない金髪と黒髪の人形が倒れていた。
「——っ!?」
声にならない悲鳴を上げる。けれど、身を貫いた恐怖はすぐに消えた。なぜだろう。先程は怖いとしか思えなかったあの二人の人形が、今はもう怖くない。ただ、見ていると、とても悲しい。悲しいという気持ちが流れ込んでくる。
「——ル」
また、男の子の声が呼んだ。僕は足元のビー玉を拾い、応えた。
「僕は——ルじゃないよ。アルルって言うんだ。君たちのお姉さんと一緒に暮らしている」
相変わらず、自分でもよくわからない名を口にして説明すると、四つのビー玉が手の中できらきらと輝いた。
「ほんとだ。マーガレットの匂いだ!」
「マーガレット、元気? ねぇ、元気?」
嬉しそうな二人の声がビー玉から流れてくる。僕はそんな二人に微笑み、頷いた。
「じゃあ、——ルはマーガレットを見逃してくれたんだ」
「——ル、ぼくたちのお願い、聞いてくれたんだ」
その言葉に何か引っかかるものを感じた。
「君たちは——ルって人に呪いを? ——ルって、誰?」
「えっ、知らないの?」
僕の疑問に片方の子が意外そうな声を上げる。
「てっきり知ってるもんだと思ってた。だってアルルのかんじ、——ルによく似」
その言葉はそこで途切れる。ビー玉からのぴしりという不吉な音とともに。
ぱしゃあんっ。
次にはそんな音とともに二つのビー玉が砕けた。粉々になった欠片が部屋中に散らばり、消える。
「マグーーっ!?」
もう一人の絶叫が頭の中に響いた。直後、残り二つのビー玉も同じように砕け散る。僕の手の中には、何も残っていない。見えるのは、もやのような赤い残滓……
「アルル、血っ!」
「え?」
目をぱちくりとし、もう一度手を見ると、いくつも細かい傷ができ、そこから赤いものが染み出していた。
赤……さっきの残滓は血の見間違いか。
「頬っぺも切れてる」
「ん? いてっ。さっきのビー玉弾けたので切れちゃったのかな」
とりあえず、洗わなきゃ。
台所で手を洗い、血を流す。幸い、傷口は浅いので、血はもう止まっていた。
それでも消毒、とメイに怒られ、僕は手に軽く包帯を巻き、頬に絆創膏を貼りつけた。
とりあえずの処置を終えると、僕は一人、母さんの部屋へ戻った。扉を開けると、金髪と黒髪の二体の目のない人形が、部屋を出たときと同じ状態で転がっていた。
動く様子はない。近づいてみる。空っぽになった目の部分はどこも見ていない。僕も、何も。
僕はそっと、二人を抱き上げた。——触れてももう、声はしない。
「よかったね」
二人を抱いたまま、呟いた。よかったのかどうかは、実のところ、わからない。けれど、彼らが呪いに苦しめられることはもうないのだ、と思った。彼らが誰かに助けを請うことも、許しを請うことも、もう。
僕はそのままずっと、佇んでいた。
やがて、日が傾いてきた頃、母さんが帰ってきた。
「アルル?」
「おかえりなさい、母さん」
僕が言いながら振り向くと、母さんは凍りついた。くすんだ青い瞳は、僕の手元に釘付けになる。
「その、人形……」
「ごめんね、母さん」
母さんの言葉が続く前に僕は言い募った。
「僕、今日、家の中を探検して、母さんの部屋に入って、この子たちを見つけて。そしたら目のとこ壊しちゃって。本当にごめんなさい」
僕は深く頭を下げた。きっと彼らは、母さんの大切な子たちだったのに、とよぎる脳裏には家族写真があった。昔の母さんの両隣で笑う男の子。かけがえのない家族だったはずの……
「アルル、顔を上げて」
そこへ聞いたことのないくらい温もりのこもった声が降りかかる。顔を上げると、いつも無感動なはずの母さんが、笑っていた。あの写真のように。照れはないけれども、心の底からの、穏やかな笑み。
「あなたが、泣くことはないの」
白く、肉付きの悪い細い手が、僕の目尻を拭った。健康的には見えないけれど、優しい手。
「あなたがその子たちと出会ったのなら、母さんはあなたに、話さなければならないことがある。つまらない昔話だけれど」
言うと、母さんはベッドに腰掛け、僕を招いた。母さんの隣に僕が座る。すると僕が抱いたままだった二人の人形を母さんが受け取った。
目のない二人の人形を母さんは優しいようで、悲しげな眼差しで見つめた。
「この子たちは私の弟で、金髪の方がマグノリア、黒髪の子はホリーという名前だった。双子でね、『マグ』と『ホリー』って呼んでたわ。この子たちの他にも、私には家族がいた」
母さんは一旦そこで区切り、マグとホリーの人形を傍らに置いて立った。伏せられた写真立てを手にし、戻る。
「これはね、たった一枚の家族写真。お祖父さんが、写真嫌いで。父さんと母さんがどうにか説得して、やっと撮った一枚よ」
やだ、お祖父さんたらこんな顔して、と母さんが愛らしく笑う。渋い顔をした車椅子のおじいさんが、母さんの祖父らしい。僕はそれよりも、母さんってこんな顔もできるんだというので笑んだ。
「車椅子のがオークお祖父さん。長い金髪の女の人がリリー母さん。その隣の人がウィロウ父さん。背の高い金髪の人がウィステリア兄さん。真ん中のこれが私で、両脇にいるのがマグとホリーよ。この頃は、幸せだった。私が母さんから機織りを学んで、一緒に布を織って。父さんと兄さんは大工仕事で稼いで。写真じゃこんな顔してるけど、お祖父さんはとても優しくて面倒見のいい人だったのよ。幼かったマグとホリーと遊んでくれていた」
母さんは目を閉じ、ほう、と息を吐く。家族との日々を思い出しているのだろうか。とても幸せだったのだろう。普段の母さんからは考えられないくらい喋っているし、その横顔は綺麗で、色濃いはずの隈も全く気にならなかった。
けれど、全てが過去形。何気なくそのことに気づき、胸が痛む。
「本当はね、そこにアイリスという妹も加わって、また撮るはずだった。お祖父さんがまた渋るだろうなって笑いながら」
きゅっと母さんが写真を胸に引き寄せる。
「思ってたのよ。……それに、私は好きな人もできて、その人とは互いに、想い合っていた。これ以上幸せを求めたら、呪われちゃうわって、思ったかしら……」
こくり、と僕は唾を飲んだ。
「そんなとき、あの男が現れた。私家族を、恋人を呪い殺した赤い具者。私はあの男に、呪いの恐ろしさを教えられた」
開かれた母さんの瞳を覗き込む。怒りや憎しみがあるのかと思ったけれど違った。いつも呪いのことを話すときのような恐怖でもない。
そこにあるのは、ただ、絶望だった。
薄暗くなってきたせいか、母さんの目の真ん中が広がり、黒く黒く、覆われていく。
「恋人を家族に紹介していたところで唐突に現れたそいつが、まず始めに手にかけたのは、生まれたばかりのアイリスだった。アイリスの目元に手をかざして、それからすぐ、アイリスからおかしな音がした。ぺきぺきぺきって。男が手を退けると、アイリスはアイリスの姿そのままの木偶人形になっていた」
母さんの声が沈んでいく。小さな部屋の窓の外に沈む夕日とともに。瞳は虚空を見据えて、黒く、黒く——
「悲鳴を上げられたのは、私だけ。それがいけなかったんだわ。男はにやりと私を見て笑った。『いい
『気に食わねー顔だ』
そう、男は吐き捨てたという。
直後、果敢にも母さんの恋人は男に詰め寄り、要求した。
『あの子を戻せ。この人には手を出すな!』
『うん、いいよ』
男は至極あっさり頷いた。あまりにも簡単に返ってきた答えに呆けるその恋人に手をかざしながら。
『代わりに、死んでくれる? できるだけ惨ったらしいとオレは嬉しい』
そうして浮かべた笑みは、どこまでも無邪気だった。発言とはあまりにも裏腹で。
次の瞬間、恋人は目を見開き、聞くに堪えない呻きとともに口からぼとぼと、赤黒いものを吐き出した。それを
母さんは泣き叫んだ。ところが、まだ終わりではなかった。臓腑の上に白い丸いものが二つ、落ちてきた。視線を恐る恐る移すと、開かれきった恋人の目はがらんどう。そこからだらだらと流れる涙のようなものは赤く、ぽたぽたと地面を濡らす。
母さんは掠れた声で恋人の名を呼んだ。恋人は反応し、振り向き、触れようと手を伸ばす。母さんも手を取りたかったけれど、金縛りは解けていなく、声の自由しか、許されていなかった。
それでも恋人は懸命に手を伸ばし、ようやく届く——と思ったところで、その肉体は細切れになり、ぼろぼろと崩れた。下には赤い血の池が生まれた。
ははは、と男が笑った。ぐちゃり、とその足が恋人の眼球を踏み潰す。
『わはは、非常にいい
男は目の前で起こった残虐な光景などものともせず、明るい調子で身を振った。その足は先程木偶になったアイリスの方へ。
恋人の無惨な死——そんな状況を目の当たりにした直後で言うのもおかしいが、男の口にした「約束を守る」という言葉に、母さんは希望を託した。妹を、アイリスを戻してくれるのだ、と信じた。
男が手をかざし、すぐ退ける。すると——
木偶はさらさらと砂のように崩れ、どこへともなく消えた。
『あ、失敗。この子、生まれて間もないから魂逝っちゃったみたい。その上体脆いし。術の重ねがけ実験も兼ねてたんだけど、失敗しちゃった。ま、いっか』
さらりと言う男に母さんは飛びかかりたかった。しかしまたしても金縛りが邪魔をする。
ただし、このときばかりはそれを代行する者が現れた。
「兄さんが男の後ろから殴りかかったの。男のこめかみを思い切り。男はよろめいて、どうにか踏みとどまったところで兄さんの方を見た。そしてこう言った」
『いきなり殴るとか酷いなー。暴力反対』
「いけしゃあしゃあと、そんなことを言ってのけたのよ! 私は怒りに打ち震えたわ。兄さんだって同じに違いない。体の自由が利かない分、兄さんがどうにかしてくれるだろう、と私は兄さんを見、言葉を失った」
母さんの目は灯りがないせいか、光を失っていた。凍えそうなほど冷たい空気の漂う中、なおも話は続いた。
「兄さんは殴りかかった格好のまま、兄さんの服を着た石膏人形になっていた。兄さんだけじゃないわ。父さんと母さんや、お祖父さんも、物言わぬ
ぱたり、と母さんが手にしていた写真立てを僕との間に伏せて置く。僕がそっとその写真立てに触れてみると、少し温かかった。母さんの痛いほどの思いが伝わってくるような気がした。
母さんに目を戻すと、その手には二人の人形があった。マグとホリー。母さんの弟たち。
「そこで声を上げたのはこの子たちだった。この子たちはただただ泣き喚いた。一気に家族のほとんどを失ったんだもの。仕方ないわ。すると、赤い男、今度はこの子たちに目をつけて、ゆっくり、ゆっくり、近づいた」
ふと、あの二人の声が蘇る。
『助けて』
『許して』
……何があったのだろうか。
「男は二人の前に行くと屈み、二人に目線を合わせて訊いた。『お前ら、双子か?』──なんてことない疑問だったわ。二人は怯えながらも頷いた。少し気の強いマグが男に問い返した。『それがどうかしたの?』って。すると男は『いいや』と俯き、少し淋しそうに笑った。その姿が、これまでの悪虐非道な彼とあまりにも違って見えて、少し驚いたわ。それから男は『今日のオレはこれで満足した。お前たちとそこの姉ちゃんは気に入ったから生かしておいてやるよ』と、二人の頭をぽん、と撫でて去っていった」
「え」
去っていった? ではなぜこの二人は人形に?
「男は生かしておいてやる、とは言ったけれど、二人に呪いをかけていたの」
「あ……」
脳裏に浮かぶ、人形化の呪いの一節。
次第に手足の自由が利かなくなっていき、体が人間のものでなくなっていく。ある者は石膏、あるいは木偶、あるいは布に。
一瞬でその者全てを終わらせるのではない。どれだけ長く、痛苦を味わわせるか。それこそが呪いの醍醐味であり、具者にとっての最高の悦楽なのだ。
「マグもホリーも次第に力をなくしていった。それでも二人は、私の前では明るく振る舞ったわ。時が経つにつれ、肌は布に変わっていき、髪は……ほとんど質感は同じだけれど、糸に変わっていくのがわかった。わかるのよ、機織りだったから。変貌していく弟たちの材質はどこをとっても高級って。マグもホリーも人の形をしたモノに変わっていくのに、人のように、見えるの」
母さんの手の中の二人は、確かに、目が合ったときはぞくりとするほど人に似ていた。
「二人の体が完全に人形になったとき、またあの男が現れた。男は私を、私たちを見て笑った。『本当に傑作だ』と。なぜこんなことをするの? と私は泣き喚きながら訊いた。『
母さんはだんだんといつもの淡白な語り口に戻っていった。目は切なげに手の中の二人を見つめている。
僕は写真立てから手を放し、ホリーを抱いている手前側の母さんの手に、自分のそれを重ねた。
すると突然、目の前に見たことのない景色が現れる。炎のように、もしくは血のように赤い髪をした若い男の後ろ姿。機の前に立ち、くつくつと笑うその男は、振り向いて言う。
『お姉さんよ、お前だけはまだまだ生かしておくとするよ。昔殺した恋人さんや、その腕の中の弟さんたちに懇願されたからねぇ。オレだって鬼じゃあない』
振り向いた男の顔は逆光でよく見えない。ただ歪んだ口元が笑みを象っているのだけはよく見えた。
『鬼じゃなくても悪魔よ、あなたは!』
噛みつくように言い放ったのは若い頃の母さんだ。青灰色の瞳が落ち着きのない水面のように揺れている。
『はは、全くその通り。それにしてもお前の声はいい。まだ殺すにはもったいない。実のところ、そのために生かすようなものだしね。これからもせいぜい楽しませておくれよ、小鳥さん』
『このっ……!』
罵声を浴びせようとする母さんの声に満足げに頷き、男はふと思い出したように言う。
『そうそう、前に作った人形、あれ、邪魔でしょ? オレが処分してあげる。特別だよ?』
『あれって?』
『お祖父さんとー、お父さんお母さんとー、お兄さん、だっけ?』
母さんの肩がびくんと跳ねる。
あれ以来、弟たちと三人ではどうしようもできなくて放置していた人形がそのままの姿であった。
『な、にを、するつもり?』
母さんの声が震える。男はそれににんまりしたあと、そうだなー、と呑気な調子で応じた。
『あのじいさんはオレがもらっていこうかな。あの人、オレの憎たらしいクソジジイに似てんの。だからあの人の前でブッ壊してやったら、さぞかし面白い反応が見られるんじゃないかと。お父さんお母さんは、見てくれがいいんで、服屋にでも売るかねぇ。どんな服も似合うマネキン人形として重宝されるよ。この二人に関しちゃ、呪った途端に魂、逝っちゃったから。下手に動くこともなくて見世物にはお似合いだろうて。そんで、そのお兄さんは……』
そこまで饒舌だった男は一旦口を閉じる。その茶色い目がきらりと怪しい光を浮かべる。
瞬間、金髪の人形はぱん、と爆発し、燃え散った。
『これでどうかな?』
男は朝食の献立でも訊ねるような調子で言った。
『い、や……いやあああああああっ!!』
母さんが泣き崩れる。それを見、男は笑みを浮かべたまま、炎の向こうに消えた。
そう、炎。
爆散した兄の人形は火の粉となって家中に飛び散り、家までもが燃え始めた。
『あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!』
母さんは泣き叫びながら、残された二人の
「アルル?」
映像が途切れ、今の母さんの声が聞こえた。母さんの過去であろう映像のショックから立ち直れず、うん、とだけ返した。
重ねていた母さんの手を見る。正確にはその中のホリーを。君が、見せてくれたのか? と頭の中で問いかけるが、答えはない。
もし、あれが、ホリーが過去に見たそのままだったとしたら、どれだけ辛かっただろう。泣き叫ぶ姉の腕の中に抱えられているしかできなかった。それがどれだけ苦しかっただろう。同じく、マグも。
そう思うと悲しくて、切なくて。けれど決意は固くなって、僕は母さんの手を強く握った。
「母さん。母さんは、僕が守るよ。マグとホリーの分まで、僕が守る」
「アルル……」
僕はありのままを話した。マグとホリーに出会ってから、その目が砕けるまでのことを全て。──メイのことは隠したけれど。
話しながら、あの二人は最期まで、あの赤い人に苦しめられたのだな、と思った。名前のわからないあの具者に。
僕が全てを話し終えると、母さんは二人を置き、机に向かった。引き出しから一本のリボンを取り出す。話に集中していたので、まだ部屋に灯りはなかったが微かに射す月光で、それが桜色であることはわかった。
「これはね、私が昔、あの人にあげようと作っていたリボンなの」
母さんがリボンをじっと見ながら話す。
「男の人にリボンっておかしいでしょ? けれどこれはね、『祈りのリボン』といって、居間の、あの花みたいなもの。……アルル、腕を出して」
「え?」
戸惑いながら反射的に利き腕を上げる。包帯の巻かれた手を母さんは痛ましげに見つめた後、手にしていたリボンをくるくると僕の腕に巻き、結んだ。そして綺麗なリボンの結び目にそっと口づける。
ちょっと頬が熱くなった。
「こうやって、大切な人──相手が男性なら腕に、女性なら髪に、リボンを結んで口づける儀式。幸せになれますように、と祈りを結ぶの」
儀式、だったのか、と火照りを覚まし、すぐにことの重大さに気づく。
「母さん、これを僕にで、いいの?」
本当は恋人にあげるものだったんでしょう?
そう問うと、母さんは笑った。
「あなただからこそ、よ。あの人は、もういないわ……それに、あなたが私を守るというのなら、私だって、あなたを守りたい」
だから受け取って——
母さんのその微笑みは少し寂しそうだったけれど、温かかった。
だからその温もりを守りたいと思った。