目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第参話 もうひとりのきんし

 もう一人の金糸


 呪詛破壊の基礎は呪詛——つまり呪いを目視することから始まる。呪詛破壊を行う対象が見えなければ、その力を行使することはできない。当然のことである。

 余談になるが、これは呪う場合でも同じだ。呪いをかける対象を認識していなければ、呪うことなどできはしない。

 人における認識はそのほとんどが視覚によるものである。このことから、呪いを見ることが呪詛破壊の道の第一歩と言えよう。

 しかし、呪いを目視できるかどうかは個人の才覚によるものであるため、誰しもが可能というわけではない。この呪いを見る才覚を持たぬものが「一般人」と呼ばれるのである。

 もっとも、それが「一般人」と定められたのは呪詛破壊の道が拓かれてからのことで、それまでは「具者」以外の者の総称が「一般人」であった。

 そもそも、呪詛破壊の道を拓いたのは「具者」の呪いに苦しんでいた「一般人」である。故に「一般人」であっても、その才が開花していないだけで、呪詛破壊の力を得る可能性が全くないというわけではないのだ……


「アルルー、飽きたー」

 机の傍らに座る女の子が言う。

「飽きたって、メイ……」

 まだ一頁も読んでいないんだけど。

 苦笑いを浮かべてそちらを見やると、日の光に煌めく髪と同じ糸で象られた眉がひそめられ、その下の空色は半眼になっていた。白い木綿の頬も心なしかぷくっと膨れているような気がする。

 メイと出会ってもう三ヶ月が経つ。メイはとても聞き分けがいいので、母さんに見つからずに済んでいる。

 会ってからの三ヶ月で、メイはだいぶ言葉が達者になったし、自由に動き回るようになった。それに表情も僅かながら変わる。相変わらず布の人形のままだけれど。

 一緒に過ごしてきたことで、だいぶメイの性格もわかってきた。今、見てのとおり、飽きっぽいのだ。

 といっても、呪いに関して、メイが本当に博識なだけなのだけれど。メイの言っていた「ご主人様」については詳しく聞いていない。メイですらこんなに呪いに詳しいのだ。その人がどんなことを見てきたか、知るのはちょっと怖かった。

「でもまあ、そうだね。どの本読んでも同じようなことばかり書いてあるし、勉強が進んでいる実感はないかも」

 僕も、飽きたというわけではないけれど、行き詰まっている気はしていた。「呪詛破壊の基礎は呪いを見ること」と言われても、判然としない。実際、呪いで動いているはずのメイを見ても何かわかるわけでもない。……単に僕に才能がないだけなのだろうか。

 そう思うと、がっくり項垂うなだれてしまう。僕は所詮、一般人ということか。そんな暗澹たる思いが頭の中をたちこめる。

「アルル、そんな難しいのやめて、これ読みなよ」

 そんな僕を見かねたのか、メイが一冊の本を指し示す。布の丸い指がちょんちょんとつついたのは僕の部屋の本では珍しいくらい薄い、絵本だった。

 表紙には子ども向けの絵本にしては流麗な文字で「僕の可愛い黄色い人」とあった。

 つきん、と頭を痛みが突き抜ける。

「黄色い、人……?」

 それが僕の心の中で何度もこだまする。僕の可愛い黄色い人。黄色い人。黄色い、黄色、い……


「——ル」


 遠くで誰かを呼んでいる。そう、ずっと呼んでいるんだ。誰の名前? 知っているような……僕の……

「アルル?」

 メイの声が僕を現実に引き戻す。空色の目が僕を見ている。

「アルル、どうしたの?」

「ううん、ごめん。ちょっとびっくりしただけ」

「びっくり?」

「うん。絵本なんて、久し振りだったから」

 そう言って自分をごまかした。いや、実際久し振りではあったのだ。絵本なんて、僕のいちばん小さい頃の記憶で、読んでもらったっきりで。

「アルル、難しい本の読みすぎなんだよ。ちょっとは休もう」

 空色が微かに笑んで言う。

「そう、だね。……でも眠くないよ」

「なら、おうちを探検しよ!」

 メイが無邪気に言う。僕は思わず溜息を吐いた。家の中を探検って、人形を連れているのを母さんに見つかってしまったら、メイは捨てられてしまう、と反論したいけれど、今日は母さんがいない。遠くの問屋に布を売りに行っているのだ。ついでに買い物もするから、帰りは遅いと今朝この部屋で聞いた。メイもそれを知っていて言うのだ。

「そうだね」

 僕は立った。三ヶ月しか経っていないけれど、座って床に足がつくくらいにはなった。それからメイを抱き上げて目を合わせる。

 不思議と高揚感があった。「メイ、歩けるよ!」と怒られて、ぽこんと叩かれたけど、なんだか楽しい。

「じゃあ、案内するよ、メイ」

 ちらりと明るい窓に映った僕は、確かに笑っていた。

 初めてだからかもしれない。誰かを、例えば友だちを、家の中に案内するなんて。

「えへへ、楽しみ」

 ——メイは、友だち?

 ふと疑問が閃いたけれど、僕は笑顔のまま、扉を開けた。何の特別なことでもないのに、胸が弾む。

 メイも笑顔だ。


 ここがお風呂場、ここが台所、と説明してもなんてことない場所ばかり。家の中は普通なのだ。

 けれどメイは何を見ても楽しそう。一体どんなところで過ごしてきたのか。気になって訊いてみると、「ご主人様はね、本ばっかりがいっぱいある所に住んでたんだよ」と何故か自慢げに話した。

「ここは居間だよ。母さんと僕がごはんを食べるところ」

「あのお花は?」

 居間に来ると、メイは真っ先にテーブルの上の花瓶を指した。不自然に欠けた花は、人形の目にも不思議に映るようだ。

「あれはねマーガレットって花。母さんと同じ名前の花で、花弁が欠けてるのは、いつもやってる儀式のせい」

 僕はテーブルクロスの花に寄り、微笑む。

「今日はたぶん『好き』の日だね。『好き』か『嫌い』か言って花弁を取るんだけど。占いみたいで面白いでしょ」

「今日はなんで『好き』ってわかるの?」

 メイの問いかけに、僕は散らばったままの花を一つ摘まんで答えた。

「花弁の枚数さ。落ちてるのは五枚で奇数だろう? 花弁が奇数のときは『好き』って決まってるんだ。それに母さん、今日は一人で出かけたし」

 この儀式では「好き」の日は母子おやこが離れてもい日なのだと母さんが言っていた。逆に「嫌い」の日はその逆で、二人とも、家にいるか一緒に出かけるかした方がいいとのこと。

 ──あれ?

 少し何かが引っかかる。何が引っかかるのかはわからないけれど……物思いに耽りかけたところで、メイがちょんちょん、と僕の裾を引いた。

「ぎしきはわかったから、次の部屋行こう、アルル」

「むぅ、メイは本当に飽きっぽいなぁ」

 仕方なく、居間を出る。あとはもう二部屋しかない。まずはそのうちの一つ、母さんの仕事部屋に向かう。

「メイ、次の部屋ではあまり物をいじらないでね」

 一言注意し、扉を開ける。

 ふわり、と花の匂いがした。

 ああ、母さんの匂いだ、と思う。母さんは甘くて優しい花の香りのする布をいつも織る。あるいは編む。この匂いが、僕はとても好きだ。強すぎず、そう……

「あったかい」

 メイがぽつりと言った。僕が思ったことをそのままに。布の肌でどうして判別できるのかはわからないけれど、メイは温もりに敏感だ。部屋に一歩踏み入って、ぽーっと、和らいだ顔をしている。窓から日の射すはたの方へ惹かれるように一歩、一歩とゆっくり進んだ。

「なつかしい、においがする……」

「え?」

 メイの呟きに疑問符を浮かべた僕は、思わず声が裏返ってしまった。すると声に反応して、メイがはた、と立ち止まる。

「ふえ? メイ、変なこと言った?」

 言った、とも言いづらく、僕は曖昧に首を傾げた。

「んー、まぁ、いいや。ここ、何するところ」

「母さんが仕事をするところだよ。布を作ってるんだ」

「へぇ」

 メイは物珍しそうに機の周りをくるくると見て回った。メイが動くたび、緑のドレスのスカートがふわりと軽やかに舞う。普段と違ってカーテンの引かれていない窓から、光が金色の髪をきらきらとさせて目映かった。

 そして、なぜだか一瞬、僕と同じくらいの女の子に見えた。さらさらした金髪の緑のドレスの女の子。白く細い指が、機に触れる──

「メイ」

 いやいやいや、と目を瞬かせ、名を呼ぶと、「ん?」とメイの疑問符が返ってきた。姿は先程の半分の背もない。いつもどおりの人形のメイだった。以前から全く変わらない布でできた光沢のない空色が僕を見つめる。それとかち合って、どうしてか急に恥ずかしくなり、「次の部屋に行こう!」とさっさと部屋を出た。

 次は最後、仕事部屋の隣にある母さんの寝室だ。家の出入口から一番遠い部屋で、物心ついてからは入ったことがない。

 そのせいか、ドアノブをひねる手が少し躊躇い気味だった。その割に、がちゃりと遠慮のない音がしたけれど。

 そこはベッドと机以外、ほとんど何もない質素な部屋だった。初めて見る、母さんの部屋。

「へぇ、こんな感じなんだ」

「ちょっとアルル、待ってってば!」

 特段感動もなく、冷めた調子で見渡していると、メイが駆け込んできた。僕が動転して、いそいそとこちらへ来てしまったため、追いつくのに結構走ったようだ。そのせいかはわからないが、入口付近ですてん、と前のめりに転んでしまった。

「ごめんごめん。メイ、大丈夫?」

「うん、へーき!」

 歩み寄って手を貸すと、メイは満面笑顔になった。ちょっと前まで怒ったような口振りだったのに、現金なものだ、と思いつつ、そのままメイを抱き上げる。先程まで仕事部屋にいたからか、髪から花の匂いがした。

「ここは?」

「母さんの部屋だよ。実は僕も入るの初めてなんだ」

「変なのー」

 メイが普通の子どもみたいに言うのがおかしくて、思わず声を立てて笑った。メイは何が面白いのかわからないらしく、きょとんとしていた。

 何もないから、部屋に戻ろうか、と踵を返そうとしたとき、ふとあるものが目に留まった。母さんの机の隅に置かれた、伏せられた写真立て。それがとても気になって、机に近づこうとしたところで、メイに名を呼ばれた。

「アルル、メイ、お膝のとこ破けちゃったみたい」

 手の中のメイは足元に視線を落としていた。僕もそちらを見、はっとした。

 さっき転んで、膝をすりむいたのだろう。──それで、布が破けて、そこから綿わたが、白く、ふわふわした綿が、飛び出ていた。

 そういえば、メイは人形なんだっけ。

 そんな当たり前のことがよぎって、僕は軽く笑った。その笑いは声にならなかった。

「アルル?」

「ん、僕の部屋で、直そっか」

 心配そうに見上げてきたメイに答えた僕の声は、なんだか素っ気なかった。


 僕は母さんから、裁縫を教えられていた。

 だから、メイの修繕も難なくこなせた。幸い膝の布は破けただけで、千切れてはいなかったので、綿を押し込み、縫うだけで済んだ。

 、か。人間だったら、大事だろうに。

 ぼんやりそう思い、窓を見る。そこに映る僕の前髪は頬の辺りまで伸びていて、右目を完全に隠している。

 僕は記憶のないくらい小さい頃、右目の少し上の方を何かにぶつけて、大怪我をしたらしい。四針も縫ったのだと、母さんが言っていた。呪いについて語るときくらい青ざめた顔だったので、よく覚えている。傷痕は今もあるけれど、小さい上に額の隅の方なので、髪で簡単に隠れる。

 それでも、だった。

 人間は、怪我をすれば傷ができ、血が流れて。それだけで騒ぎになるのだ。


 けれど、メイは違う。人形は違う。彼女は、血を流さない。傷に恐れを抱かない。綿が飛び出るだけ。縫うだけで、すぐ直る。

 治るんじゃない、直るんだ。

 窓に映る僕の向こうに、同じ年くらいの子どもたちがたむろしていた。走っている。追いかけっこでもしているのだろうか。最後尾にいた子どもが追い上げ、すぐ前にいた子の肩をぽんと叩いてにやりとする。叩かれた方も悔しげではあったが、笑っていた。

 みんな、笑っている。

 だめだ、だめだ。母さんには外に出るなと言われている。呪いにかからないように、と傍から見れば閉じ込められているかもしれないけれど、これも母さんが僕を思ってくれているからで。それなのに僕はあの雨の日、メイを連れ込んで、メイと話して、こんなにも、こんなにも、楽しく過ごしているのに。

 これ以上の贅沢なんて言えない。

 それでも貼りついたように窓から目は離れない。目が、離せ、ない。

「あ」

 そのとき不意に上がったメイの声に、僕は視線を剥がすことに成功した。

見るとメイはドレスを見つめていた。僕もそれを見てあ、と気がつく。

 ボタンが一つ、足りない。

「どこかで落ちちゃったのかな」

「メイ、探してくる!」

 メイがとたた、と走っていく。

「あ……」

 勝手に走り回っちゃ、危ないよ、と伸ばしかけた手が宙を彷徨さまよう。捕まえようとした金色に、届かなかった。一瞬、呆ける。

 金色の残滓で、目がちかちかする……

 もう、捕まえるものが何もないことに気づいて、僕はばっと立ち上がり、メイの後を追って部屋を出る。ところが既に廊下にメイの姿はなかった。金の残滓も。

 僕はとりあえず、母さんの部屋に向かうことにした。仕事部屋ではなく、寝室に。よく考えれば、メイが転んだのはあの部屋なわけだし。

 居間を抜けて向こう側に行きながら、メイの名を呼ぶ。返事はない。メイなりに集中しているのか。

 僕はメイを見つけられぬまま、母さんの部屋に入った。先程と変わらぬ殺風景にやはり感動を抱けずに、探索を始める。

 メイが転んだのは入口付近だったけれど、そこには見当たらない。ということは、どこかに飛んでしまったのか? とまず、机の方へ向かい、伏せられた写真立てが目についた。

 なぜ伏せられているのだろう? それがどうしても気になった。

 いいかな? ……いい、よね。ちょっとくらい──そんな気持ちで、写真立てをそっと手にとった。

 それは、家族写真、のようだった。たぶん、母さんの。真ん中あたりで金髪と黒髪の男の子二人に挟まれて、少し照れくさそうにしている青灰の目の子は、僕と同じ年くらいのときの母さんに違いない。その傍らで、優しい目をしたその母さんより少し年上のお兄さん、後ろで腕を組んでいるおじさんとおばさん、更にその傍らに車椅子に乗った渋い顔のおじいさん。このみんながきっと、母さんの家族だ。どことなく、雰囲気が似ている。今の暗い母さんじゃなくて、写真の中で微笑む母さんに。

 幸せそうだ、と僕も笑いかけてやめる。思い出したのだ。この写真の人たちはもういない。母さん以外、もういないのだ。

 ぱたりと写真を伏せ、当初の目的に戻る。メイのボタン、メイのボタン。

 そう頭の中で繰り返しながら、机の下を覗き込み、え、と固まる。

 幻覚だろうか。今、金色の糸が見えたような。

 目をこすり、もう一度見直すと、それは待っていたかのようにこてん、と転んだ。

 広がる金糸、目はくすんだ青なのに、透明なビー玉。

「メ、イ……じゃない」

 似ているけれど違う。目の前に転がった人形の髪は色は同じでもちょっと癖っ毛っぽくて。それに、メイは目まで布なのに、この子はビー玉で、輝きを持っている。メイじゃない。メイじゃないとわかっているのに、この既視感は何? 髪は同じ色でも目の色が違う。メイのように澄んだ青空の色じゃなくて、くすんだ青。うちのテーブルクロスみたいな青灰色。青灰? ──母さん?

 いや、これは男の子の人形だし、髪は金色だし……金色? 男の子?

 まさか。そう思った僕の考えを読んだように、もう一体、人形がこてんと姿を現す。同じ色の瞳の、黒髪の男の子。

 まさか、まさか、まさか!

 否定したい思いと半ば確信に近いものを持ち、僕は顔を上げ、恐る恐る、写真立てに手を伸ばす。ゆっくりと、それを起こした。

「あ……あっ……!」

 昔の母さんと思われる女の子の両脇に。

 同じ色の目の、金髪と、黒髪の、男の子。

 もう一度、人形を見る。

 青灰色の目の、金髪と、黒髪の、男の子。

 空似というには、生々しいほど似ていた。

 この三ヶ月で読んだ本の中に、こんな一節があった。


 呪いにも、いくつかの種類がある。

 原初の呪いとされる死の呪い。呪いをかけた対象に無惨な死をもたらすもの。

 石化の呪い。体を蝕み、徐々に石となっていく呪い。生きてはいても、動けず、叫べず、ただそこに在る。そんな痛苦を味わうこととなる。

 風化の呪い。これは石化と併用されることが多い。体が突如、砂のように崩れ落ちていくのだ。手が落ち、足が落ち、頭さえ落ちても魂だけは必ず最後まで残る。成す術のない己の無力を慟哭しながら逝くのだ。

 傀儡くぐつの呪い。意思を奪われ、具者の操り人形と化す。望まぬ罪に手を染めさせられ、気まぐれに意思を戻されたときの罪悪感に苦しむこととなろう。意思を戻された人間が自害することもままあるという。

 そして、人形化の呪い。これは比較的近年に用いられるようになった呪いである。具者が呪いに人形を用いるようになってからだ。次第に手足の自由が利かなくなっていき、体が人間のものでなくなっていく。ある者は石膏、あるいは木偶でく、あるいは布に……自分が自分でなくなっていく感覚を味わいながらも逝けるのならまだいい。魂が人形となってもなお、生き続けることもある。いつか壊れるその日まで。


 人形化の呪い。

 脳裏からその言葉が拭えない。だって、写真の子どもと、二体の人形が、似すぎている。似すぎているのだ。同じといってもいいくらいに。

 恐ろしかった。ただ、恐ろしかった。二対の青灰の玉が、僕を見ている気がしてならない。助けて、助けて、と叫んでいるように見えてならない。

 かたん。手が滑って、写真立てが伏せられた。これが果たして幸いなのか、僕には判別がつかなかった。依然として、四つの青灰が僕に向いている。

 怖い、怖い。けれど僕は恐怖に残った僅かな理性であるものを見つけてしまった。机の奥に鈍く光る焦茶色のボタン。そう、それはメイのドレスの、欠けたボタンだ。

 どうして見つけてしまったんだろう? 僕は心の内で理性を呪わしく思う。それでも手を伸ばした。なんでって──

 直してあげなきゃ。

 メイは友だちだから、人形だけど、友だちだ。この二人とは違う。怖くない。だから、直してあげなきゃ。

 その一心で手を伸ばし、ボタンを掴んだ。小さなその感触にほっと息が零れる。強張っていた全身から力が抜けた。

 その瞬間。

「助けて」

 ぞくりっ。

 背筋をなぞられるような悪寒とともにやってきた小さな男の子の声。

「助けて、──ル」

 血の気が引いていくのを感じた。知らない声に、名を呼ばれたような気がして、その上、助けを求められて。

「許して、──ル」

 名前の部分はなぜかくぐもって聞き取れない。けれど答えを自分に求められているような気がして、わけがわからない。許して? 何を? 僕は知らない、知らない。

「助けて。許して。助けて。許して」

 声の主の見当はついている。僕はそれに向かって叫んだ。

「違うっ、僕じゃない! 僕は──ルじゃない。だからやめて!!」

 自分から出ている言葉さえ、わけがわからない。聞き取れないはずの人物の名をなぜ僕は知っている?

 嫌だ、嫌だ。目の前にある二対の青灰が僕に訴えてくる。

「許して。助けて。許して。助けて。許して、助けて、許して、助けて許して助けて許して助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけたすけたすけたすけたすけたすたすたすたすたすたすたすたすタスケテタスケテタスケテタスケテタスケテタスケ」

「やめろぉーーっ!!」

 雪崩れ込んでくる声に気が狂いそうになりながら叫ぶ。けれど声は止まない。歯をぎり、と噛みしめ、目を閉じ、思い切り手を握りしめ──そこでざらりとした感触が手にあることに気づいた。ボタンを握るのと逆の手が、人形の髪を掴んでいた。

 手を放し、飛び退く。すると、声は止んだ。それでもしばらく、僕はそこから動けなかった。目が、どうしても、机の下の青灰色から離れない。

「アルル?」

 そこへ聞き慣れた女の子の声が、はっきりと僕の名を呼ぶ。僕は弾かれたようにそちらに振り向き、金糸と、曇りのない空色の瞳に迷わず駆け寄った。その小さな体を強く強く、抱きしめる。

「メイっ、メイ!!」

「アルル?」

 たとえその空が光を返さなくとも。

 その声が僕の救いだった。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?