白いお花のお母さん
僕は母さんと二人暮らしだ。
母さんは一般人で、具者の呪いのせいで家族や大切な人を失ったという。詳しくは知らないけれど、きっとその人たちは本に書かれていたようなひどい死に方をしたのだろう。母さんは今でもずっと呪いが怖くて、まかり間違って呪いを受けたら、と考えてあまり外に出ない。
たった一人生き残った肉親の僕も、ほとんどずっと、家の中にいる。部屋で母さんに預けられた本を読んで勉強している。本当は外の世界というのにも興味があったけれど、外に出ようとすると母さんが「呪いにかかったらどうするの!?」と止めてくるので、自分から外に出ようとは思わなくなった。
母さんは僕までもがいなくなることを恐れているのだ。僕にとっても、母さんは
たまに母さんに連れ添って街に出るときも、僕と母さんは避けられて、遠巻きで何かを囁かれていた。あまりいい目で見られていないのはわかった。僕にも母さんにも、誰も触れない。ただ、問屋の商人が布伝てに触れるくらいで、それだって直接触っているわけじゃない。
母さんの布は相当な高値で売れるらしく、問屋だけはいつも愛想よく笑っていた。笑みを貼りつけて「またよろしくお願いしますね」といつも同じ言葉を向けてくる。……人間って単純な生き物だと僕は思った。
ただ、問屋の商人は僕を存在しない生き物のように扱った。あちらにそのつもりはないのかもしれないけれど、あの人たちは母さんとばかり話をしていて、ただ聞いているだけの僕はだんだんと空気になってしまったような心地がしてくるのだ。
僕を存在させてくれるのは母さんだけだ。
僕と触れ合って、僕と喋って、僕を見てくれるのは母さんだけだった。だから僕を見てくれるのは母さんだけだった。だから僕は母さんの「勝手に外に出るな」という言いつけを守っていたし、それは僕のためなんだとも思っていた。呪いにかからないように、というのもそうだし、外だと僕は仲間外れで一人ぼっちだったから。母さんの言う理由の中にはきっとそういうことも含まれているはず。そう思っている。
お風呂から上がって、花のような匂いのするタオルで頭を拭きながら、僕は机の中の女の子の人形のことをちら、と考えた。
あの子は間違いなく人形だ。空色の瞳は光を返さない。その瞳も含め、全身が縫製された布の人形。光沢を唯一放つ金糸の髪は文字通り金糸で、糸の中でも高級な絹糸が使われているようだった。そのあたりのことは母さんの仕事を見ているから、そこそこ理解していると思う。
そんな材質的にも外見的にも人形にしか見えないあの子は、僅かながらに動いて喋った。僕と言葉を交わしたのだ、ちゃんと目を見て。人に作られたモノであるはずの人形が動いて喋る理由なんて一つしかない。呪いだ。
顎のラインで切り揃えられた金髪、捨てられたにしてはくすみのない空色の瞳、少し濡れて深みを得た緑色のドレス、その裾から垣間見える白い手足、くたびれた茶色いブーツ……全部布で、何を言っても、どんなに眺めても表情だって変わりはしない。青く光のない目が、僕を見ているように見えるだけで。
でも、とよぎった思いに僕はほろ苦く笑う。──母さんの言いつけ、破っちゃったなぁって。そう思った。
けれどね、今までどんなに心を寒風が吹き荒れても開くことのなかった窓を、僕は開けてしまったんだ。それくらいあの子は綺麗で、人形には思えなくて。僕は会いたかったんだと思う。
心の疼きを抑えるための話し相手に。
考えながら、僕は居間の扉を開ける。静かに開けたつもりだけれど、かちゃりと音が鳴って、テーブルに座っていた母さんが顔を上げて僕を見た。
「母さん、お湯、ありがとう」
色濃い隈に縁取られた母さんの青灰色が微笑む。
「いいのよ」
母さんの声は素っ気なく、目もすぐに伏せられた。テーブルの上に一つ置かれた花瓶に母さんが活けた白い花が咲いている。ただ、その花弁は不自然に欠けていた。母さん側の方がぽっかりと。そこにあったらしい
「嫌い……」
母さんはそう呟いて、自分の手前の花弁をぷちん、と取った。母さんは千切るなり手を放し、花弁はひらひらと宙をたゆたいながら、青灰の布へ落ちていく。
それは母さんの儀式だった。白い花を一日一弁、花から取って「好き」か「嫌い」かを日ごとに呟く。恋占いのようだけれど、母さんにとっては呪いから逃れるための儀式。故に毎日、欠かさずにやっている。
実際、呪いから逃れる術は呪詛破壊しかない。それ以外の方法は見つかっていないのだ。
方法、というと違うけれど、生まれついて呪いを受けない体質の人形職人という人種もいる。けれど母さんは呪いに抵抗する術を全く持たない一般人。どんな儀式をしたところで、それは呪いに対して何の効力も持たないのだ。
それは母さんだってわかっている。それでもあるかもしれない可能性にすがらずにはいられないのだ。僕はあまり外に出たことがないから、呪いを受けた人がどうなってしまうかは本でしか知らない。それでも、呪いがどれだけ残酷なものかはわかっているつもりだ。だから僕は母さんとずっと一緒にいると決めたんだ。
僕だけは母さんの傍にいなくちゃと思うんだ。
「あれ? 今日は『嫌い』の日だっけ?」
何気なく、僕は母さんに言葉を向ける。昨日も「嫌い」だったような気がするけれど。
「そう、『嫌い』」
母さんはきっぱり答えたから、僕の気のせいだったのだろう。
「ちょうどいいわ。夕食にしましょう」
そう言って、母さんは僕が座るのと入れ替わりに立ち上がった。そのせいか、白い花弁が一片、僕の方へやってきた。
母さんはその花が好きなのか、よく摘んでくる。自分と同じ名前だからかもしれない。
マーガレット、というんだ。
夕食を終えて部屋に戻り、また分厚い本を一冊手に取る。結構重たいので、よいしょと言いながら運んでいると、どこからかくぐもった声が聞こえた。か細い、女の子の声——
「メイ」
「アルル」
慌てて引き出しを開けると、メイが僕の名前を呼んでいた。かくんと僕の顔を見上げる。
「アルル!」
声に喜びの色が混じり、大きくなった。僕は人差し指を口に当て、しーっと言う。母さんに知られては大変だ。
「長い間、一人にしてごめんね。僕の母さんには、君のことを知られてはいけないから」
そこでメイに呪いのこと、母さんが呪いを恐れていることを話した。言いづらかったけれど、メイに呪いがかかっているであろうことも。
ところがメイは思っていたよりすんなりと飲み込んでくれた。知恵がないというわけでもなく、呪いのことに関して言えば、僕よりも詳しいかもしれない。
「メイのご主人様がね、呪いに詳しい人だったの。メイも立派にご主人様のお手伝いができるようにたくさん教えてもらったんだ」
得意げにメイは言った。
メイの言う「ご主人様」はおそらくメイの以前の持ち主のことだろう。呪いに詳しいということは呪詛破壊者だったのか。それなら明らかに呪いを受けているメイをなぜそのままにしたのか、そもそもなぜメイをあんな道端に捨てたのか、とあらゆる疑問が頭をもたげる。しかしそれを口にするより、メイの視線が僕の手元に釘付けなのが気になった。
「メイ、この本そんなに見て、どうしたの?」
すると返ってきたのは意外なほどに弾んだ声だった。
「メイ、それ読みたい!」
「えぇ?」
僕が手にしていたのは呪詛破壊の教本だ。とても呪いをかけられた人形が読むようなものではない。ついでに言うと、子どもが読むような本ではない。かくいう僕も子どもだけれど。
「アルルと一緒に読みたい。メイ、それ読めたら、アルルのおかーさんと仲良くなれる気がする!」
最後の一言に思い切り気が抜けたけれど……母さんのことを考えてくれるのは、嬉しかった。
「アルルのおかーさん、呪い怖いの、一緒に治そう! ね、アルル」
メイの提案に僕は胸を衝かれた。——それは僕もずっと考えていたことだから。
僕はあの白い花が哀れで仕方なかった。母さんの心を支えるために欠けていく花弁が、どうしようもなく、哀しくて。
あの花を、儀式から解放したかった。
母さんを、呪いから解放したかった。
そのために僕はこんな本を読み続けているんだ。一般人の子どもが呪詛破壊の才を得られる可能性は限りなく低い。才能は大抵、親から子へ受け継がれていくものだから。それでも僕は諦めたくなかった。
母さんのためだから。
「そうだね、頑張ろう」
そうして、メイを隣に僕は本を開いた。