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第壱話 あめのなかのひとかた

 雨の中の人形


「……というのが、現在における『四人種しじんしゅ』の謂れである、か」

 僕は本の終わりの一節を読み上げ、ぱたんと閉じた。今日も難しい話だったけれど「人種」については母さんから何度も説明されてきたから、だいぶ理解できたと思う。

 小さな僕の手一つでは持てない分厚い本を抱え、椅子からぴょん、と降りる。そんなに落差はないので足はあまり痛くならない。僕は窓際の本棚に向かっててくてくと歩いた。

 窓に近づくと、向こう側は数えきれないほどの水滴が地面や窓を打ちつけていた。少し上に目を向けると、空は暗かった。もう少し窓に近づくと、その空の中に黒髪の子どもが映る。肌は白くて、目は今の空と同じ色。前髪がちょっと長いので、外に出るときは結んだり、ピンで留めたりする。そのせいでよく女の子と間違われるこの顔は僕の顔だ。「可愛いね」と言われると少しぞっとするし、人と目を合わせるのも苦手だから家では前髪を下ろしていることが多い。今もそう。

 僕は母さんと二人暮らしだ。母さんは四人種のうちの「一般人」で、とても呪いを恐れている。外に出ると呪いをかけられてしまうから、とほとんど家の中で過ごしている。僕にも同じように言い、学校に行かせず、家で本を読んで勉強することになっている。

 母さんは自分の部屋でずっと布を織っている。織った布を売って生計を立てているのだ。母さんの織る布は高値で売れるらしく、家からあまり出なくても、不自由はなかった。

 けれどあまり外に出ないので、街の人には良く思われてはいないみたいだ。僕は街でお祭りや火事のときの訓練などを窓から時折目にするけれど、うちが呼ばれたことはない。

 たぶん、僕が、僕と母さんが街から嫌われているから、そう感じるのかもしれない。

 色々な本を読んでいて、僕と母さんは所謂「村八分」という扱いなのだと思った。火事のときと、死んだときと、それ以外は関わりを持たない、爪弾きにされた存在。

 外で僕と同じくらいの子たちが遊んでいるのを見ると、少し寂しい気もするけど、勉強して、母さんの話を聞いて、呪いというもののことを知ったら、全部納得できた。母さんが外を恐れて僕を閉じ込めるのも、母さんの母さんなりの愛情なんだ。母さんは家族も恋人も友だちも、全て呪いで失っている。もう僕しかいない。だからせめて僕だけでも守り抜こうと、こうしてくれているんだ。

 僕は満ち足りているんだよ——窓の向こうの僕にそう微笑みかけて本棚の方へ向かおうとした。


「——ル」


「!?」

 何か聞こえた気がして、僕はばっと窓に振り向く。視界の隅で金色の何かがまたたいた。雨なのに、人もいないのに、光を弾いて何かが輝く。僕はどうしてもそれが気になった。それが何かを確かめたい。窓に近づく。ばたん、と分厚い本が手から落ちたことも気にならない。僕は煌めきの正体が知りたくて、声の正体が知りたくて、夢中で窓に張りついた。鼻がつくほどまで近づいた硝子には灰色の大きな目が映る。

 またちかり、と光が瞬いた。

「——ル」

 か細い、少女の声が雨音に混じって僕の耳を打つ。僕は迷うことなく窓をかたりと開け、外に身を乗り出した。よじ登って外に出る。雨が容赦なく頭を、肩を打つ。けれど僕にはその冷たさなど感じられなかった。ぺたぺたと裸足で水溜まりを走る。導かれるように。

 呼ばれている気がした。待っている気がした。誰か知らないけれど、僕が来るのを望む誰かが、いる気がしたんだ。

 雨の日に誰もいない街で、いたとしても僕を遠ざける人ばかりなのに、どうして「呼んでいる」なんて思ったのか、僕にもわからない。もしかしたら、待っていたのは僕の方、だったのかもしれない。

 びしょびしょの服が肌に貼りついているのも、少し長い前髪が湿って僕の右半分を覆っているのも、気になりはしなかった。

 ぴちゃん。

 足は自然とそこで止まった。家からそう遠くない暗い路地に。

 見つけた。

 ちょこん、と雨に濡れて座る女の子の人形がいた。

 雨に濡れた緑色のドレスには臙脂色のリボンが首元についていて、茶色いブーツは少しくたびれて見えた。頭から足にいたるまで布で作られた人形の女の子は、捨てられて間もないのだろうか、顔はあまり濡れていない。引き結ばれた細糸の口、布の瞳の空色は僕を見上げている。

 その空色の上にさらりと被さる金色の糸。人の髪と見紛うほどに繊細な糸で紡がれた髪は、顎のあたりで切り揃えられていた。その金糸は間違いなく、先程見た煌めきそのものだった。

 僕はそっとその人形を持ち上げた。僕の半分ほどの背丈の彼女は、しかし家に置いてきた本よりも軽かった。水もあまり染み込んでいないようだ。僕はその子がこれ以上濡れないように、胸に抱え込んだ。

 急いで窓に駆け戻る。人形を抱えていたから、なかなか上手く登れなかったけれど、どうにか中に入れた。がたんっと大きな音を立ててしまい、少し遅れて鈍い痛みが全身を襲う。転がり込んで、打ちつけてしまったのだ。したたかに床に打ちつけられながらも、僕はまず人形を庇った。

 じんじんと痛む体を起こして僕は腕の中に目を落とす。人形はだいぶ濡れてしまったようだが、服も顔も綻びはなかった。僕はほっと息を吐き、開け放っていた窓を閉める。雨は激しくなっていた。

 僕は机の上に人形を置き、部屋の入り口脇にあるクローゼットを開け、大きなタオルを一枚取り出す。それで人形の頭を軽く拭いてやり、机を拭いて、引き出しに仕舞った。タオルで今度は自分の頭を拭き、床に落ちたままだった本を本棚に置く。

 扉の向こうからぱたぱたと忙しない足音が近づいてくる。たぶん、母さんだ。僕は真っ白いタオルをすっぽり被って、扉が鳴るのを待った。

 ほどなくして、コンコンと扉を叩く音がした。僕がはぁいと答えると、がちゃりと扉が開き、長く波打つ黒い髪が覗く。入ってきたのは痩せ細った女の人。僕の母さんだ。

「今、物音がしたけれど」

「あ、うん」

 僕はタオルの合間から、青みがかった灰色の母さんの目を見つめ、微笑んだ。

「何、濡れてるの?」

「あのね、お外の雨、気になったから窓を開けたら、風が吹いて、転んじゃった」

 とっさに嘘を吐く。人形を拾ったなんて言ったら、呪いが嫌いな母さんはすぐに捨ててしまうだろうから。

 僕の答えを疑う様子もなく、母さんはほぅ、と息を吐く。目尻のしわが少し緩んだけれど、その分目の下の隈はいっそう目立った。

「怪我は、ないの?」

 母さんがぽつりと呟くように訊いてきた。

「うん、大丈夫。服、着替えるから」

「お風呂沸かすから入りなさい」

「ありがとう、母さん」

「いいのよ、あなたが無事なら」

 素っ気ない響きで言うと、母さんは扉の向こうへぱたりと消えた。

 母さんの足音が遠ざかっていくのを確かめてから、僕はこっそりと引き出しを開けた。そこに収まる金髪の布製人形を見つめる。

「こんにちは」

 僕はその子に微笑みかけた。するとその子は金糸をさらりと揺らして、空色の瞳で僕を見上げる。

「こんにち、は?」

 たどたどしく僕の言葉を繰り返すか細い声が聞こえた。黒い糸で一文字に縫われた人形の口が開くことはなかったけれど、かくんと小首を傾げる仕種に、その声がその子のものであると思わずにはいられなかった。

「はじめまして、の方がいいかな。挨拶だよ」

「あいさつ? ……はじめまして」

「うん」

 その子はおずおずと頭を下げた。金糸がさらりと流れる。

 どうしてだろう? 人の手によって作られたただの人形なのに、あからさまに人形だとわかる子なのに。この子はさっき本で読んだ「具者」の「呪い」で動いているに違いない。それなのに僕はこの子を怖いと感じることができなかった。母さんから常々、呪いは恐ろしいものだと言われているのに、僕には動く人形であるその子が、どうしても人のようにしか見えなくて。

「君、名前は?」

 気づけばそんな問いかけをしていた。

「なまえ?」

 首を傾げる女の子。「名前」という概念を知らないのだろう。

 もし、この場に母さんがいたなら、きっと僕を止めただろう。けれどね、止められたとしても……

「呼び方だよ。人はたくさんいて、みんな違うから、それぞれ違う呼び方をして、繋がる人にわかるようにしてる。その人だってわかるように。だから、君も」

 僕はしゃがんで金糸に手を伸ばす。

「君も君だってわかる呼び方があれば、教えて」

「呼び方、あるけど……だれも呼ばないよ」

「じゃあ、僕が呼ぶよ」

 金糸に触れると、その子の方も、顔を寄せてきた。柔らかな髪の感触に目を瞑ると、少女が囁く。

「メイ——それが『名前』」


 呪いだとしても、止められたとしても。

 僕は自分が見つけた「繋がり」を手放したくなかったから。

 言葉を交わした。


「僕はアルル。よろしくね、メイ」



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