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第5話 838号室の住人

 ドアを開ける音で目が覚めた。

 頬に当たる布の感触がソファと違う。ぱりっと糊のきいたシーツだ。どうやらベッドへ移されたらしい。

 動かされても判らない程に深く眠ったせいか、頭の痛みは軽くなった。

 ただまだ眠り足りない様な気もする。せっかくベッドに移してくれたのなら。

 そう思った時。


「いつもよりずいぶんと多い量ですね、東条さん」


 何処かで聞いた声が耳に飛び込む。

 そうだ、あれはリストランテの料理長だ。若いのに良い腕で、何処かから引き抜かれたという。


「たまにはそういう日があってもいいだろう」


 東条はさらりと流した。その間にかちゃかちゃ、と食器の立てる音が挟まる。


「そうですか。……まあそういうことにしてもいいですが。東条さんが珍しいことを突然言い出すと、うちのフロアマネージャがぴりぴりし出して大変なんですよ」

「……宜しく言っておいてくれ」

「了解致しました。総支配人殿」


 くす、と笑いを込めた声。何だって?



 扉が閉まったのを確認してから、俺は起き出した。そしてリヴィングの方へとふらふらと歩いて行く。

 何となく足下が涼しい。よく見ると、上着だけでなく、制服のズボンも脱がされていたらしい。

 東条は―― テーブルの上に大量の書類を広げていた。その近くにはノートパソコンと、資料とおぼしきファイルや書籍が大量に置かれていた。

 お、とその様子に東条が気付く。


「起きたのか。腹は減っていないか?」


 減ってる、と俺は短く答えた。実際空腹だった。頭痛も治まってきたし、復調してきた証拠だろう。


「じゃあ食おう」


 そう言いながら東条はルームサーヴィスの丸テーブルの側に椅子を運んで行く。ほら、とその一つを俺に示し、自分もその正面に座る。

 東条の食欲は容赦なく旺盛だった。

 温められたフォカッチャをちぎっては口にし、ちぎっては口にし。

 ガーリック風味のトマトソースになみなみと満たされたチキンの塊を口一杯に頬張る。そうかと思えば、かりかりのベーコンとクルトンをアクセントに混ぜたサラダを音をさせて食べる。

 側にはオリーブオイル。東条はフォカッチャにそれを直につけている。何処かで聞いたことがある。上質のオリーブオイルはそれだけで美味いソースだと。

 俺は、と言えば、その様子を呆然と見ているだけだった。確かに腹は減っているのに。


「む? どうした、食わんのか?」


 言われてようやくトマト煮込みに手を出した。美味しい。空きっ腹に染み入る様だ。

 ただ、この味には覚えがある。


「これ、イタリアン厨房の賄いだよね」

「ああ、よく知ってるな」


 一応洋食厨房にも同期の知り合いは居る。そいつが夜勤明けに賄いをタッパーに入れて寮に帰ってきたことがある。言ったものだ。「料理長直々だぞ、羨ましいだろ」と。味見させてくれたものは、本気で美味かった。

 それと同じ味。


「賄いを、料理長御自ら持ってくるんだ」

「聞こえていたのか」


 俺はうなづく。


「何処まで聞いた?」


 あくまでさらりと東条は問いかけてきた。


「料理長が―― あんたのこと、総支配人、って呼んだとこまで」


 そうか、と東条は短く答え、深くうなづいた。

 それからしばらく東条は黙々と食事を続けた。俺は俺で、スイッチの入った食欲を満たすべく、テーブルの上のものを遠慮無く貪ることに集中した。

 たぶんこれは、食事の片手間にする話ではないのだ。受け止めるには充分な気力と体力が必要な気がした。

 普段滅多に食べられないものだ。俺はがつがつと食べた。食べ始めると自分が腹が減っていたことを思い出した。美味い料理に手が口が止まらない。

 と。

 ふと見ると、東条が食事の手を止め、じっとこちらを眺めていた。


「……何だよ」

「元気になったな」


 東条は目を細めて微笑んだ。ひゅん。また何かが胸の中で跳ねた。

 俺はその視線を何となく避けながら、食事を続けようとする。

 だが一度その視線を意識してしまうと、いくら美味いものでもなかなか喉を通らない。せめて飲み物だけでも。グラスに手を伸ばす。

 透明な音が響く。グラスに深緑の瓶の口が触れた。


「ワイン?」

「ああ。呑めないか?」

「呑めるよ」


 少しむっとした様に返すと、東条はまた微笑んで、黙ってゆったりとワインを注いだ。薄いガラスの向こう側のその色は、否応無しに昼間のことを思い出させる。


「東条さん」

「む?」

「昼間は、ありがとうございました。本当に」


 改まった口調に東条は大きく目を開く。


「突然何だ」

「俺、本気であの時、パニクっていたから。東条さんが居なかったらあのまましばらく動けなかったと思う」


 俺はグラスの中身を一口二口含むと、くるくると揺らす。

 使えない奴、とこのホテルで見なされるのは嫌だ。ここでは必要とされる人間になりたいのだ。

 そう思っているのに、天気病みは時々それを邪魔する。この症状を思うと、過去のことを思い出す。

 忘れることはできない。仕方ない。だからできるだけ前を向いて。そう思っているのに、空模様一つで、否応無しに心はあの時点に引き戻される。


「だからあの時は本当に……」


 言いかけた時だった。

 ばん。

 東条はテーブルに両手と膝をついて身体を乗り出してきた。

 思わず退いた俺の手からグラスが落ちた。転がった。深い赤が、クロスの上に広がった。

 どうしよう。

 俺の頭の中には再びその言葉が回り出していた。どうしようどうしようどうしよう。

 テーブルを乗り越えて、男前の顔が近付く。東条は俺の首をかき抱き―― その肉厚の唇で俺の口を塞いできた。

 煮込みのガーリックの匂いが口一杯に広がった。自分からもしているだろう、強烈なそれが、次第に腹の底を熱くしていく。

 そのまま抱きすくめられる腕の力は強い。振りほどくこともできない。


「俺は」


 ようやく解放してくれた東条の口から、訥々と言葉が発せられる。


「お前のことをずっと見ていた」

「な……」


 強い視線に真っ直ぐに見据えられて、心臓の鼓動がどんどん速くなる。

 ワインのせいだ。弱いんだ。そう思おうとするが、違うことにも俺はとうの昔に気付いている。だって、まだほんの一口二口程度しか呑んでいない。いくら弱いと言っても。

 動揺真っ最中の俺に、東条は次の言葉を打ち込んで来る。


「五年前、お前がこのホテルに来た時から」

「嘘だ!」


 咄嗟に大きく首を横に振る。五年前にこのひとに会った記憶は無い。無いはずだ。


「俺はその頃フロントマネージャをやっていた」


 五年前。フロント。大きな手。低い声。

 あ。

 思い出した。

 家族での最後の旅行。だからあの時のことは今でも鮮明に思い出すことができる。


「あの時…… あんたは俺を支えてくれた?」


 彼と最初に会った時、何処かで聞いた声だと思ったのはそのせいか?

 黙って東条はうなづいた。そしてテーブルを降りると、俺の前に屈み込む。


「お前が出発した日、夜のニュースで、うちの宿泊客が事故に遭ったと知った」

「でもそんなの」


 ホテルは客の帰路にまで責任は持てないじゃないか。いやでもここは会員制だから、ある程度お客様自体が固定している。だから?

 そんな思いを感じ取ったのか、東条は俺の膝に両手を置くと、見上げながらぽつりぽつりと話し出した。


「もし、お前の両親がうちの会員そのものだったら、もう少し表立って弔意を示すことができたかもしれん。だが会員の企業社員、というだけではどうにもならなかった」

「それは当然だろ!」


 ホテル側の人間になって思う。そんなことをいちいちしていたら、キリが無い。


「俺自身の気が済まなかった。あの時のお前が一人になってしまったことに」

「俺……?」

「あの時お前は、きらきらした目で、このホテルを見渡していた」

「それは…… 綺麗だったし」


 本当に。そして今でもあの時の光景は自分の中で一番綺麗なものとして残っている。両親との最後の楽しい記憶だったから、余計に。


「忘れられなかった。それだけに、お前に起きたことの落差に俺はひどく参った。だからその後も時々お前の様子を調べさせていた」


 そんなこと。突然言われても。


「入院が長引いたことも、転校したことも、専門学校に入ったことも、ここに夏、プールにバイトに来たことも」


 どうしよう、見上げてくる瞳。視線が外せない。


「全部知ってた」


 バイト。ああそうだ。去年の夏だ。

 支給されたのは白いポロシャツ、濃いベージュのハーフパンツ、それに白い帽子。一夏終わった時には、膝にくっきりと日焼けの跡がついた。

 夏の光の中、プールサイドはひどく眩しかった。そして暑かった。光と熱の反射、売店前にぶら下げてある温度計は、気が付くと四十℃近い時もあった。

 忙しい日も、閑古鳥の日もあった。そんな時にはプールサイドの掃き掃除や、周りに植えられた木々の葉や実を網ですくい取る様なこともした。

 この場所がまばゆいばかりの場所であり続けることが嬉しかった。涼を求めて来る客、大人向けのリゾートホテルの中で唯一と言っていい程の子供の遊び場。楽しそうな声が響くのは楽しかった。

 無論トラブルもあった。客からコインを渡され、自販機のビールを買いに行った時、たまたま「調整中」の貼り紙が無く、幾らコインを入れても商品が出ないことに焦った記憶。

 そしてその時、通りかかった誰かが管轄外だったのに親身になってくれたこと――


「あ」


 もしやあの時も? だけどあの時のひとは。


「あんたの言うことは判る。けど」

「けど?」

「何であんた…… 総支配人が営繕なんかやってるんだよ」


 俺は当初からの疑問を一気にぶつける。


「だってそうだろ? フロントマネージャなら判るよ、ホテルの顔だもの。総支配人のもう一つの顔としておかしくないだろ、でも」


 そうだ。自販機の前で助けてくれた時も、東条は営繕のツナギを着ていた。

焦っていたから気付かなかった。

 それだけじゃない。四年がところ経っていたのだ。判る訳が無い。入社した後も知っている素振り一つ見せなかったから、気づけなかった。

 ああでも、幾つかヒントはあったはずだ。そうだ。五年もこのホテルに勤めているなんて、このホテルではあり得なかったはず。三年前に体制が変わって、スタッフの総入れ替えをしたとしたら。


「好きだから」


 好き?


「ホテルというものが好きなんだ。このホテルが好きなんだ。……俺は元々建築をやっていた」


 戦前のホテル建築が好きだった、と東条は付け加えた。


「昔のホテルは凄い。旧帝国ホテル、箱根富士屋、軽井沢の万平、横浜のニューグランド…… 今でもそうだ。そこは足を踏み入れるとそこは日常と切り離された別の世界だ」


 俺は黙ってうなづく。そのくらいは専門学校で勉強した。資料の写真集も見たことがある。


「若かった俺は、今の世にそんなホテルを作りたかった。それが夢だった。運良く依頼されて作った。一歩足を踏み込んだ時、それまでの世界と切り離される気持ちになる様な場所を」


 ごく。唾を飲み込んだ。それは昔、俺がこのホテルに入った時に感じたことだ。


「ずっと昔、学生時代からの夢だった。だから当時働いていた建築事務所にリベルタのグループから話が来た時には喜んだ。その仕事の関係で、前のカミさんと出会った」


 ずき。胸が痛む。判ってはいたけれど。


「たまたまグループの会長の孫娘だった」

「好き…… だったのか?」


 おそるおそる俺は問いかける。


「判らん」


 ぽつん、と東条は答えた。真顔だった。


「判らんって」

「優しい女だったとは思う。俺のことを好いてくれた。落成パーティの席で会長直々から話が来る程に」


 逆玉だったのか。だが別れてしまったというなら。


「ホテルのトップの孫娘なら、ホテルの仕事のことは理解してくれていると―― ホテルというものを大事に考えていると思っていた。だから構わないと思った。俺はホテルを愛する人間が好きなんだ」


 それは。


「このホテルに関わっていけるのなら、建築事務所からグループに移るのことに迷いは無かった。慣れないフロントマネージャにも挑戦した」


 元々サーヴィス業向きじゃないだろう? と苦笑しながら彼は問いかけてくる。どうだろう。俺には何とも言えない。


「慣れないことでもアタックできる程夢中だった。若かったんだ。だが」


 駄目だった、と妙に乾いた明るい声で東条は言った。


「何で?」


 問いかけた。もしかしたら声が震えていたかもしれない。彼は目を伏せた。


「『私とホテルとどっちが大事?』と聞かれた」


 本気でそんな言葉が使われるなんて、俺は考えたことが無かった。せいぜいそれは小説かTVドラマの中のことだと。


「彼女は確かに仕事に熱心な俺を好いてくれた。けど、自分以上に仕事を大切にしては欲しくなかった」

「だって―― だって、仕方が無いだろ? 仕事はあんたの夢だったんだから!」


 そうだ、と東条はうなづいた。


「俺は文字通り夢中だった。だから気付かなかった。彼女が淋しかったことに。気付けなかった。淋しさを癒してくれる相手を捜してしまったことに」


 他の男を作ったと―― いうのか。


「離婚の話も会長が持ってきた。済まない済まない、としきりに謝ってくれた。こんなことしかできないが、と他人になってしまう俺にこのホテルを残してくれた。それ以来この部屋が俺の家だ」


 それが三年前のことだと言う。その時にスタッフの総入れ替えもしたのだ、と彼は続けた。元々異動の多い体質のグループだから、急なそれはさほど違和感が無かったらしい。


「ちょうど耐震云々の話がクローズアップされだした頃だった。ここは埋め立て地だ。地盤が弱い。いくら気を付けても付けすぎることは無い。それもあって、俺は慣れないフロントから手を退いた。ホテルを、建物のことをいつも考えていたかった」

「それで営繕に」


 そうだ、と彼は大きくうなづいた。


「隅々までホテルのことを、関わるスタッフを眺めることができる。少しでも傷ついたなら、すぐに手当てをすることもできる。フロントで笑顔を作るより、俺には向いている…… これで全部だ。納得したか?」


 俺は首を大きく振った。


「できない。納得できない」

「伊之瀬」

「何であんたの前の奥さんはそんなあんたを切ったんだ!? おかしいよ、仕事してるあんたに惚れたんだろ? 俺だったら……」


 そこまで言って、慌てて言葉を止めた。


「お前だったら?」


 ぐい、と東条は膝に置いた手の力を込めてくる。動けない。まずい。このままではとんでもないことを口走ってしまいそうだ。

 俺は思いきり身体をひねった。


「うわ……」


 勢い余って、椅子ごと二人でその場にひっくり返った。体調が戻っていたことに今更の様に気付く。俺は元々力は強いんだ。

 だが衝撃は無かった。代わりに、後頭部と背中を大きな手がカバーしている。直接床に衝突することは無かった。ゆっくりと絨毯の上に下ろされる。


「大丈夫か」

「だ、だいじょうぶ」


 俺はその強い視線から逃げる。すると視界の端に、クロスを伝って絨毯に落ちようとするワインの滴が映った。

 ああそうか。それで染み抜きも慣れてるのか。ふとそんなことを思った。


「……あんた、この部屋に誰か、呼んだことある?」

「無い」


 恐ろしく簡潔に彼は答えた。そうか。

 ずっと一人で。この広い部屋で。天井の高い広いリヴィング、二つある広いベッド、ジャグジーもついたバスルーム、和室までついたこの部屋に、こっそり、たった一人。


「お前が初めてだ」

「俺が?」

「ホテルを愛する奴が俺は好きだ」

「え? え?」

「もう黙れ」


 意味を考える暇も無い。口を塞がれたのは、二度目だった。


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