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第4話 天気病みの理由

 降り止まぬ雨の中、予定変更のバスは暗くなりかけた頃になって入ってきた。

 何とか俺達三人も、お客様を迎える現場に間に合った。

 元々出勤人数が少ないベル係だ。一人でも人手は多い方がいい。

 宿泊手続き自体は団体の代表がするからすぐに済んでしまう。だが荷物の運搬はそうもいかない。入室したらすぐに荷物がやって来るのが理想なのだ。

 そしてバケツをひっくり返した様な豪雨。

 バスが建物の屋根の下にぴったりと付けられても、横殴りの雨にお客様は濡れる。荷物を取り出す際にも気を付けなくてはならない。

 荷物とのタイムラグを埋めるべく、各部署奔走した。ラウンジのカフェで特別のウエルカムドリンク。濡れた客にはタオル等を用意。部屋に行く前にスパに行くことも奨める。

 家族連れが中心の団体なので、暇を持て余した子供が廊下を走り回る。止める母親も居れば、そうしない者も居る。

 正直俺の頭には、子供の加減を知らない声はひどく響いた。元々子供好きなだけに、そう思ってしまう自分が嫌になった。



 交代時間になり、俺は土浦と男子更衣室の方へと向かった。

 ドアを閉めた瞬間、どっと疲れが出た。ずらりと並んだ同じ灰色のロッカー、自分の場所が何処だったかもすぐに思い出せない。

 ようやくたどり着いた場所で、とうとう俺は立っていられなくなり、うずくまった。

 そのまま目を閉じてじっとしていると、土浦が声を掛けてきた。


「おい、大丈夫か?」

「……大丈夫じゃない」


 喋るだけで頭ががんがんと痛む。立とうとすると目眩がする。それだけじゃない。身体のあちこちがぴりぴりと内側から痛む。

 土浦はそんな俺を見つつ、着替え出す。


「寮へ帰るんなら、肩貸すよ」

「いや、もう少し休んでから行く」


 俺は手をひらひらと振った。正直今は、それで移動するのもきつい。パスに乗ったら酔いそうだ。たかが数分の距離でも。


「それに明日、俺オフだし。ゆっくり帰るさ」

「そっか。それじゃ俺、先に帰るから。バスの時間あるし」

「ん、お疲れ」


 そう言って俺は土浦に手を振る。帰るとなると奴は早いのだ。

 ドアの上の壁時計を見上げる。寮行きの次のバスまで一時間ある。それまでに何とか治るだろうか。

 否。今までの経験上、ここまでひどいと一晩寝なくては動けない。

 何処か、畳かカーペットのある部屋で仮眠を取らせてもらって、それから帰る方がいいだろう。とりあえずは今を乗り切らなくては。

 そう思っているうちに、眠くなってきた。目を閉じる。

 更衣室を出入りしていく音を耳にしつつ、俺はじっとうずくまり、時々うとうととしていた。

 やがて誰かが灯りを消していった。ああ俺は気付かれていない。



 それからどの位経っただろう。


 ぱち。


「驚いた」


 不意に点いた灯りと、聞き覚えのある声に俺は顔を上げ、うっすらと目を開けた。

 驚いたのはこっちだ。見覚えのある男前がそこには居た。


「……東条さん」

「もうとうに帰ったと思った。今何時か知っているのか?」


 語尾がやや怒っている様にも、呆れている様にも俺には感じられた。

 身体に力を入れ、何とか立ち上がる。くらり。途端、目眩がする。

 危ない、と力強い腕がそれを支える。支えられているという事実に俺は驚く。

 低く、柔らかな調子で東条は問いかける。


「ひどくなっているな」


 黙って俺はうなづく。


「もう送迎バスは終わってるが、どうするつもりだ?」


 もうそんな!? 視線を壁時計へ移す。既に夜中と言っていい時刻だった。


「仮眠室で少し寝てから帰ろうと思ってた…… でも雨ひどいし」

「そうか、帰らないか……」


 顎に親指を当て、東条は何事か考えている様だった。

 やがて何かに納得した様にうなづくと、東条はひょい、と俺を背に担ぎ上げた。まるででかい猫を抱える時の様に。

 有無を言わせぬ力だった。唖然としながらも、伝わってくる背中の温みが俺は心地よかった。

 そのまま東条は人気の無いバックヤードの廊下をのしのしと歩いて東棟へ向かった。エレベーターで八階まで。

 正直、ふらつく頭にややこの浮き沈みは厳しい。だが目的地がそこなら仕方ない。

 しかし何処へ。

 東条は客室側への扉を開ける。今日、この階にはあの突発の団体客は泊まっていない。廊下は静かだった。

 彼は歩く、歩く。何処まで? 廊下の角を何度曲がっただろうか。奥。

 一番奥。そこは。

 東条は「838」と書かれたプレートの前で立ち止まった。

 上着のポケットに手を入れると、キーを取り出す。マスターキーではない。

「838」と金文字の白いプレートがついている。

 差し込む。回す。――開いた。


「畳の上よりは楽に休めると思うぞ」


 素早く後ろ手で扉を閉め、東条は灯りを付けた。部屋全体に柔らかな光が広がった。

 そのまま大きなソファに東条は俺を横たえる。ふわ、と身体が沈み込むのを感じる。柔らかく心地よく…… そのまま眠ってしまいたくなる程だ。

 だが眠ってはいけない。


「あの、東条さん」

「何だ」

「どうしてここに……? いいんですか?」


 そうだ。これだけはきちんと聞いておかないと。


「ここは客室でしょ? 勝手に使って……」


 しかも「開かずの838号室」。マスターキーが使えないはずの部屋。

 三島が聞いたのは噂話なのかもしれない。

 けど噂とは、何らかの事実がそこにあるから出てくるのではないだろうか。その部屋を使える誰かが居る、と。

そんな俺の思考を東条はうち消す様に。


「いい」

「いい、って……」


 困惑して、起き上がろうとする俺の両肩に手を掛け、駄目だ、とばかりに止める。心配そうな顔に、それ以上動くことができない。


「けど」

「ここは俺の部屋だ」


 さりげなく、実にさりげなく彼はそう言った。

 ちょっと待て、と俺は考える。つまりそれは、この部屋のオーナーということだろうか? 

 いや違う。

 確かにこのホテルは会員制だ。その会員のことをオーナーと俺達は呼んでいる。

 ただ「会員=部屋の所有者」ではない。あくまで「宿泊できる権利」なのだ。マンションの買い取りの様なものでは無いはず。

 そんな俺の思いは顔に出た様だった。東条はソファの脇に膝をつく。そして俺の額に手を当てる。


「熱は無い様だな」


 そう言いながら、彼は制服のボタンに手を掛ける。慌てて俺はその手をはね除ける。起き上がる。ふらつく。途端、驚き半分、不安半分の表情が目の前に現れる。


「いや、そういう意味じゃなくて」


 慌ててそう口走り、そういう意味ってどういう意味だ自分、と思わず自分に突っ込んでしまう。


「ああ、そうですよね、まだ着替えてなかったし…… 制服はきついし」


 下はTシャツだし、別に問題は無いだろう。ひょいひょいと俺は上着のボタンを外す。ソファに掛ける。すると東条の視線が俺のむき出しの両腕に向かった。


「ああ……」


 やはり目につくか。俺はつとめて何ごとも無い様に、二の腕の幾つかを指し示す。そう、そこが一番判りやすい。

 無数の、ほの赤い小さな筋があちこちに。


「天気病みの時に、出るんですよ。何処でどうなってるのか、だいぶ前の古傷の名残り」

「ああ五年前のか」


 俺は目を丸くして彼を見つめる。どうしてそれを。

 知る訳が無い。



 五年前。

 このホテルにやって来た時。家族旅行。

 最後の。

 帰りの車が事故に遭った。前方を走っていたトレーラーの居眠り運転―― 

 今でも瞼の裏に焼き付いている。

 高速道路の壁に激突―― 炎上―― 爆発――

 気が付いた時には病院だった。全身が包帯だらけだった。痛かった。動けなかった。

 医者が言った。君のご両親は――

 親戚が言った。既に葬式も済ませた。君が大学に行く程度の遺産はある。保険も下りる。金も家のことも心配しなくていいから養生しろ、と。

 入院期間が長引いた。当初は良く訪ねてきたクラスメートもやがて留年が確実になると足が遠のいた。

 退院して、学校を変わった。一つ下の連中と同じ学年に編入した。

 両親の残したマンションは広すぎたので管理会社に任せ、学校に近い所にアパートを借りた。

 学校生活はまずまずだった。ただこの頃から天気病みが出る様になった。

 医者は言った。君の傷は細かく深いものが多すぎて、破片がまだ入っている部分もあるとかないとか。できるだけ取り出したけれど判らない部分もあるとか。

 そのせいでしょうか、と後でまた医者に聞いた。低気圧が近付くにつれて身体から力が抜けてしまうのは。

 そうかもしれないし違うかもしれない、と医者は言った。やれやれ、と俺は思った。

 やがて進路を決める時期になって、俺は最後の旅行で行ったホテルのことを思い出した。

 あれはきらきらした、とても綺麗な記憶。両親の笑顔、光に満ちた風景、普段の生活とはかけ離れた「何処でも無い場所」。そして今となっては「何処にも無い場所」。

 あの場所にもう一度戻れたら。

 そう思って。でも。



「どうしてあんたがそれを知ってるんだ?!」


 思わず身体を乗り出して聞いていた。普段はそれなりに使っている敬語も吹っ飛んでしまっていた。

 高校を変わった後は、事故や両親のことは誰にも言っていない。学校でも、職場でも。

 ましてや東条がどうして。

 どうしてどうしてどうして。

 興奮したせいか、頭痛がひどくなってきた。ううう、とうめくと東条は黙ってベッドルームの方から毛布を持ってきた。


「後で話す。今は少し眠れ」

「本当だよな」

「本当だ」


 そして俺に毛布を掛けると、側に座り込み、ゆっくりゆっくり俺の髪をかき回す。何だかんだ言っても、その感触は心地よい。

 いつの間にか、俺は眠ってしまった。

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