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第3話 ウエルカムフルーツを慌てて作る

 バックヤード。

 ルーム係の事務室前に行くと、既に残っていたスタッフが仕事を始めていた。

 スタッフは俺達に気付くと側の台車を指さす。どうやらこの人がルーム係のチーフらしい。


「チェックはこっちでやるから、君等は洋食厨房の冷蔵庫から果物をもらってきて欲しい。連絡はついているから」


 ウエルカムフルーツのことか、と俺は気付く。

 部屋には、特別なことが無くとも花と果物と地元の菓子が必ず用意される。連泊の場合、二日目はチョコレートらしい。


「洋食厨房の方ですか?」


 俺は問いかけ、ちら、と横目で専用冷蔵室を見る。そこからルーム係が必要なものをストックしていることは、時々見て知っていた。

 チーフはその視線に気付く。


「そう。いつもだったら直接、こっちの冷蔵室に取り寄せておくんだが、急なことだったしなあ」


 やれやれ、とチーフは疲れた声を出す。


「今って、何だっけ」


 土浦がこそっとつぶやく。季節によって時々変わるのだ。苺だのキウイだの。


「何言ってんの、葡萄よ! 巨峰!」


 あー、と男二人は同時にうなづいた。


「あれって、美味いんだけど食べにくいんだよな」

「そうそう、手なんか真っ赤になってさ」

「無駄口叩いてないで、行くわよ」


 三島に促され、俺達は洋食厨房までの長い道のりをそれぞれ、台車を押して歩いて行く。

 事務室は東棟の三階、洋食厨房は西棟の一階。この距離がなかなか半端ではない。普段歩き慣れている俺達が早足で歩いても三分以上かかるのだ。


「そう言えば三島、例の『不思議』の内容、ちゃんと教えろよ。気になるじゃないか」


 がたがたと台車の音を立てながら、土浦は彼女に問いかける。彼女は肩をすくめる。


「オバちゃん達から内緒って言われてるんだけど?」

「そこまで言っておいて内緒は無いだろ、内緒は。『養魚の祟り』とか『開かずの838号室』とか何か凄く気になる」

「うん、俺も聞きたいな」


 口を挟んでみる。養魚はともかく、「838号室」。確か東棟の一番奥のはずだ。

 東棟のルームナンバーは全て真ん中に「3」の数字が入っている。通路でお客様に部屋までの道を訊ねられた場合、すぐに西か東かを判別するためらしい。


「『養魚の祟り』は、あれよ。ほら、ここ建てる時に、養魚池を埋め立てたってことはあんた等、知ってるわよね」


 俺は軽くうなづく。土浦は明後日の方を向いた。


「そのせいで、結構ここは重要なイベントがある時になると、土砂降りになるんだって」

「それだけ?」


 俺は顔をしかめる。


「オバちゃん達がそう言ったのよ。近くの高校も昔そうだったとか何とか」

「『838号室』は?」


 土浦は真顔で問いかける。どうやら彼の目的はそっちにあったらしい。


「今まで俺、荷物運んだこと無いし」


 んー、と三島は軽く眉を寄せ、天井を仰ぎ見る。


「何かね、そこ、マスターキーが使えないんだって」

「何だそれ!」


 俺達の声が揃う。


「だから聞いただけだってば! 三年前からそうなんだって。あのひと達や外注さん達は私等みたいな社員と違って、地元のひと多いから、三年前のスタッフ総替えには関係無くて色々知ってんのよ」


 オープンは五年前だ、と俺は思い返す。そう、確か花の博覧会の時なのだから。

 その後、三年前に何やら体制が変わって、一斉スタッフ入れ替えがあったらしい。あくまで正社員の中で。


「でも、中に誰か居るみたいなの」


 げっ、と俺達はまた声を揃えた。


「設備に問題があって使えないの? と聞いたら、何日かに一度、リネンやタオルが部屋の前に出ているんだって。ちゃんとそれなりに使った形跡があるの」

「何か怖いな」


 俺は肩をすくめる。


「オバちゃん達、時々中で人の居る気配は感じてるのよ。だけど人の出入りは誰も見たことが無いし」

「住み着いてるんじゃないか?」


 土浦は問いかける。


「オバちゃん達もそこまでは思ったんだけど、それ以上の詮索はできないみたいなの。だから『謎の』よ」

「何だそりゃ。誰か連泊してるってだけじゃないのか?」


 そう言いながら土浦は口を歪める。


「だとしたら相当のお金持ちよ!」


 彼女は決めつける。だがそうだろう。ここの会員権の価格を考えれば。


「それに、もしそうだとしても、マスターキーが使えないってのが変じゃない。オバちゃん達、その部屋の掃除できないらしいもの」

「へえ……」


 何となく俺は、その話にわくわくするものを感じていた。一度入れたら面白いだろう、と。



 洋食厨房へ着くと、早速冷蔵室へと案内された。


「こいつは明日や明後日の朝食バイキングに出すつもりだったんだけどな」


 スタッフはそう言うと、巨峰がずらりと並んだパッドを指さした。粒が、房が、もの凄く大きい。それがてんこ盛りだ。平積みにするのは厳しいだろう。

 そしてまた同じ道を戻る。エレベータに乗る。


「ん」


 ふっと頭の中心が揺れる気がした。エレベータ酔い。いつものことだ。俺は慌てて耳の下を揉む。


「おい伊之瀬、またくらくらしてんのかよ」

「悪いかよ」


 仏頂面でマッサージを続ける。目眩に効くツボなのだ。


「そーよ、伊之瀬は敏感なんだものね」

「お前は大丈夫なのかよ、三島」

「あいにく、生まれつき頑丈に出来ていまして」


 二人のでかい声がエレベータの中に反響する。耳にびんびん響く。早く着いてくれ。

 ふわ、と一瞬落ちる様な感覚。元の階に着く。そしてまた歩く。歩く。


「戻りました」


 三人して報告する。


「じゃ一房をそのパックに詰めて。入らない分はカットして。ちゃんと手袋してな」


 布手袋とはさみ、そして透明な蓋つきの使い捨てパックを渡される。


「入れたら、まず六階に持ってきて。そっちで包みとリボン掛けはするから」

「リボン掛け?」


 こんな感じ、と手早くスタッフは透明フィルムと赤いリボンで可愛らしい包みを作ってみせる。


「難しくはないけど、時間無い時に失敗も困るし、それはこっちでやるよ」


 判りました、と三人はうなづく。


「六階ですか」


 俺は問いかける。


「ほれ、見て」


 事務室前のホワイトボードをスタッフは指す。パート作業員の名札が「帰宅」の赤になって各階に張り付いている。それによると西棟は満室。東棟は――


「今のところ、満室は七階と八階だけ。けどその下、全部使う可能性がある、ってフロントから連絡が来てたから、上から埋めて行く、という形で」


 そのうち正確な部屋数の連絡が入るから、とやはりインカムを付けたスタッフは道具を持って俺達の前から立ち去った。

 三人してその場にしゃがみ込む。手袋をつけ、はさみを持ち、それじゃやるか、と巨峰を一つ取る。


「あ、上着脱いだ方がいいかなあ」


 土浦はぼそ、と言う。


「間違えて染みになると何だし」

「私は無理! 下すぐブラよ!」

「……それ、俺達の前で普通言うか?」


 ふん、と三島は胸を張る。ぴったりした制服だ。ボタンが飛ぶんじゃないか、と俺は妙に冷静に思う。俺は巨乳は趣味ではない。


「俺はTシャツだけど…… 脱いだ方がいいかな?」

「うーん…… でもこれ、放り出しておくのも何だし」


 三人とも上手い答えは出ず、とりあえずは気を付ける、ということでまとまった。

 早速巨峰のパック詰め作業に入った。潰さない様に。きちんと詰めたら蓋をしてパッドにまた入れて。

 それを何度繰り返しただろうか。

 服にも手袋にも染みは付かず、パックに汚れも付かず。上出来だよな俺達、とばかりに土浦が無言で俺達を見渡す。

 そしてまた、台車にパッドを乗せて六階へ向かう。スタッフにパッド一つずつ、四階五階にも持って行く様に言われる。


「それじゃ私、下の階行くわ」


 三島はひょい、とパッドを持つと、階段へ向かう。上りならともかく、一階や二階降りるのならエレベータを待つの方が面倒だ、というのが彼女の普段からの弁だ。逞しい。

 ちょっと待ってくれ、と土浦も続いて行く。俺はその場に残される。二人とも俺が今日、力が入っていないことに気付いているのだろう。いい奴等だ。

 どの部屋も扉は開いている。そしてそこから先、台車はNGだ。持ち上げると、普段の荷物運びの要領、入り口で声を張り上げる。


「すみませーん、フルーツ持ってきましたあ」

「おー、こっちこっち」


 中で声がする。返事をして、大理石のエントランスから毛足の長い絨毯の上に足を踏み出した時。

 くらり。不意に周囲が回った。足下が――


「伊之瀬くん!?」


 バランスが崩れる。パッドが傾く。

 気付いた時にはもう遅い。中のパックが落ちる。蓋が取れる。中身の葡萄が散らばる。

 そしてその上に――

 くしゃ、と自分の腕や胸で幾つかの粒が壊れたのを感じた。

 さっと血の気が引く。

 白い制服の上着に赤紫の染みが。

 同時に、絨毯の所々にも。

 うわうわうわうわ。

 どうしようどうしようどうしよう。

 混乱している。駄目だ駄目だ。何とか考えなくては。

 葡萄の換え。――それはいい。元々多めに用意してある。落ちただけで中身は大丈夫なものが大半。パックを換えればいいだけだ。

 だがこの染み。どうしよう。自分はまだいい。着替えはあったはず。けど絨毯は。

 とりあえず、膝をついたまま、そっと潰れた果実を取り除ける。

 白い布手袋がすっと赤紫に染まる。目にも鮮やかな、綺麗な綺麗な色。

 そのコントラストは子供の頃の記憶を思い起こさせる。昔むかし、母さんは俺や父さんが葡萄を食べるたび、Tシャツの染みに困っていたものだ。言われなくなって久しい、懐かしい記憶。

 スタッフは慌てて近寄り、無事な分をかき集めた。パック自体に問題が無いものを選んで、手早くその場にセットする。

 そして厳しい視線で俺の方を見ると。


「あーあ…… 伊之瀬くん、そのまま潰れた分、ともかく回収しておいてくれよ。ああもう、このクソ忙しいのに、染み抜きもせんといかんのか!」


 忌々しそうにスタッフは吐き捨てた。そして俺の持ってきたパッドを持ち、次の部屋へと移動して行く。

 言葉が重い体にひどく響いた。使い物にならない奴め、と言われた気分だった。

 判ってる。今の俺は大して使い物になんてならない。身体が怠い。でも考えなくては。今できることは何だ?

 ともかく拾う。潰れた実、皮、種まで出ているものもある。どうしようどうしよう。ぐるぐると俺の中で、考えが再び回り出した。

 その時ぽん、と肩に手が置かれた。


「大丈夫だ」


 耳元に低く響く声。慌てて俺は振り向いた。


「東条さん!?」 

「ただの染みだ」


 大きな掌が肩に置かれる。それだけで体中に暖かなエネルギーが流れ込んで来る様な気がした。


「東条さん、どうしてここに」


 そこ、と扉の外を彼は親指で示す。


「自販機室の電球を取り替えていた」


 頭の中がぼんやりとする。それがどういう意味か、すぐに思い出せない。

 彼は俺の様子がおかしいことに気付いたのか、屈み込み、両肩に手を置くと、真っ直ぐこちらに視線を向けた。その先は―― 俺の制服。じっと見つめると、彼はつぶやいた。


「綺麗な色だ」


 冗談言っている場合じゃない、と俺は思わず眉を寄せる。東条は構わず、そのまま絨毯へと視線を移して行く。


「この位なら大丈夫だ」

「え、でもこんなに濃いんですよ」


 自分の制服。そして絨毯の複雑な、だが規則的な模様。濃い所には更に濃く、白い部分には鮮やかな色が付いている。


「ちょっとやそっとじゃ取れない……」

「そうでも無い」


 つぶれた部分と制服と絨毯を彼は交互に見る。


「そこを動くな」


 彼はつ、と立ち上がった。そして三分も経たない間に、手に漂白剤のボトル、歯ブラシ、消毒用エタノール、それにタオルを持って戻ってきた。


「立てるか?」


 言われて立ち上がる。ふらつく。だが何とかなりそうだった。はい、と答える。


「来い」


 東条は一度廊下に出る様に俺をうながした。そして廊下の突き当たりにあるリネン庫・兼・掃除道具置場まで連れて行く。そして俺にこう言った。


「そこのコップに水を入れてくれ」


 計量カップが流しに吊されていた。俺はそれに水を汲み、彼は掃除機を持ち出し、部屋へ戻った。


「染みの上に少しずつ掛けるんだ」


 俺は言われるままに絨毯の染みになってしまったところに少しずつ垂らす。


「これでいいですか?」

「うん。その上にタオルを乗せて」


 彼は慣れた調子で掃除機をコンセントに差し込む。


「押さえておいてくれ」


 え、と思ったが、俺は言われる通りにした。

 東条は掃除機のスイッチを入れ、タオルの上に乗せる。スイッチオン。慌てて俺は力を込める。さっ、と背中に冷や汗が流れるのが判る。


「さてどうかな」


 そっと俺はタオルを外してみる。あ、と思わず声を立てる。


「取れてる……」

「ああ、ワインと同じ要領で正解だな」


 つぶやくと彼は次、と続きを促した。

 一通り絨毯の染みに掃除機を掛け終わった後、それでもやや目立つ所には酸素系漂白剤を軽くつけて叩く。

 その上で更に匂いが残らない様、消毒用エタノールをスプレーする。


「凄い! 消えた!」

「かなりきつい臭いでも、こいつは結構消してくれる」


 はあ、と俺は感心した。ほっとした。泣きたいくらいだった。いや何か、瞼が熱くなっているのが判る。


「スタッフにこれでいいか聞いてみればいい。俺はそろそろ行く」


 待って、とふと彼に向かって手が伸びた。立ち上がろうとして―― くらり、と視界が回った。


「危ない!」


 大きな手が俺を支えた。また、胸の奥で何かが跳ねた。だが今度はなかなかそれが止まらない。

 東条は制服と俺の顔の間に視線を幾度か往復させると、低い声で「泣くな」と囁いた。

 そのまま強い力で引き寄せられ、顔が近付く。

 抱きしめられている、キスされていると気付いたのは、彼の舌が俺のそれを深く深く味わい尽くした頃だった。

 どのくらいそうしていただろう。ぼぉっとしている俺の両肩をしっかりと掴むと、真正面から視線を合わせた。

 そしてまたひどく生真面目な口調で。


「体調が悪い時には無理はしないものだ」


 そう言い捨てると、来た時同様、音もさせずに去って行った。

 やがて戻ってきたスタッフが、綺麗になっている絨毯に驚いた。だがその言葉の半分も半ば呆然としている俺の耳には届かなかった。


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