奥様は驚いて、どうしたの、と尋ねたの。
すると彼はいつもなら、はいかいいえ程度の合図しかしないのに、急に奥様の手を求めたの。
そして奥様が書き付けたある言葉、それを彼は奥様の手に綴ったの。
奥様が綴ったのは、兄上の名だったのよ。
兄上がもうじき来てくれる、そうしたらこんな怖いことはもうじき無くなる。
そういう意味だったのね。
ところが書き付けた彼の顔に浮かんだ表情、美しい顔を歪ませた、それは恐怖だったの。
奥様はだから聞いたの。
兄上を知っているのか、と。
そして彼は答えたわ。
知っている。
怖い。
ここに来るのか。
殺される。
そこまで伝えると、彼は別荘を飛び出していったの。
奥様は慌てて、使用人達に彼を連れ戻す様に命じたのね。彼女自身も、近くを一生懸命探したの。
だけど、その姿は見つからなくて。
そして翌日、湖につないであったボートが綱が解かれてずいぶんと向こうに浮かんでいるのが見つかったのね。
ボートには青年の巻いていたタイが結んであったの。
そこからストリキニーネがごく少量検出されたんですって。
落胆する彼女のもとに、兄上がやってきたのはその三日後。
結局誰がここでボクシング氏、画家氏、それに義姉様を殺したのか、正体不明の青年の生死と、残されたものの意味は判らないままということになったの。
奥様はその後、兄上からまたいいご縁をいただいて、再婚なさったのだけど、どうにもこの事件がもやもやしたままだ、ということなのよ。
*
ぱちぱち、と思わず誰かが拍手をした。
「それはまた、興味深いお話ですこと」
「結局、犯人はわからず仕舞い、と……」
「ええ、公式にはそうなっているんですよ」
イブリンはそう付け加える。
「公式に、というと」
「幾つか公にはできない事情というものがどうやらあったらしいんです。たとえばその青年の素性」
「ああ、……そうですね、どうして、その奥様の兄上の名を知った時、そんなに怯えたんでしょう?」
ここに来るのか/殺される、という言葉は夫人達の心を惹きつけた。
「ということは、まず青年は兄上を知っていて、怯えていたということですわね」
「そもそも、彼は何故湖のほとりで見つかったのかしら」
「そうですわね。……そう言えば、その別荘は、奥様のものだったのかしら、それともご実家のものだったのかしら?」
幾つもの疑問が誰とも言わず、その場に飛び交うのだった。