「七花?」
「うひゃぁ!」
突然、視界いっぱいに羽海野の顔が現れて思わず飛び退く。
「ぼうっとしてた?」
「あー、うん。ちょっとトリップしてたかも」
久しぶりに体を貫いたアンプからの重低音に色々と思うところがあり。2人で簡単に合わせているうちに、つい物思いに耽ってしまった。
あまり思い出したくない記憶だったけども。
「出る?」
「そだね。帰ろか」
相棒の音色は昔と遜色がなく、あとは私がリハビリするだけ。大丈夫。もう取り乱したりしない。私だって、大人になったのだ。
2人でレジが空くのを待ちながら、見るとはなしに店内を眺める。ふと、さっき羽海野を怪しげに見ていた店員と目があった。
店員は慌てた様子で棚の整理に戻ったが、なお、挙動不審にこちらをちらちら伺ってくる。
「七花、細かいのある?」
「あ、うん」
レジに向き直り、小銭を払う。そういえば、ここのポイントカードどうしたっけ。
「あの、もしかして七花さんですか?」
声をかけられ振り返ると、さっきの店員が緊張した面持ちで立っていた。
ん〜〜〜〜〜? なんか、見覚えがあるような。
「茅っちじゃん。元気?」
羽海野がこともなげに名前を呼ぶ。
「うそ、茅場君?」
「はい、お久しぶり、です」
茅場君は記憶よりも大人っぽい出立ちで、でもどことなく面影があってなんだかうれしくなった。
「茅っちいるなーって思ってた」
「そういうの先言ってよ」
「いや、自分も自信なかったんで」
茅場君が、いつかのように頭を掻いた。思い出したのは私なので、茅場君は何も悪くない。
「ここで働いてたんだ?」
「店長が、友達なんです」
茅場君が照れくさそうに、でも心なしが誇らしそうに、笑った。
「大学卒業してから、一緒に働かないかって。なんかずっと一緒にいるんです。変ですよね」
茅場君の視線が店の奥に向かう。つられてそちらを見ると、今まさに接客中の細身の男の子がいた。初々しい女の子相手に、必死にギターの説明をしている。彼女は、初めて楽器を買いに来たのだろうか。
あれ。
なんか、変だ。
「まあでも、そういうのもありかなっておもって。なんだかんだやってます」
「そうなんだ」
「七花さんたちは、またバンド組むんですか」
「組む」
羽海野が私を隠すように動いた。羽海野の小さな背中が、私の視界を隠す。
あぁ。なるほど。
突然、私の胸の中を埋め尽くしたもやもやの正体に、遅れて気がついた。
「ごめんね、茅場君。私たちもう行くから」
「あ、七花さん!」
離れかけた私を、萱場君が呼び止めた。なに? と視線だけで問いかける。
「あの……6年前のことなんて覚えてないかもですけど……すみませんした」
ぶん、と頭が取れそうな勢いで、茅場君が頭を下げた。染めた茶髪が、根元だけ黒くなっている。ちょっと抜けたところがあるのは昔から変わっていない。
「なんのこと?」
そう、私はとぼける。
「ええと」
「私が忘れてるなら、きっと大したことじゃないんだよ。だから、またね?」
「あ、はい……でも、すませんした」
「わかんないよ」
私は笑った。茅場君が返した笑みは、引き攣っていた。
「だめだよ」
帰り道、羽海野が私の裾を引っ張った。もうすぐ御茶ノ水駅の改札で、私と羽海野は家が逆方向だから、ここが分かれ道になる。
空はもう真っ暗で、ぼんやりとした街明かりが星を隠していた。夜なのに、その始まりも終わりも感じさせない、迷い人を絡めとるような薄ら闇。焦点の合わない黄昏時が、私はあんまり好きじゃない。
「何が?」
「あの態度。茅っち、引き摺るよ」
羽海野はいつになく真剣に私を見据えている。
「だって、なんのことか知らないし」
「嘘」
「羽海野に何がわかるの?」
自分から出た声が信じられないほど冷たくて驚いた。慌てて取り繕うと思ったけど、羽海野はやっぱり真剣な顔つきで、私は何も言えなくなる。
「わかるよ」
目の前の道路を、ヘッドライトを焚いた車が通り過ぎていく。学生が私たちを追い越して、改札へ吸い込まれる。走り去る中央線を、目の端で追いかける。あの車輌にはたくさんの人が乗っていて、千葉のほうへ帰っていくんだなと、どうでもいいことばかり頭をよぎる。
「わかんないよ」
だって、羽海野は結婚したじゃん。
「わかるよ、七花がなに考えてるか」羽海野が笑った。いつもの抑揚のない表情とは違う、全部諦めたような、からからに乾いた笑みだった。「わかるから……全部、わかるよ」
線路の向こうはまだ橙色を湛えている。電車を動かす何本もの線が影になって、空を横切っている。薄闇に目が慣れない。誰も彼もがダブって見えるなかで、羽海野だけが、悲しそうに佇んでいる。街並みは切り絵のようだ。一番前のレイヤーに羽海野がいる。
羽海野がわからないし、私の気持ちがわかるはずもない。わかってほしくもない。いつまで経っても新しい光を見つけられず、遙か昔の、今にも消えそうな小さな光を後生大事に守っている。情けないことと知りつつも、それでもほかの道よりは選ぶよりは良いはずだと、このかすかな光を守ることだけが自分の誇りだと泣き喚き続けている。暗い宇宙に身一つで漂流しているようなこの孤独を、まっとうな幸せを歩くあなたたちがどうして共感できる。
羽海野だって、3人一緒がいいって、言っていたのに。
いろいろな思いが重なった。
ただ、これ以上踏み込めば、何かが壊れてしまう。
そんな気がした。
私が選べるものなんて、一つしかなかった。
黙りこくる私に対し、羽海野の目はただただ優しかった。
高校生からの腐れ縁だ。私の面倒くささも織り込み済みだろう。
「茅場君はさ、楽しそうだったね」
「そうだね」
「友達と一緒にお店やってるんでしょ。男の子って、いいよね。そういうの、普通にあるじゃん。最高の友達ってやつ? 簡単に、ずっと一緒にいてさ」
「私さ」羽海野の声が、夜に溶けていく。本人は、そうしたくないのだろうけど。「謝ろうって、ずっと」
「なんのこと?」
「あのとき、詩音を遠ざけなかったらって」
あのとき、がなにを指しているのか。言わなくてもわかってしまった。
「そうしたら、なんか変わってたかもって。ずっと、ずっとね」
「なんも変わんなかったよ」
泣きそうな声を遮る。薄闇で、顔はよく見えない。見えなくてよかったと思った。見えてたら、気づいてたら、私たちはきっと、終わりのない道を進みだしてしまう。
「どう足掻いたって、ここにいたんだよ、たぶんね」
「でも」
「絶対」
がたんごとん、と足元を電車が通り抜けていく。たかが人間1人、足踏みしたところで社会はいつも通り時を刻む。
だから私は、世界を止めるのだ。
「ありがとう……は変、か。がんばろう。うん、がんばろ。せっかくの最後なんだから、びっくりするくらいがんばっちゃお」
私の裾を掴む羽海野の手をゆっくり外し、彼女の手を握る。
一瞬置いて、手に力が込められる。夕闇を背景に、羽海野が何かを言った気がした。暗くて見えないし、雑踏で聞こえなかった、ことにした。
それ以上、踏み込んではいけないラインというのがある。私にも、羽海野にも、詩音にも。
若さだけを推進力に、誰かを傷つけることさえ厭わず入り込んだ日々とはとうに訣別した。
感情の奔流をすべて飲み込んで、いつか訪れる決壊に怯えながら、見て見ぬ振りで日々をやり過ごす。絶対に戻れないことを知っているから、憧憬だけを抱えて生きている。
それが大人になるということ。子供じゃなくなるということ。そう思って、割り切っていた。後悔は先に立たないし、今さら何も私には残っていないのだと。
悲観的でなくなったのも、成長した証かもしれない。
羽海野と別れた夜、帰りの電車で2人にメッセージを送った。やりたい曲がある、とだけ。すぐに既読が1つついて、15分くらい待ってると2個目がついた。
「いいね!」と詩音が先に。
「リベンジ」と羽海野が続く。
すべてを見透かされている気がして、思わず笑みがこぼれる。
そう、リベンジ。あの時した後悔をやり直せる、突然訪れたチャンス。もう子どもじゃない。諦めてきたことが多すぎて、慣れてしまった。そのなかで一番光っている道を選ぶ術も知っている。
ないならないで、また後悔しないようにできることをやろう。あの時なくしかけたものを、もう一度作り直しにいこう。
友達と一緒に。相棒と一緒に。
と、大見得は切ったものの6年のブランクはやはり大きいもので。
指は痛いし運指は一向にスムーズにならない。仕事と家事と練習。大人の1日は、24時間だと実は足りない。だんだん家事が疎かになり、次第に睡眠も削り始めた。延長線上で、仕事がボロボロになるのも必然である。
にもかかわらず、普段より幾分も気分が明るかった。街を見る余裕があって、月日の細やかな移り変わりにもやけに気がつく。緑が鮮やかで、空は抜けるようで、私の体は重いけど、座り込みたくなるほどじゃない。
「でも1人じゃどうにもならんので、助けてください」
珈琲がなみなみ注がれたグラスをズズっと、詩音に押し出す。
「なにそれ、賄賂?」
詩音がけたけた笑う。
「昔っからこのフレーズが苦手なの、お願い!」
「練習不足」
「わかってるよ! わかってるけど、もう2週間後じゃん!」
ポテトを頬張りながら私を揶揄する羽海野に、スマホのカレンダーを見せつけた。
「社会人の2週間って、可処分時間にしたら2日くらいだからね⁉」
「まぁまぁ。で、何を教えてほしい?」
詩音が隣の席に写ってきた。薄い、ラベンダーの香りが風に漂ってくる。
「曲はブロックと流れで覚えているんだけど、どうにも構成がわかんなくて」
詩音に相談しながら、ふと、昔を思い出した。空き教室で初めて3人で集まって、曲選びをしていたあの日。
私と羽海野は高校からの知り合いで、そこに詩音がやってきた。詩音はサークルでも引っ張りだこだったから、私たちに声をかけてきたのは驚いた。
2人の雰囲気が、なんかいいなって思って。
その言葉を、声色を、私ははっきり覚えている。夕日差す春の教室で、これからのことを大袈裟に、でも真剣に、考えた。楽しくなるねって言い合って、実際そうなった。曲をやるたびに、詩音と会うたびに、私のなかに甘い甘い雪が降り積もって、一面を愛しい風景に染め上げた。
その風景のなかに、いつも詩音がいた。
隣に羽海野がいて、3人が宇宙のすべてに思えた。
「ここはね、ここと次の5小節が対比になってて」
「なにその中途半端」
「区切りで合図する?」
「結構です。あれ、もしかして私、小馬鹿にされてる?」
「大丈夫」詩音が微笑んだ。私は目を開けたまま、心のなかを思い浮かべる。私を揺さぶった甘い雪は、もう降っていない。「今日で完成するって」
今は積もった雪の上で3人、同じ卓を囲んでいる。