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(3)つらつら思って

「もう一回、合わせようか」


 詩音が息を切らしながら、マイクに向かって言った。鏡越しに見ても、だいぶ疲れているのがわかる。当然だ。もう2時間も歌いっぱなしなのだから。


 明らかに、私の練習不足が足を引っ張っている。卒業ライブは明後日。ここからどうこうというのは、現実問題として望みが薄い。


 2人の優しさに甘えている、そんな自分が死ぬほど嫌だった。だからといって、泣き言を言っても仕方ない。せめてなんとか形にするしかない。


「他の曲はいい感じだからさ、大丈夫。なんとかなるよ。七花はもうちょい周り見て。羽海野にお願いあるんだけど、キメのときになんか合図欲しいな」


「おけ」羽海野がスティックを振り上げた。「こうする」


「いいね、それでよろしく」


 壁面いっぱいの鏡に、どうしても目をやれない。今の私は、どんな顔をしているだろう。惨めで卑屈で、嫌な奴だと思う。


 最後をみんなで楽しみたかった。最高のかたちで終わらせたかった。でも——。


 本当に、付き合ったの?


 サークルの先輩と一緒にいるところを、同期が見かけたらしい。単なる友達とは思えない距離感だったと。


 もやもやして、練習に身が入らなかった。悲しくなって、一人で夜の町をさまよいもした。誰が悪いのか、何がいけなかったのか、そもそも私は何を許せないのか。どうしたいのか。一つとしてわからなくて、ベースを持つたびに涙が溢れた。


 変わらないままって、ダメなのかな。


 たぶん、詩音は隠さない。聞けば教えてくれるだろう。自主的に言わないのも他意はなく、ただ言う意味がないと思っているに違いない。


 自分が誰と付き合おうと、私を含む友達との関係はなんら変わらないと思っている。だから詩音にとっては、自分の恋愛事情など特別言う必要のないこと。


 でも、みんながみんな、そうじゃない。私にとって詩音は。あなたは。


 先に伝えて欲しかったとか、そういう問題では、とうにない。いまさら明かされたって、状況は良くならない。むしろ発狂するまである。こうなったが最後、どの道バッドエンドは確定で、できることといえば死に方を選ぶだけだ。


 羽海野がバスドラを鳴らしはじめる。体の芯を震わす低音が、私の思考をさらに深部へ沈めていく。


 鏡越しに、詩音と目があった。汗で前髪が額にくっついている。シャツを肩まで捲り上げているから、華奢な腕が剥き出しだ。その腕が、力強くマイクスタンドに絡んで——。


 あぁ、やりたかったことだけは、はっきりしている。それはもう叶わないのだろうけど。ただ、私があなたの隣にいたかった。


 この場所で、同じ音楽を奏でて、光のなかで一緒にいられるだけでよかったんだ。ずっとこの時間のなかに揺蕩っていたかったんだ。




 3人でスタジオを出ると、後輩の男の子、茅場君と会計で鉢合わせた。


「ども。詩音さんたちも今終わりっすか?」


「そそ。明後日のライブ、頑張るよー! 茅場君も出るんだっけ?」


「先輩方のサポートっす。羽海野さんとも組んでますよ」


「よろ」


 茅場君は恥ずかしそうに頭を掻いた。一個下で大人しい性格だが、ギターはやたら上手い。ライブのたびに色々な人から声をかけられているらしく、一晩で最低3回は見かける。


 うちのサークルは基本的に固定バンドが少なく、ライブのたびにやりたい人同士で集まる形式だ。いつも同じメンバーなのは、私たちくらいだろう。


「最後かと思うと、寂しくなりますね。先輩方とはたくさんバンド組んできましたし……詩音さんや七花さんとは、一度もやれませんでしたけど」


「私もあまりキャパが多くないからさー。ま、3人でのんびり気ままにやるのも性に合ってるのかなって」


「そうなんですか? てっきり七花さんが」


「茅っち、明日の意気込みは?」


「えっ? あぁ、任せておいてください。先輩方の花道を賑やかにしてみせますから……ところで、七花さん、なんか静かですけど大丈夫ですか?」


「えっ」と、急に話を振られて慌ててしまう。「元気だよ?」


 結局、満足いくかたちにはならなかった。重たい不安だけ、私の肩にのしかかる。


 詩音が見れない。変わりゆくもの、終わりゆくことを直視したくなくて、現実から逃げてしまう。


 いくつもの晩を、楽器を抱えたまま明かしてしまった。弾こうとしても詩音の顔がチラついて、それから手が動かなくなる。ベースの重みと、私の奏でる拙い音が私を雁字搦めにする。


 ボディの冷たさに心臓は止まりかけるけど、いつしか体温が移って、ベースもほんのり暖かくなる。その温もりだけを縁に、私を縛るもののせいにしながら、それを頼りに座り込んでいる。


 この場所から動かない免罪符。


 今さら何が、できるんだ。


「みなさんはそのままで、サポートで僕が入るとかもよかったかもしれませんね」


「茅っち、それは——」


「よくないよ」


 茅場君の肩が跳ねた。空気が凍ったのがわかる。店内BGMが、やけにうるさく聞こえる。よくないな、と自分自身に思った。思ったのに、言葉が止まらなかった。


「ライブ中は、世界が止まるの。客席は真っ暗で、私たちにだけたくさんの光が降ってくる。目の前の風景だけが世界のすべてになって、それを作っているのは私たち。あの特別を、誰かに譲るわけにはいかない」


「あの、七花さん」


「あの体験を、空間を、時間を、世界をね、詩音にほかの人と過ごしてほしくない。初めて一緒にライブをしたあの日から! 詩音は、私とだけでいい。ずっとずっと、私たちだけでいい……私たちだけが、よかったのにっ!」


「ちょ、七花さん落ち着いて」


 はっとして、詩音を探す。いつのまにか、私のそばからいなくなっている。


「……詩音は?」


「さっき羽海野さんが連れて行きました。ええと、だから、聞かれてないと思います、けど」


 茅場君がばつの悪そうな顔をしている。


「ごめん、帰るね」


 楽器ケースを背負い直し、私は逃げた。

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