満たされない日々だった。
灰色の世界で流されるように生きていた。生きていればそれで良いと思っていた。物心ついたころから目の前の事象に対処し、環境に適応して生きることがすべてだったからだ。
生より多くを望み愚行を繰り返す人々のことが、理解できなかった。
--あの日までは。
暗殺部隊の任務で人を殺し初めて『感情』という強烈な熱に身を焼かれた。それまで俺に見えていた世界は変わり果てた。
自らの手で生を終わらせた者。そして、その死に様に対して湧き上がった熱は、あまりにも強烈で、俺は理解した。人々はこれに駆られていたのだと。
「確かにこの衝動には……抗えないな」
乾いた笑いが溢れた。何が可笑しかったのかはわからない。……あれほど無意味に思っていた『感情』に振り回される己の滑稽さにか。都では与えられた任務の通りに人を殺しつつ、その死に様に焦がれていた。『感情』に取り憑かれた俺に、かつてのような迅速で無駄のない任務をこなすことはできなかったが。
そんな熱に浮かされた日々さえも、西部への遠征任務によりさらに変わった。
大河が赤く染まったあの夜。勇者と呼ばれた男を殺した。数多の人族から期待され未来を約束されていたそいつは、一人夜の河に沈む。そして湧き上がる熱に身を委ねた。快楽に近い衝撃である『感情』を味わった。そこまでは通常の任務と同じだった。
しかし、普段と違うことが一つあった。あらかた理解したつもりになっていた『感情』。奴の死に様に、俺はその深淵を見た。……果てが見えない。俺は己の浅さを思い知った。奴の『感情』に焦がれた。そして俺は、都に還らないことを……暗殺部隊を脱けることを決意した。
『……刺客、だったのか……初めから裏切りるつもりだったのか……!』
静かに目を閉じ、瞼の裏であの瞬間を何度も呼び起こす。ただ焦がれる。
目を開き手の中の剣を見つめた。
俺は欲しかった。あいつが死ぬ直前に抱いた熱が。
殺し続けた。
暗殺部隊にいた頃と変わらずに。
何年も、何人も……。
俺は殺すことで感情を得られる。だから俺にも抱けると思っていたんだ。あの激情を……。
あの善者を黒く深く、そして赤く染め上げたほどの--。
--……人々が『絶望』と呼ぶ感情を。
***
あの勇者がそうだったように、そいつが生きている間に馴れ合い大河で同じように殺せば、俺も然るべき日に、限りなく近いものを味わえるという算段だった。
しかし俺は、奴ほどの死に様を見せる者には出逢えずにいて、ましてあの深い『絶望』らしき感情は片鱗も見えていなかった。
それでも俺の衝動は理屈もなく熱く灼くように身体を突き動かした。
俺は次なる標的を求め、当てもなく西部を旅していた。
***
暗い雲が日を覆い、吹く風が山道の木々を静かに揺らす音だけが聞こえる日だった。
その日まで俺は、一年以上も人を殺さずに無色の日々を送っていた。良さげな標的を見つけ馴れ合うも、大河に辿り着くまでに決別することを繰り返していた。俺は大河でのあの夜を再現することに拘っていた。あの『絶望』をそのまま味わってみたかった。
湿った山道を鬱屈と歩いていた。ふと、冷たい空気が身を貫いた。これから雨が降ることを告げるように風が頬を撫でた。
人の声が聞こえた。数日振りに。
反射的に曇空を突き刺しそうなほど高い木に駆け上がり、密集した木々を駆けて声の方へ移動し、様子を伺っていた。
甲高く耳障りな少女の声と数人の男の笑い声が響いた。
そして、見つけた。
一年振りの標的足る人物を。希望と自信に満ちた目。殺されても仕方ない奴らを生かす根底の善良さ。
見るからに希望に満ちていた少女を選んだ。
西部では珍しい、半吸血鬼の少女だった。
旅立ったばかりの強気な少女が望むままの、怪しげな強者を演じた。……ほぼ素だったが。いつも通り馴れ合い、そして大河まで連れて行き殺そうと思った。
殺す相手が、俺の武術や剣術に興味を示すことはよくあった。武力や頭脳を求められたり興味を持たれることはあったのだが、俺が相手に何の感情も持っていないこともあり、それ以上はなかった。
しかし、あの少女はーーサキは違った。俺自身に興味を持ち分かり合おうとしていた。サキが俺に興味を持ったのは誘導していた通りではあった。だが、それ以上のものがあった。俺はぼんやりと察していた。
おそらく、俺を孤独だと思い救おうとしているということを。
--孤独。
自分が孤独だという考えは
誰かに対して『感情』を抱くことができるのは、そいつが死ぬ瞬間のみだ。俺が『感情』を抱いたとき、相手はすでに死んでいる。つまり俺には感情を向け合う相手が存在していない。
あの勇者が大河に蹴り落とされる直前まで、生き絶えていなかったとき。感情を抱いた相手が生きていれば、そこにどんなに日々があるのかとふと考えた。
いや孤独であることは受け入れよう。俺はただ殺して『感情』を得られれば十分だ。……今はその種類にまで欲が出るようになってしまったが。俺が衝動に駆られているということは変わらない。
そして大河に向かって数日。初めて見えた蒼龍を狩り、サキは知らない少女を引き入れた。
その少女……ニーナが仲間に加わったのと蒼龍狩りを記念して宴をひらくと言い張るサキに仕方なく付き合った。
そこで、サキはライト将軍の娘を名乗った。
英雄ライトと聞き、俺はサリィを思い出した。
あのサリィをも上回った英雄ライトの娘を名乗る半吸血鬼。俺と分かり合おうとしている愚かで生意気な……希望に満ちていた餓鬼。
確実に殺そうと思った。あの日を再現しようと……大河に連れて行き殺そうと、そう思った。
殺して一体どんな感情を得られるのか。その溢れ出る衝動を抑えられなかった。
だから今度こそ味わえるかもしれないと、焦がれたんだ。
善者を、悲嘆に染め上げるほどの『絶望』を。
***
荒ぶる大河の渡船の揺れは、あの果てしない衝動を懐古させた。全身に打ちつく雨風は、俺の身の内から溢れる熱を冷まそうとしているようだった。
熱い感情は湧いた。俺と分かり合おうとした無知で愚かな少女は、絶望に染まり夜の大河に沈んだ。
サキと十日ほど共に過ごした。大河に来るまでに蒼龍の情報を得られたのは運が良かったと思った。あいつの期待は蒼龍でもなければ上回らなかっただろう。予想外の
ニーナという赤い髪の少女はこれまで標的に選んだことのない人柄だった。冒険者や暗殺対象にニーナのような人物はそもそも少ないということもある。
あの日と同じ嵐の夜、まずはニーナを斬った。暗殺部隊で行う死刑執行と同じく胸を一斬りにした。意識を奪っていたニーナは、泡のような血を溢れさせすぐに生き絶えた。見慣れた死に様だった。
そしてやはり、いつもの通り。
死に様には熱が沸く。
普段と異なったのは、その死が無垢な少女のものであったことだ。これまで関わったことがないような弱気だが好奇心のある純粋な餓鬼。
胸焼けがするような不快な『感情』が喉に込み上げた。俺には死に対して湧くその刺激こそが快楽だった。
ニーナは、親が死に一人で生きていくために冒険者になったと言っていた。それが、こんなところで訳も知らぬまま斬られて死んでゆく。
冷たい雨が、ニーナの温い血を洗い流した。
俺はニーナの死の余韻に浸っていた。
そのとき嵐と激流の音の中で微かに声が聞こえた。
『なによ、これ……』
横たわって薄っすらと目を開いた少女がいた。サキは斬り殺す前に目を覚ました。
……
殺した瞬間……大河に蹴落としたときは昂った。
しかしあの荒れた嵐の下、俺の微かな期待は脆く崩れ去った。あのとき勇者と持て囃されていた男を殺した瞬間ほどの激情は得られなかった。
そう、いつも通りだった。何かが足りなかった。
初めて人を殺した日に得た『感情』。
勇者と呼ばれた男を殺した日に焦がれた『絶望』。
初めて『感情』を味わった日から世界は色付いた。かつての淀んだ毎日に戻ったわけではない。殺せば色付く。しかし、焦がれた『絶望』は得られなかった。
新たな衝動も無かった。
--もう大河での殺人を重ねて何年になるか……。
西部に戻りあの日殺した勇者に近い善を感じる者に近づくか。また、あの日を
「……」
二人を大河に沈めた後、俺は嵐の中に立ち尽くした。
***
大河を渡り切り、人が減っていたことに気がつき怪しみ困惑する船頭は、余っていた蒼龍の身体を渡し黙らせた。
『そ、蒼龍の身体……お前さんの、剣……わ、わかった。世の中には知らないほうがいいこともある……』
人の少ない大河下流域で船頭をしていた、その草臥れた中年の男は物分かりが良かった。
ここ数年似たような言葉を、俺は何度も聞いていた。
ーーこのまま繰り返すのか? 西部に戻り大河での殺人を……。
勇者と呼ばれた男の死に魅せられて大河での殺人に拘っていた。
しかし、嵐の夜という場面まで再現して、ここまで好条件の相手を殺したというのに『絶望』は訪れなかった。
--同じであることに拘ったのが、間違いだったのか?
……殺す対象を変える必要があるかもしれない。そう例えば……馴れ合う必要のない者。
古い記憶を辿ると、脳裏に浮かぶのは共に育った暗殺部隊の連中だった。
そして暗闇で光る一際大きな存在。……サリィ。
額の角が目立つ緑髪に陽のような赤い瞳の鬼族。
思えばサリィには生きる術も殺す術も、この歪んだ世界の仕組みも、何もかもを過分に教わった。
ーーサリィはまだ、暗殺部隊にいるのか?
サリィとまともに戦えば殺されるのは俺だろう。
いや……しかし。サリィならば俺と死合う中で、何かを感じさせてくれるかもしれない。
死闘の中で得られるのではないかと思った。
殺すにせよ殺されるにせよ。
多くを俺に与えたサリィならば、また与えてくれるかもしれない。
焦がれて止まない、熱く深く重いもの。
おそらくは……そう、『絶望』を。
都に帰還しサリィに殺し合いを仕掛けよう。
俺のその行動は、自死に近いものだった。
……否、暗殺部隊を脱け、なおも殺しを続けた俺の人生は常に死に向かっていたのかもしれない。
***
それから俺は都へ向かった。西部へ引き返すことはなかった。
すべてが始まった都へ帰還することを選択した。都と言っても、その城壁にある暗殺部隊訓練場が目的地だ。
その古い砦は森の中、相も変わらずに建っていた。
そして俺もいつもの通りに『感情』は湧かず景色は
それはもう手厚く歓迎されるであろうことを予測して扉を開いた。
そこで俺は、戦慄した。
サリィにではない。ともに育った暗殺者どもにでもない。本来、決してそこに居るはずのない存在。
剣を握りしめたまま立ち尽くした。
俺は予想外の形で手に入れた。
そこにいた、殺したはずの少女に対して沸き上がってくる『熱』を感じた。
--やはり、同じことを繰り返していたのが間違いだった。
『私はお前のことが嫌いだが、それなりに腕は立つようだな。回復し次第、シュタットに着くまでの退屈凌ぎに手合わせでもしてやるわ』
『朝食後、表に出てよね。お前に決闘を申し込むわ!』
かつて生意気で煩わしい少女が、俺に掛けた言葉を思い出した。目の前で全身から血を流し、弱々しげに壁に身を委ねている姿は、初めて
「サキ?」
困惑した。混乱した。
だが、それ以上に悦に入った。
生者に対して得られた『感情』に身を震わせた。高揚のままに笑む。
--お前は俺と刃を交えることで分かり合おうとしていたな。
ならば、当然……受け入れてくれるんだろう?
殺すことでお前に対する『絶望』を抱き、そして理解したいという……この『感情』を。