波が荒立つ嵐の夜。赤子を抱いた人族の女が、大陸帝国最西部のシャトラント村の浜辺に流れ着いた。
女は雨で濡れて重々しく顔を覆う黒髪の隙間から、悲しみの彩りを含む澄んだ碧い瞳をのぞかせる。
彼女は決死の覚悟である館から、生まれたばかりの子を連れて逃げ出し、一応の目的地としていたシャトラント村にたどり着いたのだった。
そのことに安堵していた彼女は、赤子に衝撃が伝わらないように注意しながら、そっと小舟から降りる。
二人の乗っていた小舟は、崩壊しかけていた。暴風雨の中、母子が生きながらたどり着いたことは、奇跡であった。
女は衰弱していく子を強く抱くと、村の民家の方に向かって、震えながら足を踏み出した。
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檻越しに聞かされた、英雄譚。
わたくしが、ライト将軍を知ったきっかけでございます。
さて……では、なぜわたくしが大陸帝国建国の英雄と謳われたライト将軍の故郷である、シャトラント村を、このような嵐の夜に訪れたのか。
なぜ、無責任にも生まれたばかりの赤子を預けることになったのか。
そのことを振り返らせていただきたいと思います。
死に行くわたくしに、声を出す気力はもはや残されておりません。
しかし、必死にわたくしを介抱してくださっている、シャトラント村の村長らしき方の問いかけに、声は出ずとも、答えずにはいられないのです。
……わたくしは吸血鬼族の血が流れる子供を身籠ってしまいました。
……人族の身でありながら、でございます。
--わたくしがこのまま、館に囚われていては、この子の未来はどうなるのだろう。
生まれた我が子を初めて抱いたとき、そう思いました。
そしてやっと、わたくしは館を逃げ出す決意を固めたのでございます。
太古より世界では、数多の人族と、わずかな亜種族たちが共生しておりましたね。
亜種族たちは、わたくしのような人族には理解が及ばないような、摩訶不思議な特性や能力を有しています。
亜種族の特性と言って、まず思い浮かぶのは鬼族の怪力や、長耳族の精霊術でしょうか。……わたくしにとっては、吸血鬼族の吸血が身近でございました。
亜種族は、世界に点在しており、かつては生涯を生まれた村に留まる傾向があったという人族の多くは、伝承や物語としてとしてしか、その存在を知らなかったといいます。
昔……圧倒的な多数派である人族も、能力に誇りを持つ選民的な亜種族も、穏やかに共生していたと聞きます。
……四十年ほど前、世界に、突如として『殲獣』と呼ばれることになる怪物どもが出現して、破壊と殺戮の限りを尽くすまでは。
亜種族と人族は、最初は手を取り合って殲獣に立ち向かったといいます。
ともに殲獣を捕え、火を吐く口を、世の理を無視したかのような飛行を可能にする翼を、大地を操る脚を、分解して解析しました。
しかし、殲獣の力は強大で、あまりに魅力的な過ぎたのです。
次第に殲獣の魔法じみた力……人々が『魔術』として利用したその力に、人族も亜種族も溺れていきました。
亜種族たちは、殲獣が登場したのと同時期に、その固有の能力や特性が、大幅に増幅しました。
原因は不明ですが、おそらく殲獣と何かしらの関連があるのだろうといわれていますね。
もとより選民思想の強かった亜種族は、表面上では協力しながらも、ますます選民思想を強め、人族を見下すようになりました。
増幅した己らの能力と、殲獣たちの魔法じみた力を解析した『魔術』に驕りきった亜種族たちは、人族に戦争を仕掛けました。
人族との長引く戦争に疲弊してきた亜種族たちは、後に帝国建国の英雄と称される、若き英雄ライトの活躍を目の当たりにし、ついに人族を侮っていたことを悟りましたね。
鬼族の将軍の首二つ。獣族の将軍の首三つ。長耳族の将軍の首を三つ。吸血鬼族の将軍の首一つ。小人族の将軍の首四つ。……他にも、落とした砦の数や、狩って武器とした殲獣の数などを考え出すと、キリがありません。
亜種族の王たちは、ライト将軍の活躍に、「人族の王を皇帝に立てる」という不利な条件さえも受け入れ、戦争に終止符を打つ決断を下したのです。
わたくしは、幼いころから聞いて、憧れていた『大陸帝国、建国の英雄ライト』の詩をもとに、ライトの故郷である帝国西部のシャトラント村を訪れました。
嵐の中でした。……村長さまが家の中に上げてくださいましたが、今も、家を打ち付ける風と雨の音が聞こえます。
小舟で、浜に打ち上げられるような形で、わたくしはシャトラント村に辿り着きました。
どうしてその村がシャトラント村とわかったかというと、目に入った岩場が、詩のままであったからでございます。
わたくしは、腕の中で衰弱してゆく我が子を託さなくては、と必死になり、村の中でもっとも海に近い場所にあった、村長さまの家の扉を叩かせていただきました。
村長さまは大変驚かれていましたね。
それはそうでしょう。嵐の中で、軽装の人族の女が、吸血鬼族の翼を生やした赤子を抱えて、立っていたんですもの。
「あぁ、ご婦人、気をしっかりなされ。……衰弱していく。このままでは……もう……。……くそっ、ライトが帰ってくるという便りが届いた矢先なのに……!」
村長さまの悔しそうなお声が聞こえました。
ライト将軍の故郷への帰還。
村全体が、喜びに湧いていたことでしょう。
その喜びを、わたくしのような者の死で、暗く塗り替えてしまうのでしょうか……。……申し訳が、ありません。
「ライト……しょ……う……ぐん」
「あぁ、ご婦人、声が出せるのか!? ……気をしっかり! 今、村の者が薬を用意している……!」
--あぁ、ライト将軍は引退なさるおつもりであると噂されていましたが、まだシャトラント村には帰られていないのですか。
……村長さまの励ましの言葉に感謝するよりも先に、そのような考えが過ってしまいました。
わたくしは……許されるならば最後に、ライト将軍に……一目、お会いしたかったのです。
「……シャトラント村の、村長、さま。……どうか、どうかその子を、よろしく……お願い、いたします……」
子を生かしてもらえるだけでありがたい。本心からそう思います。
ですが……願わくば。
……亜種族どもの、人族に対する侮りを覆した、あのお方に……
--せめて、わたくしの檻越しの英雄と、わたくしの子に……未来に……幸せがあらんことを。
そのような身勝手な考えが湧いてからは、音が徐々に聞こえなくなり、わたくしの意識は闇に溶け、思考はまとまらなくなっていきました。
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嵐が去り、村の会合で蝙蝠ような翼を持つ赤子についての話し合いが行われたとき、ライトは帰郷した。
「……なんだ、その赤子は?」
数十年振りの故郷。
親のいないライトは、ともに育った幼馴染である村長の家を訪ねた。
そこで、村の大人の大半が集まり話し合いをしていた。ライトはその中心にいる赤子に眉をひそめた。
「あぁ……お前が帰る数日前に、ある女がこの子を……我々に託して……死んでな……」
目を伏せながら村長はこぼした。
ライトは、かつて軽薄な若男だったころの村長からは考えられない様子だと思った。
村長の伏せた視線につられて、ライトは赤子を見る。
「その小さい黒翼……まさか半吸血鬼か?」
赤子の背の、小さな黒い翼。帝国最西部の辺境であるシャトラント村に、亜種族の血を流すとき一目でわかる者がいることに、ライトは驚いた。
都シュタットで何らかの任務を与えられた軍人ならば、亜種族でも西部にいるのは、まだわかるのだが。
そこまで考えて、ライトは自嘲した。
--帝国西部で生まれた、半亜種族ならば知っているではないか。
それはライト自身のことであった。
ライトは、都で鬼族との子を孕んだ女が、シャトラント村に帰郷して産み落とした子であった。
元来、ライトは堅物で滅多に笑わない男であったが、英雄と呼ばれ、都で五十年近くもの間将軍であり、さらに歳をとり体格や風格により重みが増したライトに親近感を失っていた村人たちは、ギョッとした視線をライトに集める。
「この子は俺が預かろう。……同じ亜種族の血を流す者としてな」
嵐が去ったばかりの海沿いの村シャトラント。
村の会合所も兼ねている村長の家は、静寂に包まれた。
ライトは、低い声で宣言した。
「ライト……。そうか、ではお前に任せよう」
村長はライトを肯定した。
--ライトは、赤子と自身の身の上と重ねたのか……はたまた、都シュタットで何か……ライトの考えや性根を全く変えてしまうことが起きたのか……。
シャトラント村の村長を代々つとめる家に生まれ、村から出ずに生きていくことを定められていた男は、英雄となった友の数十年ぶりに再会した姿を、眩しく思った。
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ライトは、故郷での日々を穏やかに過ごしていた。村の子どもたちを相手に道場を開き、槍術を教えたり、海の岩場に行き一人槍を振るったり、村の警護として村を巡回したりして過ごしていた。
このような平穏な日々を送ることが、ライトが村に帰った目的の一つだった。
ライトが思い描いていた、帰郷後の生活と大きく異なる点があるとすれば、それは半吸血鬼の少女の存在だ。
ライトは自身が長くは生きられない歳だと考え、半吸血鬼少女のことは、厳しく育ててきた。
幸いにも、少女は人族の血が濃いらしく、小さな黒い翼以外は、吸血鬼族の特性や能力は見られなかった。
日に当たっても平気で、吸血する様子もなさそうだったのだ。
だからライトは、少女を殲獣が其処ら中を彷徨く山に少女を連れて行き、戦わせたり、毎日のように槍術の稽古をつけたりした。
幼い頃からそんな生活をさせていたこともあってか、少女は勝ち気で自信家な性格になり、戦いを好むようになった。
ライトが一人で己と向き合う時間としている岩場での修行にも少女はついてくるようになった。
少女は、過剰に戦闘を楽しむようになっていた。
「ライト、手加減なんてしないでよ! 私はライトと本気の、命懸けの意思疎通を楽しみたいのよ!」
少女は、小さな体で槍を豪快に振り回して言う。目には好戦的な光が宿り、口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
その様子にライトは、少し厳しく鍛え過ぎたかもしれないと反省した。
「戦闘を楽しみ過ぎている。その趣向はいつかお前の足元を掬うだろう」
何度もそのように注意したが、少女はむくれたように頬を膨らませるだけだった。
そんな日々が、十年ほど続いた。
少女は、十五歳になったばかりのある日、ライトに詰め寄り、意を決して言った。
「ライト……私、都に言ってみたいの! 旅をしてみたいんだ!」
ライトは少女にそう言われたとき、良い機会と思った。
ライトは、自身が村を出たことで大きく成長できたと感じていた。
辺境の村に生まれて、軍人として生きてきたライトに厳しく育てられたせいか、少女の感覚はところどころ一般的なものとは、どこかずれていた。
あらゆる面で未熟な少女を旅に出すのは心配ではあったが、その感覚のずれを、都への旅で矯正してやれればいいと、ライトは思った。