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寿の佩玉
poidf
異世界ファンタジー戦記
2024年09月17日
公開日
8,805文字
連載中
現在より約三十年前。
人間領最北に陣取るオセニア北方は、シュチロの大獣による自然災害規模の損失を被り、その死者数、被害規模はあまりにも現実離れして酷かったと言う。開拓者が集う平屋街は瓦礫と化し、本当に人の生活があったのか?ここで日常が送られていたのか?と住民自身ですら疑ってしまうほどの崩壊具合だった。

惨状から三十年。
あっと言う間に月日は流れ、オセニア北方は見事なまでの復興と発展を遂げていた。
オセニア北方と言う大分類ではなく、オセニアの最北都市リビヒと言う名を獲得し、人々は今日も逞しく生きている。

そんなリビヒから西に五十キロ。
うっそうと茂るシュチロ樹海に、不審な動きをする者達がいた。彼らはそう多くない荷物を背に獣道を進み、荘厳な神宮の境内へと忍び込む。心もとなげに、落ち着かない素振りで新月の暗闇を進む彼らは、境内の片隅、離れよりも離れた位置にある納屋を見つけて滑り込んだ。

そうして。

古びた台座に佩玉を置く。

「…コンスゥ殿、どうか起きてもらいたい。」



って言うお話。
表紙とかあれとかこれとかはそのうちにね。
ぼちぼち更新すると思う。他の場所で他の話も書いておりまして、そっちの方が優先度高いので仕方がないね。
やる気満々の時にンワッて作業するので、どうぞお付き合いのほどをよろしくお願いします。

一応毎日作業はしているんですよ。
書いて、考えて、修正して、書いてる。
でも没ったり、うまく書けなかったりするから、その時の調子次第でございますね。
まぁ細かいことは気にするな、のマインドで継続して行こうと思います。
poidfに清き一票を是非にどうぞ。

第一話 子午線越え

小雨に濡れる木々の下。

半壊の納屋に人の気配がいくつかある。


新月の、虫も鳴かない真夜中のことだ。


ほとんど錆びた朱塗りの古鉄塔。

その下で押しつぶされながらも耐える半壊の納屋。

腰丈まですすきが伸び、カイガラムシの張り付いたしだれ桜が木戸の枠に寄りかかる。木戸の隙間に体をねじ込むと、納屋の中央には簡素な木製の台座が一つ置いてあった。漆どころかニスすら塗られていない台座は湿度に腐り、継ぎ目がスカスカになっている。その台座に男がにじり寄り、ポ、と手に持つ蝋燭に火を灯した。たった一本の蝋燭が辺りの闇を一層濃く際立たせ、人ならざる何かがいるのではないか…?とつい想像してしまうような暗闇が全てをじっとりと支配する。やけに旺盛な木々がざわざわと揺れる音もまた、彼の心をざわつかせた。


彼の名をビスカーチャと言う。

今年で二十八になる彼は、その歳にしては線が細く色も白かった。育ちがお上品と言えば良く聞こえるだろうが、今この場ではあまりにも頼りなく感じる筋肉量だ。暗闇から敵意ある何かが出てきたらやり返せるのか、男らしく拳を振り上げられるのか怪しい彼は、言わずもがな己の影を飲み込む暗闇が気になって気になって仕方がない様子である。新月に重なった小雨の空模様なれば、それはもう獣の夜目すら効かない暗さだ。とて人は本能的に暗闇を恐れるものだし、怖がるべきでもあろう。例外なくビスカーチャも暗闇が怖い。だが彼は蝋燭の明かりに縋って恐怖心を押さえ、蝋燭の明かりに浮き上がる影が不気味の踊るこの場に留まり続けた。台座を撫でて小物を置き、ポフポフと弱腰な柏手を叩いての繰り返し。繰り返しているうちに彼の周りには古い鉄扇、得体の知れない獣の根付、少量の御神酒や果物、麦の穂に乾物、そして僅かばかりの絹糸などを散らかして、それでも飽きることなく取っかえ引っ変え台座に乗せては試し続ける。しかし何度やっても答えは得られず、それならばこれを…と腰に揺れていた古い佩玉を手を伸ばした。つやつやとした乳白色の佩玉には五色の紐飾りが括り付けられ、パッと見ただけでも大切にされてきたのだろうことが窺い知れる。


ビスカーチャは台座に掛けていたハンカチを綺麗に広げ直して、佩玉を丁寧に横たえた。

当然だが、光りもしなければ音が鳴るわけでもない。だがビスカーチャは何かを見てハッとし、背筋を伸ばして柏手を強く鳴り響かせる。湿った空気が震えパラパラと塵が落ち、余韻の後にはじわりと嫌な静寂が広がった。見計らったかのように蝋燭の火の揺らぎが静まり、炎がまっすぐに美しく立つ。無音の静寂から来る恐怖と、立つ炎から醸される神秘的な雰囲気が、妙なところでシンクロした。


してしまった。


「…コンスゥ殿?」


ビスカーチャが小声で呼び掛ける。

月明かりは届かず、そも月が空になく。蝋燭一本ごときに払える闇夜でもなければ、呼び掛けている相手の顔も見えやしない。しかし納屋の奥にキラリと緋色の煌めきが見え、衣擦れの音がなんとなくの位置を教えた。緊張のあまりビスカーチャの心臓がやかましく鳴る。噂によればコンスゥと言う者は気が触れてしまったからここに寝かされているらしい。噂など聞かねば良かった…だなんてかつての好奇心に後悔を覚えてもすでに遅い。ビスカーチャはここまで来てしまったのだ。もし本当に気が触れていたら、そんな相手を起こそうとしているのだとしたら…とあれこれ考えても、もはやビスカーチャには相手を起こす以外の道がなかった。


五十キロの道のりを歩いて、道中多くの危険に晒されながらここまで来たのだ。

全てはコンスゥ殿とやらを連れ帰るためである。


「コンスゥ殿、どうか起きてもらいたい。」

「うぅん…起きるとも…よぉし…起きるぞ…。」


若い女の眠たげな声が、納屋の奥から聞こえる。

とりあえず気は触れてなさそうだ…とビスカーチャはホッと詰めていた息を吐いた。安心して余裕が出てきたのだろう。もしくはこの暗闇に慣れてきたのか、はたまた秘められていた第六感が開花したのか、ビスカーチャは闇夜の奥の影をぼんやりとながら視認し始めていた。影の向こうで誰かがうつらうつらと船を漕ぐ。強い光を見た後の瞼の裏に残る残像のように、その誰かの姿がなぜだが感じ取れた。


「…二度寝?」

「んえ、あぁ…起きる…。」

「コンスゥ殿、できれば早くここを離れたく思う。頼むから起きてくれ。」

「起きる、起きた…よし、起きた。」


目を薄め、開き、凝らしてみれば、闇夜の詳細が見え始める。


奥に檜風呂があった。

水の音がしないあたり、湯は入っていないようだ。一度も使われていなさそうな檜風呂の縁を〈コンスゥ殿〉の手が掴んでいた。しかし立ち上がる音は聞こえず、不安を感じたビスカーチャは『立ち上がれるか?』と呼び掛ける。ビスカーチャの護衛が察したように動き始め、幼さの残る一人は控えめな色の羽織りを手に、力自慢のもう一人は袖をまくってコンスゥを抱き上げようと手を伸ばした。


せっかちな彼らの動きを、コンスゥの色白な手が止める。


その手指や手首に巻き付く宝飾と見慣れない刺青に、彼らの視線は惹きつけられた。

人差し指の宝飾一つで示すに事足りる、あまりにも高いその身分。ビスカーチャ達の知る誰よりも、遥かに高い身分だった。だがビスカーチャはさらに知っている。このご時世、身分と言うものは厄介だ。呼んでもいないのにやって来る客や、勝手に羨ましがってありもしない噂をささやく者、謀を腹の底に近付いてくる者は非常に多い。特に何も害はないのだがなんとなく…身分をひけらかすような相手と知り合いであることを鼻高々と見せつけてくる者もいる。相手を利用し己を上げる、虎の威を借りる狐もどきも後を絶たない。ビスカーチャ自身、望んでもいない身分をつけられてしまった一人であり、だからこそだろうか。コンスゥの手を見て同情心に近い仲間意識を抱いた。


あれは生まれ持った身分ではない。

名前と共に刻み込まれた身分だ。

しかもビスカーチャのそれよりも遥かに重い。


「まぁ待て。とりあえずその佩玉と、あそこに落ちている線香一束を取ってくれるか。ついでにお前は誰だ?ハリス…ではないよな。彼はもう若くなかったはずだ。」

「俺はビスカーチャだ。ハリスレイヨウは俺の父だよ。父に頼まれてここまで来たんだ。」


蝋燭を手にビスカーチャが屈む。

檜風呂には古びた綿入りの着物が押し込まれており、その中にコンスゥは上半身だけを起こして座っていた。蝋燭の明かりにちらついていた赤い煌めきはコンスゥの長い尾だったようで、見事な昭和三色に鮮やかな赤いひれがゆらりゆらりと揺れている。口元しか見えないほどにフードを深くかぶっている、それ以外の詳しいことは暗闇の中では分からないが、仮に煌めく尾が犬の尾と同じものだとするならば、今のコンスゥの感情は〈驚いてしまって落ち着かない〉と言ったあたりだろう。ビスカーチャのこの推測は正しく、フードで前が見えていないはずのコンスゥは『あれに息子が…!?』と驚いた口調で彼を見上げた。見えていないのだが、その動きからしてどうやら問題なく見えているようである。そういう妙技があると話には聞いたことがあるし、ビスカーチャの父であるハリスレイヨウもこの妙技を身につけているから、別にありえない振る舞いでもない。とてまぁ妙技と言われるだけあって一般的なものではないのも事実。一般的ではない技を身につけていると言うことは…と考えかけたビスカーチャだったが『ハリスの子にしては行儀も顔もいい…嘘だろう…』と思いの他にショックを受けているコンスゥについ笑ってしまう。小さく笑いつつ佩玉諸々を握らせてロウソクの灯りを近付ければ、コンスゥは『あぁすまん、ありがとう』と線香を握り、ふわりと緩やかな動きで撫でた。すると先行の先端が赤くなり、太い煙が登り始める。


無風の中で煙はうねり、ゆるりゆるりと大気を編む。


「さてと…息子な。なるほど。あぁ佩玉は返すよ、ありがとな。んでビスカーチャ。帰り道は?」

「あんたに頼ればいいって父が言っていた。」

「ははは、こうなってもまだ頼ってもらえるのは嬉しいがな、全く相変わらず人使いが荒いものだ。んじゃあ…そう言えば霧守神宮ここの鎮守森は禁足地だったか。丁度いいから私の足を慣らしがてらに堂々と横切って行こう。今出れば日の出に間に合うかもしれん。良い場所を知っているんだ。」

「この際だから禁足地に入るってのは了解として、日の出も楽しみにさせてもらって…でもあそこ神隠しに会うって聞いたことがあるんだけど。」

「神がいない山で神隠しなんざ笑える話でしかないだろうよ。しかしどうしても不安なら、納屋の表にある表札みたいな木っ端をポケットに入れておくといい。まぁ確かに昔からこの山は人がよくいなくなる山ではある。姥捨ての時代もあったし、見通しの悪い樹海だからかそれなりの登山者もすぐ迷子になってどこぞに消えてしまう。神隠しと噂されても致し方なしだ。しかしな、あれの九割以上は不幸な出来事によるものだ。川に流されたり、遭難したり、獣の縄張りに踏み込んでしまったりな。」

「一割は?」

「仙人や天狗に招かれての山入りだ。なろうとして成れるわけもなし、なれば誇るべき天命だろうて。本人の意志を確認しないのはあれら唯一の欠点と言えるが、なぁに、成ってしまえば些事だろう。」


よっこいしょ、とコンスゥが立ち上がる。

力自慢の一人が手を貸し、寝起きの彼女は不慣れな歩みで檜風呂の淵を跨いだ。何度かその場で足踏みして体の動きを確認した彼女は、はたまた何を思い出したのかキョロキョロと辺りを見回す。蝋燭の火がもうすぐ消えそうで、不安定に大きく揺れた。気付いたビスカーチャは新たな蝋燭を取り出して火を移し、コンスゥは無造作に重なっている家具だったらしき残骸の山を崩し始める。幼さの残る一人がそれを手伝い、つられて力自慢とビスカーチャも失せ物探しに協力した。どうやらどこかにお気に入りだったランタンがあるはずで、帰路を思えば蝋燭ではちょっと…と思ったらしい。しかし探せど探せど見つからず、時間もないし仕方なしとコンスゥはあっさり諦めた。彼女の声や雰囲気の軽さから察するに、コンスゥはビスカーチャと大差ない年齢である。しかしその口調、振る舞い、雰囲気はさらに上だと錯覚を覚えるものだ。ましてやコンスゥはビスカーチャの父であるハリスレイヨウを、まるで親しい中のように話してもいる。これについてビスカーチャは父から強く注意を受けていた。


何も聞くな、と。


「さて、と。行くか。リビヒに帰ろう。」

「出立前にこれを。父から貴女に。」


お気に入りのランタンを諦めたコンスゥは、ビスカーチャが握っているそれを見て嬉しそうに笑う。顔の大半はフードに隠れているので、やはりビスカーチャには彼女の口元しか見えないのだが、それでも跳ねるような声でその嬉しさが伝わってきた。


「私の大鉈。良かった、神宮に盗られたかと。」

「貴女は訳ありの一振りを使うのか?」

「訳も何もこれは殺しやら討伐、肉の調達やらに使ってきた道具だ。野盗ですら使い捨ての武器など選ばんし、血が付けば武器に限らず大抵の物が訳ありになる。そう言う物なのだから、こだわるようななことでもなかろうさ。それよりも使い勝手を気にした方がいいと思うんだよ。殴れば勝てる武器は楽でいいぞ。ははは。」


じゃあ行こうか。

そう笑って歩き始めたのが二日前。


一行は何に追われることもなく禁足地を進んでいた。

一行の先を行く清らかな細い水の流れは、ビスカーチャ達が歩みを進めるほどに合流し、次第にまとまったものとなる。急峻な山の斜面をびっしりと覆うシダの群生地を流れ落ち、低い方へ低い方へ、つまりは肥沃な平原へとビスカーチャを先導するかのようだった。コンスゥはその流れを疑わずに辿り、疎らとなった森の合間、ぽっかりと開いた草地で足を止める。じわじわと滲み始めた東の空から光が一筋差し込み、コンスゥが深く被っている夜色のフードとその縁に揺れるくすんだ銀飾りが僅かに揺れた。紅梅色のスカーフは薄く柔らかそうで、帯留め金具が緩く留めている。飴色と白、薄青色のオーバーサイズ気味な上着は道中の草木に擦れて所々汚れているが、ビスカーチャはその色合いに覚えがあった。今、目の前に広がらんとしている夜明けの空の色だ。紅碧色のシャツ、上着に縫われた淡黄色の数珠飾りと房飾り、全てが早朝の色である。


「…コンスゥ殿?」

「うん?あぁ先を急ぎたいと言っていたな。」


屹立した岩壁が遠くに見えた。

リビヒまでまだ距離がある、とビスカーチャは気を引き締め直す。

対してコンスゥは立ち止まって空を見上げていた。


彼女が納屋で言っていた通り、素晴らしい景色が目の前に拡がっている。

しかしあまりにも美しくて、ビスカーチャ達は薄らとした恐怖も感じていた。風が止み、鳥も鳴かず、木々の葉が擦れる音すら聞こえない。水だけがちゃぷちゃぷと流れていくが、なぜだかそのせせらぎも遠くに感じた。だからこそなのだろう。足元からは湿った土の香りが濃く立ち上ってきて、腐り食われ腐葉土へ変わる木の具合や、そこに生えるマイタケの妙な香りも感じられた。濃厚な自然の息に圧倒されかけたビスカーチャは、ここには人間風情が立ち入る隙など欠片も存在しないと思い知らされる。今、ビスカーチャ達がこうして何事もなく歩いていられるのは偶然だと、目に見えない何者かに睨まれているかのようだった。


何者かに。

そう。納屋の暗闇で感じた人ならざる何かの支配を、首筋に。


短い草が風に撫でられて波が寄せる。

振り返ればこれまで歩いて来た禁足地の森が変わらずに茂り、その木々の隙間、影の落ちる隙間の奥に大きな双眼がはっきりと見えていた。どこぞの誰かが提灯でも掲げているかのような、鮮やかで大きい橙色の双眼だ。縦に細められた瞳孔からは人の言葉にできる感情など読み取れず、獣の言葉などビスカーチャは存じ上げていない。そも言葉が獣に存在するのならば…ではあるのだが、とにもかくにも穏便にやり過ごせる相手ではないのだろう。悲鳴も上げられずにいるビスカーチャに気付いたコンスゥと、連れ二人が視線を追う。驚いた連れは息を飲み、本能的にピタリと動かなくなった。背を向けず、視線を逸らさず、ジリジリと後退できた辺りは褒めねばなるまい。勿論、コンスゥは彼らの冷静な、もしくは本能的な判断を褒め、残念ながら腰を抜かしてしまったビスカーチャを見下ろす。


「木々の影から出てくる獣ではないはずだが、出てきたのなら私がやろう。援護はいらんぞ。腕試しをしておきたいからな。」

「あれは一体?」

「シュチロの獣だ。見たことあるだろ?リビヒ近くの森にもいたはずだ。」

「いやシュチロの獣は知っているけれど、あの大きさのは初めて見た…もしかして過去にリビヒを襲った獣って言うのはあれのこと?」

「んなわけ。あれはもっと派手だった。」


コンスゥがビスカーチャの前に出る。

肩にかけ腰にくくった大鉈の固定具には雄鶏の尾羽が一房揺れ、革の鞘には上着と同じ黄淡色の数珠飾りが巻き付けてあった。宝飾の煌びやかな白い手が大鉈の柄を握り、ザリリ…と鞘を擦って引き抜かれる。まさか向かってくるとは思っていなかったらしいシュチロの獣は、立派なたてがみを逆立てて低く唸った。しばらくそうして睨み合っていたのだが、コンスゥが大鉈で地面を一発叩くとすごすごと引き下がって行った。手軽な朝食として狩る相手ではないと、ようやっと理解したらしい。理解できるだけ賢い獣と、コンスゥはあっけらかんと笑う。


「獣は良い。その身だけで向かってくる。人はこうもいかんからな。」

「昔、父が貴女を巻き込んだと言っていた。もう一度巻き込まれてほしいとも言っていた。」

「構わんよ。友の頼みだ。何度でも付き合おう。ビスカーチャも何かあったら言うといい。私にできることなら手を貸すぞ。」

「なぜ俺にも?」

「友の一人息子だ。そりゃあ可愛いもんなんだよ。」


そうして禁足地を無事に抜け。

一行は近くを流れる大きな子午線川までやって来ると、丸太流しをしている船を捕まえて下流まで乗せてもらった。お陰様でそう苦労せずにリビヒ郊外へと辿り着き、丸太流しに誘われて一夜を明かし。翌日は幸運にも、早朝から仕事をしていた農民の藁馬車を捕まえて更に進む。次第に道がしっかり整えられたものになり、畑や家が増え始め、遠くにうっすらとリビヒだろう影が見えてくる。屹立する岩壁も随分と近くまで迫り、万年前から変わらない威圧感で世界を見下ろしていた。藁馬車を引く馬を休ませがてら昼食を食べ、進んでは休んでを繰り返して、​昼過ぎにようやく辿り着いたリビヒの街はコンスゥの記憶にあるものとは大きく異なっていた。街並みも、そもそものリビヒの周りの景色もすっかり発展したものとなり、街はいまや都市と呼べる規模にまで拡大していたのだ。やっと故郷に戻って来られて嬉しいのだろう。あれは最近建てられた青空市場で、これは新しい特産品候補で、あのお店は最近流行りで…とビスカーチャはコンスゥの手を引いたまま案内をしてくれる。活気あふれる大通り、よく働く女達、尻に敷かれる男達と、駆けまわる子供はいつの世も変わらず可愛がられている。行き交うロバは荷を引っ張り、そのすぐ隣をやや古い車が追い越していく。ポコポコと音を立てて走る車は角を曲がり、荷台に山盛りの葉野菜を市場へと運んで行った。街灯に掲げてある旗は何の広告か、多くの人の注目を集めているようだ。ビスカーチャが終始連れ歩いていた彼らはこれで仕事が終わったのか、一言二言告げると歩き去っていく。恐らくは護衛を任されていたのだろう。街の人々に比べて、身に付けている物が随分といかつい。


「コンスゥ殿、こっちに。もうすぐ家に着く。」

「ハリスの家は向こうだった気がするが、引っ越したのか?」

「貴女の家だ。」

「私の?私はリビヒに家など買ってない…。」


呆気にとられているコンスゥを引っ張りながらビスカーチャは路地を曲がり、とある古民家前で歩みを止める。


鳥のさえずりが聞こえる静かな路地。

胡同フートンにどことなく似た細い路地には同じ背丈の家々が並び、明るい茶色の石畳が地面に伝統的な模様を描いている。花壇には色とりどりの小花が集まって咲き、なびく洗濯物は家庭的な微笑ましさを感じさせた。ここらの子供は学校にでも行っているようで、甲高くて騒がしいもとい元気一杯な声は聞こえないけれども、家々の玄関先に置いてあるボールや三輪車を見るにそのうち賑わってきそうだった。すずらんが多く咲いている…とコンスゥは家と家の隙間や、生垣の下、空き地の奥を見て柔らかに微笑む。真っ白の鈴蘭が昼の日差しに照らされ、そよ風に揺れている様子はとても良いものだ。良いものだがやはり、こんな可愛らしい路地に家を買った覚えはない。


「ここだ。今日からこの家は貴女のものだ。祖父が貴方に遺したって、そう父が言っていた。家具も日用品も揃えてあるけれど、他に欲しいものがあったら俺に遠慮なく言ってほしい。とりあえず俺は急いで父を呼びに行ってくるよ。コンスゥ殿は中を見て回って、好きなように休んでてもらえればと思う。」


ほら、とビスカーチャが玄関を開ける。

アンテーク調の玄関灯にカランコロンと鳴るドアベル。まだ何も生けられていない花瓶。高い天井には立派な梁が渡り、採光用の小窓から日差しが差し込んでいる。ほう…とコンスゥは家の中に足を踏み入れた。ウナギの寝床のように横幅が短く奥に長い古民家は、どこを見ても柔らかなしつらえで揃えてある。テーブル、本棚、裏庭、全ての部屋を覗いて二階へと上がれば、階段上がってすぐ目の前に居心地良さげな広いベランダがあった。屋根と一体化した日よけにすだれ、手の込んだ細かな模様が特徴である異国の格子窓マシュラビーヤが外からの視線を遮っている。ベランダの隅に置いてある観葉植物は葉を広げ、斑入りの葉がデッキチェアの背に触れる。外の景色を見ようとしたコンスゥに、一階にいたビスカーチャが『紅茶を淹れた』と声をかけた。紅茶ができたなら行くしかなし、コンスゥは階段を下りてリビングに戻ってくる。


「良い家だな。遺してくれたならありがたく貰うとしよう。んで早速欲しい物があるんだが、油性ペンはあるか?」

「油性ペン?あるけれど。」

「貸してくれ。」


そうして部屋の中心あたりで立ち止まり、何を思ったかカーペットをよいせほいせと丸め始めた。

何を?と言いながらもビスカーチャは引き出しから油性ペンを出してくる。受け取ったコンスゥは部屋の中心、それはもうど真ん中を探るようにウロウロと歩いた。風変わりな服の裾から覗く昭和三色の長い尾は、床に触れるか触れないかの位置を撫で、赤い鰭はビスカーチャの足を掠めていく。


ピタリとコンスゥの動きが止まった。

片足を軸に、もう片足でぐるりと形だけの円を描く。

そしてしゃがみ込むと、油性ペンで何やら書き始めた。


「四方の護りが相変わらず弱い。ハリスはこう言うのが苦手だよな。何度やっても上手くならなかった。ビスカーチャにもそのうち教えてやろうな。うーん…十二方は分割して明暗分けたいなぁ。あぁ蛇は避けておこう。あの細長いのは嫌いなんだ。家畜は富になるから歓迎してやろうな。猫はやめておこう。家の主になりかねん。人類の友は犬だけだ。」

「…それは?方陣?」

「験担ぎ。気にするな。カーペットを戻せばないも同然だろう。」

「そう。俺にはよく分からないけれど、分かったよ。じゃあ父を呼びに行ってくる。昼は何食べたい?」

「魚がいい。来る途中に美味しそうなのがあった。あれが食べたい。その隣にあった団子も気になる…。」

「分かった分かった、色々買ってくるよ。」



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