夕日が沈むころ、猫山輝葉は、店に暖簾を下げていた。
「よし。今日も張り切っておもてなしするか!」
パチンッと頬を叩き猫山輝葉、通称テルは気合いを入れた。テルは。夜だけ営む小料理屋『トラ』の店主だ。温かくて優しくて美味しいと人気の店でもある。しかし、店は夜にしか開かないし、店に招き入れるお客も少なくしている。なぜ人気なのにそうしてるかと言うと、テルは、夕日が照らすと人間になり、朝日が昇ると猫に戻る摩訶不思議な猫だからだ。以前、助けてもらった女性の
「私のお礼はいいわ。私の代わりに困っている人を助けてあげて。」
の言葉から、小料理屋を開くことにした。
今日も、暖簾を掲げてから、料理の下準備をしていると、カラカラと戸が鳴る。
「いらっしゃいませ。」
「よっ。今日も来ちゃった。」
いたずらっ子のように葉を見せて笑うスーツ姿の男性はこの店の常連客、小波蓮だ。サラサラした黒髪に白い肌に目鼻立ちのしっかりとした顔だからか若く見られがちだが、30代を過ぎて、会社のお偉いさんだとテルは認識していた。
「今日も来てくださりありがとうございます。蓮さん。今日はいかがなさいますか?」
小波がよく通うようになってからもテルが小波さん、小波さんと言うことが、気に食わなかったのか、小波が蓮呼びをテルに強制させたのだ。
「今日もお通しはテルくんのお勧めで、あとビールとこのブリ豆腐をもらおうか。」
この店は、テルが猫だからか、肉料理があまりなく、魚料理がほとんどだ。それも好評で、女性の常連客も多くいる。
「かしこまりました。」
「それにしても、やっぱりもう少し呼び込みした方が良いんじゃない?テルくんの料理も美味しいんだしさ。」
「そう言ってもらえると嬉しいのですが、僕は、今の常連さんたちを大切にしたいんです。」
テルは、小波と話しながらテキパキと手を動かす。小波はにやにやしながらビールを飲む。
「そんなこと言われちゃうともっと通いたくなっちゃうなぁ。」
「ははっ。ありがとうございます。はい。お通しのホタルイカとほうれん草のお浸しです。」
「ありがとう。頂きます。んっ。流石だね。美味しいよ。」
「こんばんは。入っていいかしら。」
「いらっしゃいませ。圭子さん。どうぞどうぞ。座ってください。」
船橋圭子は小波蓮の隣に腰を下ろす。船橋圭子は、隣り町に住む専業主婦だ。もう子供は家を出ているらしく、旦那さんが飲み会などで家にいないときなどにここを訪れる。下戸でお酒はあまり飲まないが、料理をたくさん食べてくれる。
「今日は歩いてきたから、お腹空いちゃった。今日はがっつり目のものを食べたいわ。」
「かしこまりました。今日は、新鮮なアジを取り寄せてあるのでアジフライなどいかがでしょう?」
「良いわね。じゃあ、それをお願い。あと、冷たいお茶が欲しいわ。」
「僕も頼むよ。後、ハイボールもね。」
「貴方はほんとに酒豪ね。」
「そんなあきれたように言わないでくれよ。仕事疲れの癒しなんだから。」
「はいはい。」
「二人とも喧嘩しないで下さい。圭子さんにお通しのホタルイカとほうれん草のお浸しをどうぞ。蓮さんは、ブリ豆腐お待たせいたしました。」
「ありがとう。」
「まぁ、お通しもおいしそうね。」
そこから三人で話に花を咲かせた。
その日の深夜、テルが店じまいの準備をしていると、戸を叩く音がした。返事をして、戸を開けると、外に河童が立っていた。テルの店には品減のお客さんが一通りいなくなった深夜2時過ぎから、人ならざるものが来ることがある。いわゆる人間が言うあやかしの部類だ。自分もそっちよりなのかとも思ったりするので、テルはあやかしも快く受け入れていた。
「いらっしゃいませ。一見さんですよね?お入りください。」
河童は、水かきをぺたぺたさせながら椅子に座った。
「何になさいますか?」
「オラ、きゅうりとたまごが大好物なんだっぺさ。それくれよ。」
「んー。冷たいお料理が良いですか?温かい料理がいいですか?」
河童は、テルが渡したキンキンに冷えたお冷を一気飲みして答えた。
「あったか料理が良いな。」
「かしこまりました。」
テルは笑って、手を動かし始めた。きゅうりを塩でもみこみ、薄い輪切りにする。それを解いた卵と混ぜ、フライパンに入れて、くるくる回す。
「お待たせ致しました。きゅうり入りの卵焼きです。マヨネーズをつけてお召し上がりください。」
河童はそれを見て、不思議そうな顔をした。テルは、内心ドキドキしながら河童が食べるのを見ていた。何しろ、初めて作った料理だから、美味しいのか限らない。しかし、その心配は杞憂に終わった。河童は目をキラキラさせて、
「これはうまいっぺな!ありがとう。」
そう言って、ご機嫌に帰っていった。
朝日が昇る前に、テルは暖簾を下げる。朝のせわしない人々を見ながら、小料理屋『トラ』の前にいるオレンジよりの茶猫が大きなあくびをした。