森はほとんど林の状態であるとはいえ、空を覆い隠し外よりも涼しくするほどには緑が深く、どこからか野生動物の動く音、鳴き声などが聞こえてくるのであった。のどかはぴょんぴょん跳ねながら奥へ走っていって、はやくはやく、と手招きして僕を急かす。
「ムムッ!警察犬が反応を示しました!街灯捜査官!この付近にホシが潜んでいるようです!」
「なんだと!本部、応援求む。繰り返す。本部、至急応援求む」
途中からはなんだかよく分からない設定になりながらも、僕らはテロ組織を壊滅させ、死線をかいくぐり、爆弾を解体し、人質を解放、さまざまな困難を乗り越えて、どうにか一時間を遊びぬいた。
飽きた。
「うん……。飽きてきたな……」
「次何しよっかー」
言いながら、さくさくと古葉を踏んで歩いてゆく。道は知らないが基本一本道なので、迷うことはない。といっても、狭い森なので、同じ場所を何度か行ったり来たりしている。
ふと、前を歩いているのどかが顔を上げて立ち止まった。
「あれ!」
指をさす。
先には、わずかな空に見え隠れする、電波塔が見えた。すぐそこだ。
「電波塔!」
なるほど確かに電波塔だった。
背の高さはだいたい6階建てビルくらいか。下が晒しのコンクリートのタイプで、フェンスなども特になく、誰でも自由に立ち入りできるようになっている。
しかしなにより目を引くのは、それがペンキをまるごとぶっかけたみたいに、黒一色で塗りつぶされた「黒い電波塔」であるという点だった。
「……なんで黒一色なの?」
「普通赤白とかだよねー」
のどかは珍しがって笑い、駆け寄ってゆく。しかたなく僕も (そしてちょっとの好奇心もあり)後に続く。
その黒い電波塔の足元から見上げると、ちっぽけと考えていたそれは想像よりも大きく圧倒してきた。黒という色彩のせいもあるだろう。木の葉の天蓋を突き抜けて空に消えるそれは一種荘厳な神殿のようですらあった。
のどかは大きな目と長いまつげをぱちぱちさせて、同じく気圧されているらしい。しばらくして、ハッと飛び跳ねると、
「すごいねー!」
と、瞳を輝かせた。
「秘密基地つっくろ!」
「……ここに?」
僕が訊き返すと、のどかが勢いよく頷く。なるほど、この秘密の場所を自分のものにしたいらしい。子供にとって最も簡単な所有権の主張は「秘密基地化」である。
まあこういった、すでにガワができている状態の場合は楽なもので、簡単な掃除と、私物を持ち込むだけでいい。それで特別な秘密基地の完成だ。
「わかった。作ろ」
「やりい!私いちばんっ」
言うが早いか、のどかは電波塔の内部、コンクリートの晒し部分に飛び込んだ。
正方形のちょっとしたひと部屋はある空間である。壁はないが、かわりに周囲を鉄の檻が囲っている。そう考えると、たちまちこの場所は僕ら子供にとって魅力的に堅牢なアジトになりうるのだった。
中に入ってみると、思ったよりも広々としている。屋根がないのが唯一難点だが、緑のカーテンがだいたいの雨粒を取り除いてはくれるだろう。
見回す。すこし埃っぽいくらいで物はない。掃除は軽く掃く程度で――と、僕が視野を戻しかけたとき、視界の隅で、ちらりと異様に白いものが映った。
コンクリートの灰色に合わない色。
白と赤。
皮肉にも先ほどのどかが挙げたようなカラーリングが――僕の気を引いたのだ。
「あ!」
やがてのどかも気が付いたのか、遅まきながら地面を指さした。
「手首だ!」
手首だった。
「――どーする?街灯くん、先生よぶ?」
僕ら子供界隈では緊急事態があればすぐに「先生」「親」の二択が頼り先である。(どちらもとれない際は「近くの大人」。) そして、これは明らかに、緊急事態といっていい状況だった。
「ちょっと待って……考える。」
僕の言葉に、のどかが黙り込んだ。肯定の沈黙と受け取り、手首におそるおそる近寄ってみる。
この事態で最もおそれるべきなのは「勘違い」だ。
よくこういった騒ぎ、通報パターンでありがちなのが、マネキンなどのパーツでした、というものである。混乱が最も毒だ。こういった場合、落ち着いて行動するべきだ。マネキン勘違い事件で警察の方を煩わせるわけにいかない。幸い、僕は見慣れている……というほどでもないが、本物の死体は何度か見たことがある。電車に飛び込んだ、轢死体も一度だけ事故で目撃した。(すぐに目隠しされたが。)
本物かの判定は……できると思う。
自信はあんまりないが。
凝視する。――白っぽくなった死体独特の肌。皮膚に飛沫した血液。手首断面はやや乾燥している。骨は肉に埋もれて見えないが、引きちぎられたかのような乱雑な切断面なので、まずマネキンではない。枝でつついてみると強めの弾力がある。中身が綿である可能性はゼロになった。
細めで、爪がとがって長く、赤いネイルをしているが、おそらく男性の手だ。死後どれくらいかまでは分からない。そこまで死体に見慣れているわけじゃないし。ただ、血液の乾きようから察して、少なく見積もっても数時間そこらではないのは確かだ。
「……本物?」
のどかが、小さく訊く。
「……だと思う」
「サツジンハン、いるのかな」
はからずも囁き声で、のどかは周囲をうかがった。恐怖というよりは無謀な好奇心が勝っているようだ。
「死後経過からしてそれはないと思う。ここに手首を置いておく理由はないし。万一何らかの理由があったとして、ここが殺人犯の拠点ならまだしも――」
「そっかー!そうだよねー!」
安心しきったようすで、のどかは脱力して大きな声を――いや、彼女の範囲でいつもの音量にして指をひらひらさせる。僕もそれを見て、力が抜けた。そうだ。ありえないじゃないか。日常において、人間の、それも切断された本物の手首に遭遇する確率がどれだけあるっていうんだ?これは99パーセント精巧な偽物だ。大人には報せるべきだが、前もって冷静に偽物だと説明して、しかるべきように処分をしてもらえばいいだろう。
僕が確信をもって屈んだ体勢から立ち上がったところで――そして――固まった。
乱暴な足音とともに、誰かが近づいてきていた。
壮年の男だった。
物凄いクマをしていて、両目の焦点が合っていない。スーツ姿だがアイロンもかかっていないくたびれたもので、会社員にはとうてい見えない。男は、
男は、僕らの背後の手首を指さしていた。
「おい、――」
男は僕らの存在にやや驚いたようすだったが、手首には驚いていなかった。
僕はちょっと冷や汗をかく。そして一瞬のうちに潜考する。男は何者なのか。堅気ではなさそうに見える。そして手首が偽物だという僕の説。早計だった。だからといって気を抜くべきではなかった。男の手首への反応。男は手首の関係者か?まともなのか?僕がいますべきことは、
「わ――――!!」
僕が結論を出す前に、思考を切り裂いてのどかの悲鳴が入ってきた。のどかも男の存在に気が付いたらしい。
「サツジンハンだ――!!」
そして、叫びながら僕と手首を引っつかんで逃げ出した。