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「キリカ、起きなさい」


 そう頭を撫でてくれる母の手が好きだった。


 細い指で、けれどその華奢な見た目と違って目をこらせば幾多の傷が刻まれていた。あたたかくて優しくて、自分の好きなものをたくさん作り出してくれる魔法の手。


 この手に守られている内は怖いものなど何もない、と幼いキリカは信じて疑ったことなどなかったのだ。


 その幻想が壊れたのは、八歳の時だった。


 母と父は『事故に遭い』揃って帰らぬ人となった。それがどうやら人為的なものでないことは、赤ん坊の頃から有象無象が見えていたキリカには何となく察せられた。


 ずっとよくしてくれていたーー親戚のオジさんだと思っていたワタリの世話になることが決まった時も、悲しさより怒りと苛立ちの方が強かったように思う。


「貴女が最後で唯一のヒメジマになってしまいましたね」


 そう項垂れたように見せかけてほくそ笑むバクラナカンと初めて面と向かって対峙して、母が抱えていたものをようやく理解した。


ーーこの世界はみんな敵だ……


 これはヨモツド。


 仲間などでは決してない。心を許すな。油断するな。隙を見せるな。


 もう守ってくれるあの手はない。


 一人で全部出来るようにならなければ、何にも負けないようにならなければ、こいつはすぐさま牙を剥いてこちらを食いにかかるだろう。


 そんなことを許してたまるか。


ーーママを殺したヨモツドは、みんなみんなあたしが殺す……


 血反吐を吐いても、酷い傷を負っても、キリカは己を叩いて磨いて尖らせ続けた。幸いにも色濃く継いだ血統は、キリカの想いに答えるだけの才能も与えてくれていた。


 こんな想いを他の誰かにさせてはならない。


 そのために母は命を削って戦い、父と後世へ血を繋ぐ選択をしたのだ。


 だから、キリカにはそれを受け継ぐ義務がある。


 あんなに小さいのに可哀想に、なんて言う輩の妬み半分呆れ半分の声に耳を傾けている暇などない。


 他の選択肢など始めからなかった。


 これは業で、宿命で、避けて通れないものだ。


ーーあたしはヨモツドを殺すために産まれた……それを放棄して逃げるなんて、負けるなんて、生きてる理由を生きていていい理由を投げ捨てるなんて、そんなのママに合わせる顔がないじゃない……!


「なら、起きてキリカ。立って。戦いなさい。守りなさい。その先にしかあなたが生きていけないのなら」


 ハッ、と覚醒したことで、キリカは己が意識を失っていたことを理解した。


 途端、噎せ返るような甘ったるい匂いが鼻腔に纏わりついて来て思わず口元を覆う。


 薄暗くはあったが、周囲が見えないと言うほどではない。肉色の壁に覆われたそこは、八畳ほどの広さがあった。


 すぐ傍に少女が二人倒れている。


「…………っ! 千明ちゃん! 和奏ちゃん!」


 小さな方は紛れもなく、資料の写真で顔を確認した尾野千明だ。


 二人共やや粘性を帯びた消化液でずぶ濡れになっており、こちらの声が聞こえないほど深い眠りについている。


 纏った服はだいぶ侵食されてボロボロになっていたが、身体はまだ全て無事だ。しかしこのままでは成す術もなく、心の方が桃人花に飲まれてしまうだろう。


「しっかり! 起きて……目を開けなさい!」


 ぱしぱしと軽めに頬を叩いて気つけを促せば、数度の瞬きの後ようやく和奏の方が僅かに目を開けた。


「お姉ちゃん……誰?」


 随分と胡乱な調子ではあったものの、とりあえず会話も出来る。


「あたしはキリカ。二人を助けに来たのよ。怪我はない?」


「うん……大丈夫……」


 うつら、と眠たそうに揺れる頭。


 再度少し強めに揺すって、意識を保たせようとキリカは必死にその頬を擦った。


「眠っちゃダメ! しっかり起きて!」


「うー……そんなこと言ったって……」


「帰りたいんでしょう? このまま化物に食べられちゃってもいいの!?」


「……それは、やだ」


「だったら、少し頑張って。ほら、千明ちゃんを起こして上げて」


 何か覚醒を繋ぎ止めるものを与えなければ、と年下の従姉妹を指差せば、和奏はどうにかそちらへ這い寄って千明の身体を揺すり始めた。


「千明ちゃん、起きて」


 それを確認してから、キリカは肉色の壁に向き直る。


ーーあたしとしたことが桃人花に取り込まれるなんて……不覚!


 やはりワタリの懸念通り、この個体は通常より能力が高く力を蓄えて来たものなのだろう。確かに甘く見ていた部分はあるが、少女たちの無事をいち早く確認出来たこれは寧ろチャンスと言えた。


 幸いにも得物はしっかり握ったままだ。


 己の執念を、意地を、褒めてやりたい。


 案の定バクラナカンはいなかったが、それは決して己の火力が落ちると言う意味ではないのだと、この腐れ花に思い知らせてやらねば。


 大きく身の丈と変わらぬ鎌を振りかぶる。


 ぶん、と空気を切り裂く切っ先は、まだそのままでは威力が足りない。くるりと掌中で返し、己の身体を支点にして幾度となく回転を遠心力を加えて行く。


 さながら美しい剣舞のようなその足取りが、消化液の満ちた床を踏み軌跡を刻む度にぱしゃりと水の撥ねる音がした。


 狭い場所では少々やりにくくはあったが、キリカは少女たちに危害が及ばないように注意を払いながら、言葉を紡いで行く。


「ひとえ纏いて 一夜の夢を


 ふたえ重ねて 布留部のゆらぎ


 みえ連ねて 御代須らく


 よつえ並べて 黄泉路を詣でよ」


 斬れ。


 斬れ。


 己の前に立ち塞がるものを全て。


 ただそれだけが、キリカの理由だ。ここにいてもいいと許される免罪符だ。


 役立ずだと言わせるな。


 自分に全てを託した母に、父に、罪悪感など抱かせるな。


 私は大丈夫だと伝えるためにはひたすらに、斬って斬って前に進むより他に道はない。


「退きなさい、あたしの邪魔をしないで!!」


 場は、満ちた。


 大鎌の刃が、殺意と言うにはあまりも清廉で純白の輝きを放つ。


 それを目の前にそびえる壁へ思い切り突き立てた。鋼ではなく、キリカの力と意思で形成された刃はずしりと桃人花の体躯へ食らいつき、やすやすと獲物を屠った感触を掌に返して来る。


 まさか内側から攻撃をされるとは思ってもみなかったのだろう。


 激しく震え始めた捕人袋ほじんたいに、キリカは返す切っ先でなおも一撃を叩き込んだ。


「もう一回!」


 ざふぅっ、と大きく横薙ぎに傷口を広げ、はあ、と吐息をこぼして再度集中力を高める。普通なら一太刀ですんだだろうに、さすがの頑丈さだ。


「これで、お終いよ!!」


 三度目の太刀筋が全てを断ち切るように体組織を斬り下げる。どぉっ、と観念したように壁の一部が崩壊を始めた。


 さすがにこれほどの連撃をくり出したのは久し振りだ。上がった呼吸を整え、二人を連れ出そうと背後を振り返る。


「和奏ちゃん、千明ちゃん起き……」


 思わず愕然とした。


 従姉妹を起こしているはずの少女はその傍らに倒れ伏し、ぐったりとした様子で意識を失っているではないか。


 見れば、キリカが穴を開けたのとは反対の壁からはびちゃびちゃと消化液が降り注ぎ、少女たちを取り込もうとしてかうねうねと繊毛が顔を出し始めていた。


「…………っ、その子たちに触んじゃないわよ!」


 辛うじて持ち上げた切っ先で、千明に絡みつこうとしていた一本を撥ね飛ばす。


 ぐらり、と視界が揺れた。


ーーいつもなら……


 一撃ですんだはずのところを、何故三度も大技を繰り出さねばならなかったのか。答えは簡単だ、キリカ自身にも桃人花の影響は深く根を張っていたからだ。


 バクラナカンがいないから、ではない。


 どんなに鍛え上げようと、どんなに強くなろうと、純然たる十二の少女の身体が、分け隔てなく平等にヨモツドの術の効果に蝕まれる。


 でろでろと纒わりつく消化液に、次第に身体が重くなって行く。


ーーこんなところで……


 こんなところで負けている場合ではないのに。


 こんなところでもたついている場合ではないのに。


 まるで自分の身体が自分のものではないかのように鈍くてもどかしい。


ーーこの子たちを……守らなきゃ!



* * *



 あらわになった桃人花は、その名に似合わず随分とおどろおどろしい見た目をしていた。


 貝、と言うトキヤの例えはかなり正確で、二枚の葉がきっちり閉じた捕人袋の縁には棘のように鋭い繊毛がびっしりと備わり、ちょっとやそっとの衝撃ではビクともしないだろう気配がひしひしと伝わって来る。


 そこから長く伸びた茎にも多くの葉が育ち、あちこちに拡がった根はなおも獲物を求めるようにうねうねと動いている。


 そのいずれもが、植物と言うよりは人肌と同じ淡い肉の色をしているのが何とも言えず不気味で嫌悪感を掻き立てた。


「こいつ……このままぶっ飛ばしていいのか? もしかして、キリカたちあの中入ってんのかよ」


「ああ……だから、責めるなら根と茎の方からだ」


「よっしゃ、解った! 全部燃やしてやんよ」


「待て待て待て! お前がやったら山ごと消し炭になるだろ」


「じゃあどうしろっつーんだよ」


「お前……あそこまで登れるか?」


 トキヤが指差したのは、その肝心の捕人袋である。霜柱によって高々と突き上げられてしまった桃人花は、頭上数メートルの位置でどうにか地面に降り立とうともだもだ足掻いていた。


 じ、とそれを確認したイサリはにたりと悪辣な笑みを浮かべてみせる。


「お前、誰に向かって言ってんの」


「多分ヒメジマさんは自力で出ようとしてるはずだ。でもそれがなってないってことは、少なからず桃人花の影響を受けてパワーダウンしてる可能性が高い」


「うんうん……で?」


「お前が外からも攻撃を加えることで、奴は脆さが加速する。でもあくまでも、」


「あー、わぁってる解ってる。皆まで言うな。キリカがブチ破ったように見せればいいんだろ」


 任せなさーい、とぶんぶん腕を振り回す相棒には不安しかなかったが、今は他に取れる術がない。


「いいか、あくまでも炎で燃やすんじゃない。あー……えー……あれだ、電子レンジになったつもりで捕人袋の外側だけ温度を上げろ。中まで上げたら彼女たちが干からびるぞ」


「オーケーオーケー、電子レンジとかなったことねえけど」


 先程の力のコントロールの下手さを見る限り、これはかなりの賭けではあった。繊細な小技はイサリの性格もあってそれほど得意ではないだろう。


 だからこそ、下でトキヤが根から内部を冷やし続けてその危険を出来るだけ下げねばならない。その温度差は確実に桃人花の分厚い表皮を疲弊させる。


 キリカならその絶妙な箇所をピンポイントで打ち抜けるはずだ。


 ぺろりと舌なめずりをしたイサリは数歩下がって助走距離を確保すると、すーっと思い切り息を吸い込んだ。


「行くぜ」


 と、と地面を蹴るや否や、敷き詰められた落ち葉や木の根が顔を出す足場の悪さを物ともせず、刹那でトップスピードへ到達する。


 通常加速にはそれなりにタイムラグが発生するはずだったが、イサリの場合はそれがほぼゼロだ。


 その勢いのままに踏み切った相方は、明らかに登るためのものではない霜柱を僅かな取っかかりだけを頼りに力づくで身体を持ち上げた。


 軽やかに次の面へ飛び移り、桃人花のところまで到達するのに十秒もかからなかったに違いない。


 正直な話、木や岩壁ではないのだ。


 話を持ちかけはしたものの、トキヤは半分まで行ってくれたら重畳だと思っていた。


「…………すげえな」


「サルみたいですねえ」


 言わなかった言葉をバクラナカンが蛇足する。


 けれど幸いにもそれは聞こえなかったのか、それとも悪口だとは思わなかったのか、冷えた両手にはあーっと息を吐きかけてから、イサリはうぞうぞとざわめいている桃人花へぴたりと触れた。


「なあ、オレの仲間と女の子返してくんない?」


 ぎぎぎ、と繊毛を軋ませたものの悲しいかな桃人花と意思疎通は叶わない。何より彼らはただその本能に従って食事をしているに過ぎないのだ。


「まあ、そうだよなあ……ゴメンな?」


 言うなり、イサリは力を解放した。


 いつも対象物をブン殴ってぶっ飛ばして破壊するより他に使ったことは、多分片手で数えるくらいしかない。


 だから上手く出来ているかどうかは自信があった訳ではない。ただ、願わくばこのヨモツドが自分から口を開けて少女たちを解放してくれたらいいのに、とそう想いながら熱を込めて行く。


「イサリ、上出来だ! そのまま!」


 下からトキヤの声が聞こえた気もするが、集中しているイサリの耳には半分ほどしか届いていない。


ーー気がつけ、ヒメジマ! イサリの馬鹿みたいなエネルギー、解るだろ……!?


 彼女の余力があとどのくらいなのか、少女たちは無事なのか、じりじりと焦りと苛立ちに理性を塗り潰されながらひたすらに祈る。


 一体どのくらいそうしていただろう。


 不意に捕人袋の表面にびしり、と大きく亀裂が走った。



→続く

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