「精密検査の結果、木村美和子さんはどこにも異常はなかったそうです。今日は念のため様子見で入院されるようですが、明日にはご自宅に戻られると。付き添いに来られた娘さん夫婦共々、二人にはくれぐれもよろしくお伝えくださいと言付かってます」
支部に戻ると、待っていたワタリからそう告げられた。一番気がかりだった部分が心配なくなったことで、ホッとしてイサリとトキヤは顔を見合わせる。
さらには、念のため自宅の庭の方も浄化の儀式を行ってもらえるとのことで、今後の懸念もなくなった。
ミーティングルームは待機中の仮眠スペースや簡易キッチンなどが備えつけられていることもあって、ワタリは手ずから煎れた紅茶を振る舞ってくれた。
広い室内にはその芳醇な香りが漂っている。
「隊長のお茶、すごく美味しいんですよ」
とヒナノが耳打ちしてくれた通り、スッキリした茶葉の旨味が口の中に広がり、何だかんだささくれていた神経が緩やかになだめられるのが解る。
隣でお茶請けとして出されていたクッキーを「うっっっま!! 何これ超美味い!」とバリバリ貪り食っている相方が繊細なそれを解るかどうかと言うのは、はなはだ疑問ではあったが。
「ところで
「何ですか?」
「野球場めちゃくちゃんなったのどうなんの?」
「まあ、後処理の問題もありますし、補修工事も入るので当面の間は立入禁止にはなりますが、取り壊しなんて心配はないので大丈夫ですよ。ハノ君とヒナノさんのおかげで、公園の他の部分もほとんど影響ありませんでしたし」
「そっか……よかった」
「初任務からいろいろありましたが、とにかくひとまずはご苦労様です。お疲れ様でした」
「どうなることかと思いましたけどね」
あれこれ奔走してくれたのだろうハノが苦笑いを浮かべる。
「でも、皆さん無事でよかったです。一般の方も被害はありませんでしたし」
ふふ、と柔らかく笑うヒナノ。
「この後それぞれ、下の検査室でメディカルチェックを受けてくださいね。その耐性込みで行動部隊に配属されているとは言え、塵も積もれば何とやらと言いますから」
「あーい」
「解りました」
「それから」
一口紅茶を啜ってから、ワタリはイサリとトキヤを真っ直ぐに見やる。
その眼差しも声音も先程と微塵も揺らぎはないはずなのに、何故かビッと背筋が伸びた。
「警察の方に暴行事件として一つ被害届が出たそうです。少年二人が、『ナカツド』隊員から殴られた、と」
「…………あのクソガキ共、名乗ってないのに何でバレたんだ」
「そのジャケット着てるからだろう……あと俺がポロッと言った気がする」
「お前何してくれてんの!?」
「イサリ君」
「ふぁい!!!!」
「現場にい合わせての対処ならともかく、逃走されてから追いかけての今回の行動は明らかにやり過ぎです。ましてや、君は任務中だったのを一時的とは言え放棄した」
「…………すみません」
「それから、自称『緊急車両』の危険運転による事故未満多数」
「うぐ……っ、」
穏やかな口調で正論を突きつけられては、言い訳のしようもないのだろう。しょぼん、と肩を落としてしまったその姿があんまりにも情けなかったので、トキヤは思わず口を挟んだ。
「でも、隊長。こいつの機転があったから、ギリギリ最小限の被害で食い止められました。もしあれで普通に走行していたら……」
「ええ……それは重々承知していますよ。今回のような場合、確かに他に手はなかったでしょう。万が一の際の対応については、何がしかの対策が必要である、と進言はするつもりです」
さすがにあのサイレンは無理だと思いますが、とつけ加えられはしたものの、全面的にイサリを責めるつもりはワタリもないらしい。
「まあ、少年たちについても引ったくりの実行犯と言うことで前々から目はつけられていたようなので、今回は厳重注意と言う形ですみましたが、以後は充分に気をつけてくださいね」
「解りました、バレないようにやります」
「よろしい」
「隊長…………」
「それはさておき、今回の諸々で形だけでも上に報告はしなければならないので、始末書は提出してくださいね」
「始末書?」
とは、と何も解っていない顔をしているイサリに向けて、ヒナノがす、とコピー用紙を差し出してくれる。
裏表にびっしりと罫線の引かれたそれに、ヒュッと小さく息を飲む音が聞こえた。
「…………手書き?」
「手書きです。あ、勿論公的文書の捏造などあってはならないので、修正液類使用は全面禁止ですよ。間違えたら、最初から書き直してください。ちなみに最低提出枚数は三枚です」
「ヒナさん酷い!!」
「酷いのはヤヨイザカさんじゃなくてお前の行動だろう……これに懲りたらあんまり無茶苦茶な真似しないように……」
「イテクラ手伝って!! こんなにたくさん何書けばいいんだよ!?」
ガシッと半泣きで両腕を掴む手からは、応と頷くまで絶対に離すもんかと言う断固とした意志の強さが伺える。
「はあ? 何で俺が……」
「イテクラ君、手伝ってあげなさい」
まさか君は何のお咎目もなしだと? とでも言うような言外の圧に思わずう、と息を飲む。
確かに死ぬ気で止めればトキヤにはイサリの制止が可能だったかもしれないが、その場合はどちらかあるいはどちらも重傷だっただろうし、事態の鎮圧は適っていないはずだ。
連帯責任にも程がある。
そう、文句は口をついて出そうになったのに、何故かその特別扱いをされないワタリの言動がくすぐったくてありがたかった。
ーーああ、そうか……この人はちゃんと『俺』を見てくれるのか……
「……解りました」
「ありがとイテクラあああ!」
「お前に任せたらいつ出来上がるか解らないからな……再提出になんかなったら目も当てられない」
いきなり直に書こうとするのを引ったくって、
「馬鹿、こう言うのはまず最初に別の紙に文章を考えてから書くんだよ」
「あ、成程」
二人してあーだこーだと試行錯誤し始めたのを見守りながら、三人は安堵するような柔らかな視線をこっそり交わしていた。
* * *
夜、繁華街ーー
遅くまで開いている『飲食店』のネオンがけばけばしく汚れたアスファルトを染めている。ちぎれて踏み散らかされたチラシ、煙草の吸殻や飲み残しのプラカップ。
どこの街でも澱として底に泥濘するものに大差はない。
昏く降り積もる感情も、それを餌にするよくないものが吹き溜まるのも。
「くっそ……あのポリ公共、マジムカつく」
イライラをぶつけるように地面を蹴り飛ばしながら歩いているのは、引ったくり犯の少年二人だった。
「何が『今回は実害はなかったし、被害者の方も訴えないとご慈悲をくださったから』だ! 畜生……バカにしやがって」
帰っていいぞと署を送り出してくれた年配の警察官の声真似をする片割れに、
「やっぱもう引ったくりは潮時なんじゃね? 最近てみんな現金持ってねえしさあ」
「じゃあどうやって遊ぶ金手に入れんだよ!?」
「受け子のバイトはさすがにやべえからなあ……あとはまあ、運び屋的な?」
「もうすぐ俺ら年齢的にいろいろアウトになっからなあ……」
彼らにとって、歳を重ねることは必ずしもいいことばかりではなかった。
一人前として周りからナメられなくなることと引き換えに、取っ捕まった際のリスクは跳ね上がって行く。
一度楽を覚えてしまうとズルズルとそれに甘え、坂道を転がり落ちてしまうのは本当にあっと言う間だ。そうでなかった頃は一体どうやって生きていたのか、今では全く思い出せない。
けれどここぞと言う一線を超える勇気を持てないままここまで来てしまったから、進んでしまうのも躊躇が大きく、だからと言って今さら引き返して真面目に生きることも出来ない。
そうしてジリジリと、様々なことを許される猶予期間は日々短くなって行く。
思えば二人にとっては、ここが引き返す最後の分岐点だっただろう。
もうやめようとどちらかが言い出せば、それであっさりとケリは着いたはずなのだ。けれど少年たちはどちらも、自分がその口火を切ることを良しと出来なかった。
ツレに腰抜けと愛想をつかされるくらいなら、このまま諸共地獄に堕ちた方がマシだと思っていたのだ。
「あーあ……あのクソ赤髪さえ来なかったらな……誰でもいいから5000兆円くれよ……」
「ねえ」
その時、すれ違いに通り過ぎたはずの少年がおもむろに声をかけて来た。不機嫌さマックスの片方が、思い切りガンを飛ばしながら振り返る。
「ぁんだてめえ! 喧嘩売るつもりなら買うぞ」
視線の先に立っていたのは男とも女ともつかない小柄な人物だ。すっぽりと頭から被ったオーバーサイズのフードとちらりと覗く眼帯のせいで、その顔はほとんど見えない。
だからだろうか、もう一人の方はぞわりと背筋に走った悪寒をビビってんじゃねえわと笑い飛ばすことは出来なかった。
コイツは多分まずい。
絶対に関わってはならない類の人間だ。
まるで出来の悪いコラージュのようにツギハギでちぐはぐな服装をしているからではない。もっと根源的に根幹的に、生物として明らかに自分たちとは違う世界に住んでいる。
「おい、やめろ。行くぞ」
「その赤髪ってもしかしてさ、こう言う奴じゃなかった?」
不協和音のように耳障りな声が紡がれ、どこからともなく取り出されたのは一枚の写真であった。
写っていたのは、明らかに盗撮であろう角度から撮影された、昼間自分たちを容赦なく殴り飛ばした青年だった。
心なしか若いーーと言うより幼く見えるので、もしかしたら数年前のものなのかもしれない。
けれど、見知らぬ輩に正直に答えてしまっていいものか。いや、彼に何がしかの方法で一矢報いたいと言う気持ちがゼロな訳ではなかったが。
が、迷っている間にツレは容赦なく真実を暴露する。
「そうだよ、こいつだよ! 間違いない」
「…………やっと……見つけた」
「え?」
「ううん、何でもない。詳しく話を聞きたいなあ……ちょっと時間ある? 一杯奢るよ」
差し出された手には数枚の万札。
ちらりと伺うような視線が今さら投げられるが、もう乗りかかった船だ。金がない今、一食浮くと言うならばちょっとくらい付き合っても問題ないだろう。
「お前、飲める歳なの?」
「飲めるよ、こう見えて多分オニーサンたちよりずっと歳上だからね」
「嘘クサ……」
「こっちに行きつけがあるんだ。案内するよ」
裏通りの雑居ビルの地下へ、打ちっ放しの階段を降りて行く少年の後に続く。どう見たって自分たちより歳下のくせに、その足取りはひどく慣れた調子だ。
こんなところに隠れ家的な店があったことなど、二人は初めて知った。入れ替わりが激しいとは言え、この辺りの店にはしょっちゅう出入りしていたからだ。
最近出来たのだろうか。
『
開かれた扉の中は遮光のためにか分厚いカーテンが引かれているようで、中が上手く見えない。いらっしゃいませ……と言う声に導かれるようにして、薄暗い店内へ足を踏み入れる。
ばたん、と扉が閉ざされた途端そこに確かにあったはずの看板が跡形もなく消え失せたことを、少年たちは生涯知ることはなかった。
→続く