世界には、無数の穴が空いている。
小さい穴、大きい穴、浅い穴、深い穴ーー見渡せば、至るところにそれを見つけることが出来るだろう。
あなたは不思議に思ったことはないだろうか?
ーーこの穴はどこに繋がって、何のために空いた穴なんだろう……?
と。
それはもしかしたら、『何か』が『こちら側』へ侵入した証かもしれない。
彼らはこう呼ばれている。
この世にあらざるものーー『ヨモツド』。
直径は二センチほどだろうか。
草むしりのためにしゃがみこまなければ、きっと気づかなかっただろうと思う。
そのすぐ上に咲いていた花弁が、見たこともないような濃い紫色になっていたのも目を引いた理由かもしれない。
「変ね……カラムラサキでもないのにこんな色……ウチのは毎年綺麗な薄桃のはずなのに。嫌だわ、虫でもついたのかしら」
独りごちながら、ぷつりとその花を摘み取ってしまう。虫でなくとも、病気やら何やらで他のものまで変色してしまっては大変だからだ。
「お店の人にでも訊いてみましょ」
もしかしたら、詳しい人に見せれば対処法を教えてくれるかもしれない。
今日はここまで、と立ち上がって長時間同じ姿勢でいたために強ばった腰をトントン、と叩く。
昔はいくらでも庭木を弄っていられたのに、今では小一時間しゃがんでいるのが限界だ。
それでもこじんまりとした敷地内に四季折々の花が色づく様は、美和子の自慢であった。
道具をしまい、土の匂いがこびりついた手を洗って居間に戻ると、そろそろ出かけなければならない時間である。
「急いで準備しなくちゃ」
初めて行く場所だから早めに出ようと思っていたのに、どうやら約束の時間ギリギリの電車になってしまいそうだ。
お前はいつもそうだ、と小言が絶えなかった今は亡き夫の文句を思い出しながら身支度を整え、バス停に滑り込んで来たバスへどうにか飛び乗る。
ーーああ、間に合ってよかった……
固い座席で滲んだ汗を拭い、揺られるままに外の景色を眺めている内、美和子は庭の穴のことなどすっかり忘れてしまっていた。
* * *
その日、
春の人事異動と共に多少顔触れが変わったばかりのぎこちなさが残る中へ、新規入隊の面々が加わるからだ。
中でも今年は飛び切りの注目株がこの地方都市を預かる支部へ配属される、と言うのはかねてから話題に上がっていた。
「おい、今日アレだろ……? 例のイテクラ本部長の息子が配属されて来るって言う……」
「ああ……まあ、『次男』の方な」
「それにしたって特七の奴ら可哀想に……下手打ったらクビにされかねないですもんね」
フロアのそこここでひそひそと押し殺したやり取りが交わされ、ピリピリした緊張感と下世話な好奇心とその他諸々の感情が入り交じって漣のように揺れている。
「何せ試験じゃ歴代トップの数字を叩き出して、ぶっちぎり一位だったらしいからな」
「うわー……俺絶対そんなのと一緒に仕事したくねえっすわ……劣等感で死ぬ」
「いや、ホント……コンビ組まされるヤツとか、もう生贄みたいなもんでしょ」
「エリートイケメンは二次元画面の中だけで充分だっての」
「それにしたって、何で特七なんすかね? 普通、こう言う場合って現場経験積むにしても調査班とかの方なんじゃ……」
「お前知らないのかよ……次男坊の方はな……」
そんな噂が飛び交っていることなど歯牙にもかけず、当の本人ーートキヤ・イテクラはエレベーターで到着した七階の廊下を真っ直ぐに歩いていた。
途中、その涼やかな容貌に女性陣の溜息混じりの視線が向けられていたが、全くもって意に介さない様子で目的の部屋へ向かう。
広いリノリウムの床が柔らかな照明を弾くつき当たり、落ち着いた色合いの扉の前で足を止めた。
ちょうど目線の高さにつけられた『隊長室』と書かれたプレートを確認し、一度息を吐いてから小さくノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
投げられた応えに礼儀正しく挨拶を返しながら扉を開けた。
正面には大きな執務机が備えつけられており、その手前に革張りの応接セットが鎮座している。
そこには四十代と思しき男性と、自分よりいくつか歳上であろう二十代の女性がすでに着席していた。
無論、執務机にはこの部屋の主であり直接の上官であるユキヒコ・ワタリ特務部隊長がニコニコと穏やかな笑みを浮かべている。
彼らへ丁寧に一礼をしてから、
「本日付で第七支部・特殊事案対策課、実務行動部隊に配属されましたトキヤ・イテクラです。未熟な点も多いかと思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「お待ちしていましたよ、トキヤ君。隊長のワタリです」
立ち上がり、眼鏡の奥の灰色の双眸を細めながらワタリが会釈を返す。
「そしてこちらが、君の所属する班のメンバーです。ゼンノスケ・ハノ君とヒナノ・ヤヨイザカさん」
「ハノです。よろしく」
「ヤヨイザカと申します。よろしくお願いします」
「お二人共よろしくお願いします」
柔らかに迎え入れられて、ホッと人心地ついた気がした。無意識の内に緊張していたらしい。
ほら座って、と促され、トキヤはハノの隣りに腰を下ろした。
「本当はもう一組いるんですが、今日は別任務で外に出ていましてね……まあ、そちらは追い追い紹介と言うことで」
「ありがとうございます。
「ええ、大規模な任務の時はいくつか合同であたるようになりますが、普段はそんな大袈裟な案件はほとんどありませんから」
「成程」
「実際のデスクはまた後から案内してもらうとして、トキヤ君には今日から早速、二人と一緒に現場に出てもらおうと思います」
「これ、資料な」
「ありがとうございます」
ハノからプリントアウトされた用紙が渡される。出現するヨモツドの予測タイプやアナグラの予測地点数カ所、諸々が記載されていた。
「地中生物型、推定サイズは全長四から五メートル……かなり大物ですね」
「ああ……アナグラの兆しを捉えたのがつい二日前でね。その規模だと、封印の儀式を行うには到底間に合わないから、出て来たところを俺たちで叩こうってことになった」
この世界の外側にもどうやら別の世界が存在しているらしい、と判明したのは人類史の割と初期の頃である。
らしい、と言うのはあくまでも
そしてその異常事態を感知出来る人間は、ごく限られた者でしかないと言う圧倒的不利な状況を鑑みて、当時の権力者は彼らのみに対応を全任し、秘密裏に葬ることとした。
それが『特殊事案対策専門機関ナカツド』の前身だ。
昔から語り継がれる怪異、物の怪、妖怪、その他諸々、人智や科学を超えたよその世界の侵入者たちは『ヨモツド』と総称され、こちらの世界に『アナグラ』と呼ばれる
「君たちの能力なら問題ないと思いますが、大丈夫そうですか?」
「解りました。大丈夫です、対処します」
「私たちも全力でサポートしますから、遠慮なく何でも仰ってくださいね」
「ありがとうございます、心強いです」
「じゃあ、早速出現予測ポイントを回って……」
「一ついいですか?」
「ん? 何だい?」
立ち上がり、早速現場へ向かおうとする二人へ慌てて声をかける。
「……その、実務行動部隊って基本バディで任務にあたるはずですよね? お二人がバディなら、俺の相方って……」
半分はワタリへの問いかけのようになってしまったが、彼はそれを察してにこりと穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、君のバディもちゃんと別にいますよ。同じく新人の……ここに同じ時間に来るよう伝えていたはずなのですが、おかしいですね」
その言葉が終わるか否かの内に、バタバタと騒がしく近づいて来る足音がしたかと思うと、ドバン! と大きな音を立てて派手に扉が開かれた。
「サーセン、迷子のバアちゃん道案内してて遅れました! 今日から世話になりますイサリ・カガヤです! よろしくお願いしゃーす!」
「…………」
満面の笑みで飛び込んで来たのは、同じ歳くらいの青年だった。
けれどそのノリは仕事をしに来た、と言うよりは大学のサークルに遊びに来た、と言う方が近いような気安さで、曲がりなりにも上官や先輩に対する挨拶の態度ではない。
よもや、と思いながら油の切れたゼンマイじかけの人形のようにギギギ……とワタリの方を見やれば、
「そう、彼が君の相方です。イサリ君、遅刻の際はこちらへ連絡を一報ください。心配します」
「以後気をつけまーす」
ーー冗談だろ……こんな……今時小学生でももっとマシな言い訳するぞ……
呆気に取られ過ぎてイラつきの方が先に立つ。
トキヤの思いを知ってか知らずか、青年ーーイサリはニカッと笑みを浮かべて手を差し出して来た。
「よろしくな、相棒」
さすがにそれを叩き落とすなどと言う大人げない態度を取る訳にも行かず、不承不承手を握り返す。
「よろしくお願いします」
「あ、そう言えばバアちゃんからお礼っつって飴ちゃんもらったけど、食う?」
「いえ、いりません」
「もしかしてハッカ味食べれない人?」
「別にそういう訳じゃ……」
「あとさ、同期なんだし、敬語なしにしようぜ。オレ、そう言うの超苦手」
そう言う間にも彼の手は踊るように往復のタッチから上下に拳を刻み、ヒラヒラと瞬く間に離れて行ってしまった。
とかく騒がしくてじっとしていられない、と言うのが強烈な第一印象だ。
「じゃあまあ、全員揃ったと言うことでとりあえず現場まで行ってみようか」
「隊長、それでは行って参ります」
「いってきまーす!」
「行って来ます」
「はい、皆さん気をつけて」
ハノに促されて隊長室を後にしたものの、自分はちゃんとやって行けるのか、一抹の不安がトキヤの胸をモヤモヤと占めていた。
→続く