これは、春の頃。先生とは、ちょっとぎくしゃくしていた時期である。
「
「ゲーッまじかよ世間せまっ!」
私は今、アルコール依存症で困っている……という設定で、あろうことか、この
簡素な患者椅子に座る私と、執務机を挟み、豪奢なソファチェアに座るメガネ姿の朱堂くん。白衣もばっちりと似合っている。ちぐはぐではないのか?と予想していたあのまだらな赤いメッシュ頭も、こうしてみれば案外馴染んで……はないな。赤は目立つ。赤は目立つわ。せめて黒に染めるなりどうにかしろ。
「――で、悪の因子、だっけ?」
「悪魔の因子、だよ。悪魔、悪魔。その様子だと知らないね」
「いや、あれから何度か聞いたことはあるよ。ぼんやり程度。亜坂先生の研究対象でしょ?」
パソコン画面を見ずに適当にキーボードを片手でカチャカチャ叩きながら、朱堂くんはもう片手に顎をついてだるそうに答えた。
ちなみに、おそらく私のカルテを打っているらしい。
「どのくらい知ってる?」
「あ~……犯罪遺伝子がどうとかって」
「それってやっぱ、遺伝とか、あるの?」
「……ん?それ訊きにわざわざ来たの?」
意外そうに朱堂くんは目を丸くする。私が些末なことを気にするのがあんまりにおかしいとでも言うかのように。そんなにおかしいのか。専門が違えど、医者のひとりである朱堂くんなら、ぼんやり程度でも亜坂先生の研究の内容は理解があるだろう。どうか無知なこの私にも噛み砕いて教えてくれるはずだ。
「病原菌とかとは違う、って聞いたけど」
「違うな。うつるモンじゃない。けど遺伝もしない……正確には遺伝子と呼ぶのも違う。だから名称は「因子」と呼んでるわけ。種子ってのが近い表現かな?」
「犯罪を起こす可能性、ってこと?」
「――そうだね。悪魔の因子は可能性。濃度が高いほど倫理が歪む……けど低いか自制心が強ければ、あの……なんだったかな、香田家妹だったっけ?あのイイ子ちゃん」
そうだった。先生曰く、兄の計らいもあって、そわかさんは罪に手を染めたことはない。――いや、悪魔の因子を持っているのに、染めたい衝動に堕ちていないのがおかしいくらいだ。
つまり、けっこう個人差もあるのか……。あるいは努力しているのをそわかさんが見せていないか……。
「――私が訊きたいことはあとひとつだけ」
私は、ちょっと緊張する。口の中が渇く。おそらく、この質問を直接先生にしては、いけないものだと思った。だから、ここまでやってきた。まあ、別の件もあって来たのではあるから、ついでみたいな用件だけれど。それでも、訊ねなくてはならない。ここは避けては通れない。
「この悪魔の因子は、どこから来たの?」
朱堂くんは笑った。
声も上げずに笑って――それから、静かに笑い止み、うんうん、と頷いて、気になるよな、と同意してくれた。
「まさかインキュバスのせい――なんて思ってないでしょ、おまえも」
「何それ最悪、私達腹違いの兄妹とか笑えないんですけど」
「まあまあ、冗談は置いといて」
半分冗談に聞こえなくてびくついていたが真実ではなかったらしい。良かった。
朱堂くんは妙に細長い足をぎゅーっと伸ばして伸びをしてから、
「うん?」
私が聞き返すと、彼の眼差しはなんだか宙をふらふらするばかりで、覚束ない。天井の蛍光灯が、強めの無機質な光を放っている。また、居るんだよ、とぼうっとして、いつもらしくない虚ろな声で朱堂くんは言った。
「――悪魔って、居るんだよ」
それはあまりにも、悪魔に会ったという、真実味のある答えであった。
◆◆
朱堂くんは、悪魔に会ったことがあるらしい。
悪魔「
「オーラがさ……なんていうか、誤魔化しきれずに人外だった」
私はこんなに打ちのめされて怯えている朱堂くんを初めて見た気がする。
いざとなれば、チャンスとみて私を殺してのけるメンタルの朱堂くんが、こんな反応をするのは本当に意外だった。いや、感覚的に生きているからこそ、この反応か。狩り対象でなく、より大きい狩られるものに出現されて、震える。納得の現象だった。
本人は意地でも認めないだろうが。
「ボクに配下になれってよ。ウケるよね。絶対嫌だ馬鹿って言って逃げてきてやったけど」
「悪魔にそんな程度の低い暴言を……」
「しつこかったなー……蠅とか蚊を操る特技持ちだった」
……特技。
私はそれを聞いて、はたと止まる。
その悪魔の特技を聞くと、特技というより能力に思えた。ということは、私達人間にもたらされた特技というものは、その悪魔の薄い恩恵とすると、悪魔の因子は……その悪魔による加護のひとつ?
悪魔は秘密裏に、悪魔の因子を加護として、撒いて回っているのか?
うーん……。
ん?
「ってことは、私達、悪魔みたいなもの?」
「え、なに。濃度の話?まあ高ければそうとも言えなくないんじゃない?ただ――」
――濃度の高い奴って、ほとんど錯乱して行き当たりばったりの犯罪を起こして自滅するから、おまえみたいなタイプは珍しいらしいよ。
朱堂くんのその言葉が、妙に耳に残っている。
私は理性的なのだろうか。
犯罪を理性的にやるのは理性的?
――診察時間の終わりが迫っている。この話はこのくらいにして、本題に移ろう。
「――で、こっちが本題なんだけど。『
「あー……あの猟奇事件。テレビでやってた。なんでも被害者女性の胎を裂いて、中にぬいぐるみを詰めてる気色悪い連続殺人事件でしょ」
「その被害者女性のひとりがここのクリニックに通ってたから、先生が話を聞いて来い、って――」
「えっ?!いや、犯人ボクじゃないよ!?」
慌てて朱堂くんが目の前で両手をクロスさせた。余程心外だと思ったのだろう。確かに、私も違うと確信している。朱堂くんはこういった計画的犯行というか、執着的犯行はしない。意味のある殺人はしない。彼は根っからの殺人鬼気質だ。私も思うに、殺人鬼の殺人とは、意味があってはいけないのだ。私は仕事のときは例外として仕事モードで殺すけど。
「……分かってるよ。朱堂くんには、被害者女性について訊きにきたの。だからこうしてわざわざ診療装って診療費払ってまで来たんじゃん」
「あ、あー!そうか!よかった……。待ってね、今カルテ出すから……」
守秘義務どうした朱堂先生、と思いつつ、警察にも提示を求められたことがあったのだろう、すんなりと朱堂くんはそのファイルを見つけ、プリンタで出力して読み始めた。
「えーっと……
「原因は?」
「心的外傷後ストレス障害――いわゆるPTSDってやつ」
詳しくは読んで、とカルテのプリントを渡されたが (いいのか?)私にはどうにかちんぷんかんぷんな内容ばかりである。後で読むことにしようと折り曲げて懐に入れた。
「ありがと。助かった」
「おー。またモンハムやろうぜ」
互いに死んでなかったら、の枕詞がつくが。
私達は今日も、今生の別れをした。
◆◆
「最近、悪魔の因子のことを嗅ぎまわっているでしょう」
ぎくっ。
事務所に帰って来るなり、仁王立ちした先生に、そんなことを言われてしまった。いつかはバレることだと思っていたが、というか薄々勘付かれてはいるとは思っていたが、それがまさか今日になるとは。
「しかし先生、悪魔の因子は私と無関係ではありません」
「――貴方にはまだ早いことです」
「先生、修行が足りませんか?私はまだ弱いですか?」
先生をまっすぐ見つめて睨みつける。
私が頼りなさ過ぎるのか、それとも信用がないのか。
後者ならまだ良いが、前者であるならすこぶる嫌な気持ちになる。何度でも言うが私は空虚ではあるが感情が無いわけではないのだ。私の努力を甘く見られては、やはり、いい思いにはならなかった。
先生が根負けして目線を逸らしたのを確認して、あの先生でさえ、この意見が間違っていることを自覚しているのだ、となんとはなしに私は悟った。
つまり、先生は先生の感情由来の独断で、私に理不尽を強いている。
「……。分かりました。この件でどうにか私が頼りになると証明してみせます」
信頼については、もう、私はその得方を知らないのでどうしようもないが。力の証明なら丁度良い。私がどれだけ使える先生の「手段」のひとつであるのかということを、ここでひとつ、今一度示しておくのもいいだろう。先生は私の二の句の予想がついたのか、急におろついて、私を制そうとしたが、私が口を開いたほうが早かった。
「今回は先生の助け無しで、解決してみせます」
「ちょっと、待ってください、今回けっこうややこい事件の可能性が――」
「大丈夫ですよ。友人に手伝ってもらいますから」
此度はしっかりと先生に断りを入れて、朱堂くんに正々堂々と助けを求めることに決めた。もちろん、報酬山分けで釣れるだろう。まあ、警戒せねば殺されるのが玉に瑕なのだが……。
先生は渋い顔で考えに考えて――それから、それでも真実を話すよりずっとましと見たか、分かりました、と嘆息して肩を落とした。
「ただし、このお守りを肌身離さず持ち歩くように。いいですね?」
「ああ――いつぞやの?」
今度は双水晶の呪術そのものだろう。小さいお守り袋を渡され、中身はまるい感触を覚えた。きっと私に何かあれば、先生が持つ同じものが割れる方式だ。大人しく受け取り、懐にしまった。
「いいですね?約束は約束ですよ?」
「えっ」
「ちゃんと解決したら、先生の口から、悪魔の因子のことを――」
そんなことまで約束はしてませんよ!と叫ぶ先生を遮るかたちで。
私はぐるっと身を翻して玄関を引き返し、ついぞ先生に調査報告はせず事務所を出た。――だって、今回は先生無しで私が解決するのだから。
◆◆
『――はい。というわけで。手伝ってください。集合は診療終わったらおまえんちの前集合ね』
かなり適当な一方的待ち合わせメッセージを残し、待つこと三時間――正確には時刻でいうと九時半のころ、いつもの奇抜な格好をした朱堂くんが、ぶかぶかのスカジャンに着られて現れた。――まじで居るよ。と、朱堂くんが嘆息するので、私は、まじで居るよ!と元気に挨拶してやった。現在地、もちろん、彼と彼のご両親が住むタワマンの上層階部分、ドア前である。どうやって忍び込んだかは、まあ悪魔の因子から授かった身体能力の強さを使ったとでも言っておこう。力技である。ジャンプは赤い配管工並みに得意だ。
「――あのね。ボク、疲れてんの。今日ずっと仕事だったの!」
「まあまあ。もうひと稼ぎしていかない?本日はこちらになります」
「はあ?しょうがないなボクも行くよ」
報酬金額の値を提示したスマホを見せた途端、目の色を変える朱堂くんだった。
何が何でも金に釣られる男、朱堂朱雀。
以前報酬を貰い損ねたことはめっきり忘れたらしい。そして手のひらはグルッグルのドリルである。いつか骨折するぞ。
「――で、何手伝えばいいの?死体の隠蔽?」
「誰がそんな簡単なこと任せるか!自分でやるわ!……今日訊いた、空の子連続変死事件だよ。どうしても先生の手が借りれなくなって――」
「……なるほど、ボクの明晰な頭脳で犯人を捜してほしいワケ」
…………。
明晰な頭脳というのは、おおむね正解だから反論できない……。ぐぬぬ。ま、まあ頭が回らないぶん、私は騙されにくいし、狂いにくいし……。いっそ利口なんだ、こっちのほうが……。
私は自分を納得させつつ、珍しく持っている肩掛け鞄から、ひとつファイルを取り出した。
「これが被害者になった人の一覧、それと詳細だね」
「あー、待て待て。とりあえず中入って」
さすがに春先といえど女性をドア前にして会話を続けるのが可哀想とでも思ったのか、朱堂くんはファイルを受け取ってから、ポケットから鍵を取り出しドアを開けた。
玄関に入った途端、勝手に玄関のライトが点灯する。お金持ち仕様だ。いや。これ以上お金必要なのか?朱堂くん?
朱堂くんに案内され、朱堂くんの部屋に通される。ちょっと待ってて、とまた言われ、しばらくすると盆にのせたオレンジジュースとミネラルウォーターのグラスをひとつずつ、持ってきてくれた。もちろん、オレンジジュースが私で、ミネラルウォーターが朱堂くんである。
朱堂くんは受け取ったファイルの書類をぱらぱらめくり、ふん、と鼻を鳴らしてから、頭に入れた、と私にファイルを返してくれた。さすが。カルテを扱うだけあり読むのも記憶も速い。
「――どう?何か不審な点は?」
「共通点でいえば、まず全員女性ってかんじ?」
「そりゃそうでしょ。だってこれ――」
――あまり言いたくはないが。
空の子連続変死事件は、殺人事件であって――どう見ても、被害者を
現在、被害者と思われる人物は四人。
一番目の被害者、
死因はビルからの墜落死。その後、胎を包丁で開けられ、ぬいぐるみを詰められていた。
二番目の被害者、
死因は毒物による中毒死。その後、胎を包丁で開けられ、ぬいぐるみを詰められていた。
三番目の被害者、
死因は首元の切り傷による失血死。その後、胎を包丁で開けられ、ぬいぐるみを詰められていた。
四番目の被害者、
死因は炎に焼かれたことによる窒息死。その後、胎を包丁で開けられ、ぬいぐるみを詰められていた。
――死に方も方法もバラバラだが、最終的にはきっちり、胎にぬいぐるみを詰めている。劇場型の殺人鬼の仕業か?しかし、先生のところへ話がきたということは、怪異関係もあるはず――。
「――あー。これ、死んだのは、全部自殺かも」
「ん?」
「ほら」
朱堂くんが私の見ている書類のうち三番目の女性のもの――悠里真奈さんのものを引っ張ってくる。
詳細が書かれているそちらの書類には、「逡巡創あり」と小さく文字が打たれていた。
「普通、他殺なら、ここに『防御創あり』って書かれる。防御創は他者に攻撃されたとき防御してついた傷のことで、逡巡創は、自殺する時にできるためらい傷のことな」
「わー……勉強になる」
「当然、警察がこのことに気が付かないわけないんだけど……」
うーん。確かに不思議……。
報道規制というやつだろうか?犯人しか知らない情報、みたいな……。とにかく、今回の事件の犯人は、「自殺した遺体を使って、なぜかその胎にぬいぐるみを詰める」。殺人ほどひどい犯罪ではないが、変人であるのには変わらない。それが冒涜であることも。つまりは「やりすぎた」。だから先生は呼ばれたのか……。
……あれ?