まあまあ先生と打ち解けてきたなという頃。冬のことである。
その日は特に用事というわけでは無かったが、なんとなく、先生の事務所に来ていた。というのも、定期的にこれを読んでおけと小難しいオカルト本 (或いは由緒ある古文書)の課題を出されるので、多少は質問できる環境に身を置いておくほうが得だったりもするのだ。……あとは、自宅だとサボりがち、という理由もあったりもする。課題は自宅より図書館や喫茶店の方が捗る、といった、あの原理も多分に含まれている。
つまり、私がその日、事務所に居たのは――まったくの気まぐれで、偶然だった。
その一日でも遅いか早ければ、私は、この厄介事に首を突っ込むことは無かったに違いない――いや、そもそも人生の経過時間に比例して、結局この厄介事は私に付きまとい、遭遇する確率は上がっていって、逃げ場のないところまで迫って来るものだったのか?たちが悪い。
とにかく――
私は、先生とその日一緒に居たがために、本来ならば先生ひとりで片付けるはずの仕事を、気まぐれに、たまには手伝うなんて言ってしまうことは無かったのだ。
具体的には、本を読む課題に飽きたので、ちょっと体を動かしたくなった。
だが、そのときの私に言いたい。
冷暖房完備の部屋の中で寛いでいるほうが、ちょっとした冒険心と退屈感の虚無を満たすための「お手伝い」なんかよりずっと良くって有意義であり、ついて行くべきではなかったと。
お前の想定していた「お手伝い」は遥かにややこしくて面倒だぞ、と――。
「――参りました」
先生はついさっき受けた電話を抱えたまま、さらに頭を抱えて、非常に頭が痛そうに机に突っ伏していた。
私は本から顔を上げて、先生のようすを窺い見る。明らかにトラブルか。やれやれ。私は電話が完全に切れているのを確認してから、先生に声を掛けた。
「……何が、参った、なんですか?」
「今回の依頼が、ですね……その、なんと言いますか――たまに、私のことを魔術師でなんでも屋だと思っている輩が居るんですよ――迷惑なことに」
「間違ってはないですけど……」
「一応!ここは、心霊研究所なんです!僕はその所長!研究者です!非戦闘要員!」
……ええ~~。
あれだけ霊とバリバリ戦っておいて、研究者を名乗るのか……。
まあしかし、先生が戦力として数えられてしまうのは、こちらとしても業腹だった。先生は暗殺者でもなければ、傭兵でもない。先生の職業というか依頼傾向がこれより大幅に変わってしまうのは、本当に困る。私はあくまで、心霊やオカルト的恐怖で震えあがりたいのに、そこに魔術で人間同士のごたごた騒動がメイン、なんて方向性になってしまうと、私の望む死の境界やあの世のものからの恐怖で生を実感してまともになる、という私の完璧なプランが、まったくあやふやでパァになるからだ。人間と殺したり殺されたり程度では、もはや日常茶飯事なのに。先生には魔術師ではなく、きちんとした霊能者でいてもらわなくては。
これは死活問題なのである。
「でも、断らないわけにいかないんですよね……身内でして」
「身内?ご家族ですか?」
「いえ、親戚ですよ。分家筋でしてね――顔を知っているものだから、無視するのも寝覚めが悪い」
ふーっ、と長い長い息を吐いて、先生は諦めたようすで、抱えていた子機でリダイヤルを打った。
それから、手短に、請けます、とだけ告げ、先生は切ってしまう。気がすすまないのがあからさまだった。客商売なら零点の対応である。客商売だから零点の対応である。そして、私はなんとは無しに、そんな珍しい反応の先生に、お察しの通り、珍しい反応で返してしまったわけだ。
「――私、手伝いましょうか?」
「えっ、いいんですか?」
「良いですよ。暇ですし」
「よ、よかったー!正直、今回は僕ひとりではきつくて……」
――それで、どんな依頼なんですか?
勉強の息抜き、くらいの軽い気持ちで安請け合いした私は、この安請け合いを、本当に本気で後悔することになるのだった。
「ある人物の護衛依頼です。呪いからでも暴力からでも、ひとまずその一日、怪我ひとつなく守り抜くのが仕事です」
◆◆
――三日後。
依頼主とは、みなとみらいの赤レンガ倉庫にて展開されている、洒落た半個室パンケーキカフェで待ち合わせとなった。部屋の予約はあらかじめしてあるらしい。先生と共に店へ赴き、教えられていた苗字 (山田だ。おそらくではなく仮名だろう)を店員さんに告げて予約席へ通してもらう。
案内してもらった席は、さすが、窓際の奥の席だった。
店内から死角になりやすく、窓側からも、やや覗き込みにくい。わざわざ場所を指定したらしい。おかげで少し薄暗さをもつそのテーブル座席に、高校生だろうか。今時珍しい純セーラー服を着た女の子と、歳が離れているが、雰囲気からいっておそらく兄だろう。メニューに目を落としていた三十代ほどの男性は顔を上げると、やっと私達の存在に気が付いたのか、片手の軽い会釈で私達に座るよう促した。
その二人は、異彩を放っていた。
「久方ぶりだな、『祓い屋』」
「そちらも変わらずお元気そうですね。『葬儀屋』さん」
――せ、先生、その言葉って嫌味ですか……?
と思ってしまうのも無理はない。なぜならその二人組は、異彩というに相応しく包帯まみれだったからである――女の子に至っては、両目も包帯で覆っている。白い杖を持っているので、目を怪我してしまったのだろう。
先生に葬儀屋、と呼ばれた方の包帯まみれの男性は、機械的無表情で機械的に煙草を吸いながら、一分遅刻だ、と細かいことを言う。まだ肌寒いとはいえ屋内なのにスーツの上から黒コートをかっちり着込んだままの変人だ。暑くないのだろうか。そしてこの店は全席禁煙なのだが……。(店員さんは、彼の威圧感に負けて言い出せないようだ。気持ちは分かる。)
「――お兄ちゃん、煙草」
しかし怖いもの知らずはさすがは身内か。妹さん (おそらく)が冷たく言い放つと、これまた無表情で無感情のまま、ああすまない、と携帯灰皿を取り出して煙草を消し入れた。配慮してくれたらしい。妹さんはすぐににこっと笑顔に戻って、
「すみません煙たくて。まずは注文しましょう。ここのパンケーキ美味しいんですよ」
と、手探りながらもうひとつのメニューを渡してくれた。ちょうどお腹も減っていたし甘いものの気分だし、ありがたく注文させて頂くこととする。
それに、ここはテレビでも紹介されていた、けっこう話題のパンケーキカフェ。実は前々から食べたいとは思っていたのだ。
私はいちごが乗っているタイプのホイップパンケーキを選び、ほか全員も注文が決まったので、飲み物と共にオーダーを済ませた。メニューを下げてもらって、パンケーキが焼けるまでの間、ようやく、私達は本題に入ることになる。
からん、とサービスの水の氷が溶けて鳴った。
口火を切ったのは、先生だった。
「まずは紹介を――こちらの子は、うちの一番弟子、前途有望な生徒の遠城寺マイナちゃんです。今回は依頼に同行ということになりますのでよろしく」
「遠城寺です。よろしくお願いします」
社会人よろしく、名刺を取り出して兄のほうに差し出す。一応このために、先生から作ってもらった名刺があるのだ。彼に名刺交換という文化があるか不安であったが、さすがに持っていたのだろう、コートの内ポケットからごそごそと自分も取り出して、お行儀よく互いに名刺交換と相成った。
受け取った名刺を見る。
名刺には簡素に、こう書かれていた。
――死体の隠蔽承ります。
――葬儀屋、
「――香田さん……だと妹さんと混ざるか。弥栄さん、と呼ばせていただきますね」
通例通りに名刺を机の横に置いて、私達は会話を続行する。妹さんは名刺が無い代わりに、口頭で自己紹介をした。
「私は――妹の
「厄請け?」
「簡単に言えば、厄年の人間の厄など、悪いものを請け負えます。当然、私に厄がしばらく降りかかりますが……」
妹さん――そわかさんはどうも難儀な特技をお持ちのようだった。兄の職業が死体隠蔽なところを考えるに、裏稼業で生きるお家の人なのだろう。――というか、先生も「祓い屋」などと言われていたし、もしかして先生も、片足突っ込んでたりするのだろうか?……いや、政府のごたごた案件をしょっちゅう片付けている時点で、今更感もあるが。殺人鬼の私が言うのも変だけど。
そわかさんは続ける。
「そして私は、本質的にはごく普通の女子高生です。できることが限られていますので――」
「僕たちの出番ってわけですね。覚悟はいい?我が生徒よ」
「もちろんです。お任せください、先生」
まだ豪華客船に乗ったつもりでいる私だった。その豪華客船は氷山にぶつかり見事に沈むのに。
護衛と言っても、警備員程度のものだろう――なんて、本当に甘いことを考えていたのである。この時点の私は。
「――今回のターゲットなんだが」
弥栄さんは黒のブリーフケースを取り出し、中からファイルを持って、一枚の書類を見せた。人事ファイルのようだ。証明写真が貼られている。いかにも政府の高官らしい狸のようなじじいが、ふんぞり返って映っていた。重要項目、のところには、「"追尾する色の恐怖"の呪いあり」と書かれている。
「先に言っておくと――こいつは呪いで既に死んでいる。問題は、呪いが死体に残ったままということだ」
「……術者は?」
「呪いは術者の命が代償だった。既に死んでいるから、そちらは気にしなくていい」
問題は、と言って、トントンとテーブルの上の書類を弥栄さんは指で叩いてみせた。先生も、面倒そうに顔を顰めている。
「"追尾する色の恐怖"の呪い――あまり詳しくない呪いですが、聞き齧ったことはあります。確か、呪った対象をどこまでも追いかける極彩色そのもの――距離を開ければ逃げることもできますが、色を媒介に、また出現するとか?」
「そうだ。そして人間を憎んでいるタイプの悪霊でもあるからな――このまま呪いから外れ、どこかに逃げられても困る」
「今はどこに?」
「白い部屋に閉じ込めてある」
なるほど。そうすれば、追尾する色の恐怖とやらは動けなくなるらしい。移動ルートには色がないとならないのだ。あれ?
私は疑問を口にした。
「あの……、それならなぜ、白い部屋に入っていた……その、呪いの対象者さんは、殺されたんですか?」
「いい質問だ。――いや、悪い質問でもあるな。まず、色といっても条件があって、奴は無機物の色にしか憑りついて出現できない。ここまではいいか。でだな――かわりになのか知らんが、奴は軽く人間に遠隔で催眠を掛けられるようだ」
ええっ。困る。
私が気味の悪さを感じているのを見てか、先生が安心させるように、私の肩をぽん、と叩いた。
「――大丈夫ですよ。僕やここに居るメンバーは悪霊程度の軽い催眠は効きません」
「えっ、なぜ」
「まあ――そういうものなのです」
先生は濁した。
明らかに何かを隠していたが、私が突っ込もうとしたところで、こほん、と話の腰を折られた弥栄さんが恰好だけつけたみたいな咳払いをしたため、私は深堀りするのをやめにする。
今は、依頼の話中だ。
「――で、だ。ターゲットは、白い部屋に居たが、催眠により手首を噛み切って、血を撒き散らしたわけだ。結局その血液の赤を媒介に追尾する色の恐怖は出現し、ターゲットは死亡した。すぐに部屋を移動させて、別の白い部屋に隔離はしたが――」
「呪われ続けたまま、と……。確かに、厄介ですね」
先生が頷き、そわかさんを見た。
私も、おそらく今回の依頼内容がだいたい察せられた。
――つまりは、そのターゲットの呪いを、今回そわかさんが請け負いにいくのだ――しかし、何のために?
疑問符を浮かべている私に、そわかさんが説明をしてくれた。
「――まず、ターゲットの場所まで行き、呪いを請け負います。そうしたら、松御神社、という場所がありますので――そこで厄を洗い流すんです。もちろん、呪いも同様に流せます」
それでミッションコンプリートというわけか。話が見えてきた。
そのためにも、道中私達の護衛が必要になったのだ。いくら催眠を回避できるとはいえ、安全な白い部屋から出て目的の厄流しができる神社まで、 (彼女の言を信じるなら)普通の女子高生である彼女が安全に向かうには荷が重すぎる。
霊的現象には先生が。
物質的現象には私が。
各自対応するわけだ。
「俺は呪いの解けた穢れた死体の処理をする必要がある。同行はできないが、――妹を頼む」
そう言って深々と、弥栄さんは頭を下げた。
感情が薄そうな人だから意外だった。
――しばらくして頭を上げると、やはり、彼は硬い無表情のまま、私達を射抜いている。彼に、家族を大切にする感情は、果たして真実にあるのだろうか。失礼ながら、ちょっと疑問に思ってしまった。
「――あ。パンケーキ、来たみたいですよ」
そこで、ちょうど話を切り上げて、私達はやってきた店員さんの方を見た。お盆を抱えた店員さんは、行儀よく注文した料理と飲み物を並べてゆく。
パンケーキは生クリームたっぷり。パンケーキ生地にバターがたっぷり練り込まれているタイプのハワイアン・パンケーキだ。飲み物は冷たいロイヤルミルクティーにした。いざ。
「いただきまーす!」
それぞれがナイフとフォークを取る。
これを食べたら仕事に取り掛かるのだ。さあ、腹ごしらえをしっかりしよう。