亜坂先生の死体は継ぎだらけだった。
しかしでたらめではなく、腕、肩、首、足、胴体などと、人形のように「パーツ分け」されている。切ることについてはプロなので、その痕から、骨まで断ち切って一度切断したものをくっつけたのだと推測できた。――それで、何のために?
――亜坂先生は、どうしてこんなところに?
吸血鬼でもあるまいし、さらにこんな死体シェアハウスで寝る趣味とは恐れ入るものだが――本人に直接ここで問いただすわけにもいくまい。
私は大人しく、静かに、先生が目を覚ます前にボックスを戻そうとした。
その瞬間。
――ぱちっ、と、亜坂先生が、目を開けた。
――かたたっ。
ああ、あの時の音は、亜坂先生の目が覚めた時の音だと納得する。覚醒した際に、すこし電撃を帯びたように震えるのだ。
私と目が合う。
亜坂先生はかなり眠たげな顔だったが、みるみるうちに正気を取り戻してゆき、はっきりとしてきて、ついに声を上げた。
「――助けて。私を、ここから出して」
「はい?」
彼女は力なく懇願すると、私に手を伸ばしかけ、途中で脱力し、がくんと腕を下ろしてしまう。体に力が入らないようだ。その口ぶりだと、ここに閉じ込められているらしい。力が入らないのは、長期間閉じ込められていた弊害か。――うん?それだと、話が合わないな……。
少なくとも今日の夕方、私は亜坂先生を尾行で見ているのだから。
「……亜坂鳴先生、ですよね?」
「え……そう、だけど……どこかで会った?というか……今は、どのくらい経ったの?」
困惑する亜坂先生に、私はやっと確信する。
――成り代わっていたか。
朱堂くんの言っていた、「真面目一辺倒」だった大学時代の亜坂先生――それが、この、寝ているほうの亜坂鳴なのだろう。
人なんて、そうそう変わるものではない。
こんな魔術がある。
「似姿の魔術」――自身そっくりの人形を用意し、それに魔力をたっぷりと注ぎ込み、自らの分身――似姿を作る呪術。人形の素材は本人に近いほど似姿の精巧さが上がり、例えばぬいぐるみが媒介なら動くだけで思考や発話は難しいし、逆に人間の死体や親族を使用するなら、ほとんど本人のように振る舞う。
――では。
――
「――!あいつが来る……!」
亜坂先生は、怯えた声で小さく叫んだ。
突然の足音に、ドアのスライド音――それから、ピッという電子音。
あの、霊安室すぐ横にあった、カードキーの必要だった解剖室。
◆◆
隠れないと、と亜坂先生は焦ったように告げる。しかし、隠れる必要はなかった。私は飛び出しナイフを再び取り出し、目的だけ果たすために、寝ている亜坂先生に――いや、亜坂鳴に近付く。
ガラガラと死体を運ぶ音がする。外で、解剖後の死体を、亜坂先生が持ってきているのだろう。ここのドアが開かれる前に、済ませてしまおう。
念のため、ひと言言っておくと、これは私の完全な親切心で――或いは「同時に同じ顔同じ存在が揃っている気持ち悪さ」を払拭したくてやる私の我儘であり、特にこれといった意味は無い。そう、建前、ではなく前提にくるのは親切心である。亜坂先生は自分と同じ顔を処理する勇気が無かったのか、処分もせずにこうして霊安室の一角に放置するに至っているようなので、私が親切にしてあげる、といったところなのだ。
「えっ――」
断末魔にしてはひどく間抜けであっけない声で、亜坂鳴は、私の飛び出しナイフに首を刎ねられた。普段から怠らず砥いでいる愛用のナイフなら、そして私の腕なら、首の骨くらい訳なく切断する。それから左胸にひと突き、ナイフの一撃を加えた。もう叫びはなかった。ただ、処理の仕方は合っていたらしい。首を刎ね、心臓を突いたことで、亜坂鳴は、泥となって人の形を失った。
――術者が死んだら、似姿も死ぬのだろうか?
ぴた、と音がやんだ。
予想に反して、私と出会った亜坂先生は、当たり前のように、ドアを開けて (迂闊にも鍵を閉め忘れていた)、霊安室の中で突っ立っている私と相対する。
「あれ~?どうしたの、こんなとこで~」
特別なんでも無さそうに、亜坂先生は手をひらひらとさせる。いつものように覚束ない目線。それが、私の飛び出しナイフと、右下端の泥が乗った安置棚に移って、理解したのか、気まずそうに笑った。
「今日はもう遅いから、明日、話すよ~」
◆◆
――翌日。
私の病室、時刻は十五時を回ったところ。
本来は十二時半の約束の予定だったが延びに延びてこの時間、やっぱり多忙な医者という職業である、やっと昼休憩がとれた、とふらふらやってきた亜坂先生は片手にゼリー飲料を持って食べながら現れた。いつも思うが医者こそ不養生しているものである。それで長生きできるのかと考えさせられるが、医者は患者こそ長生きさせる存在だから、えてして自らは悲しき相反する傑物として身を置くしかないのかもしれない。医者は矛盾を抱えている。
「
丸椅子に座って、さっそく、亜坂先生は切り出した。今にも眠りそうに眠たげだ。大丈夫だろうか。私は黙って続きを待った。
「まあおおよそは、先生の生徒なんだから、予想はついてるんだよね~。『似姿の魔術』を使ったっていうとこまでは、分かっちゃってるよね~?」
素直に頷くと、亜坂先生は残りのゼリー飲料を飲み干して、ゴミを白衣のポケットに乱雑に入れてから、う~ん、と難しそうに唸ってみせた。
「培養表皮ってわかる~?」
「……分かりますよ。あれでしょう。火傷の治療の際に、術者の皮膚が足りないとき、術者の皮膚の組織を採取して、培養して作るっていう……人工皮膚みたいな」
「そうそう、まあ、そんな感覚であってるかな~」
私は昨日朱堂くんからもらってきたフルーツ籠から、いちごをひとつ手に取って食べ始めていた。白いいちごと赤いいちごがあるので、白いいちごを選ぶ。どちらも甘いと思う。亜坂先生にもすすめてみたが、首を横に振って「下手に満腹になると眠たくなる」とのお答えであった。今は眠くないのか?
話を培養表皮に戻す。
「……でね~。まあ……それを応用したかんじ~?培養表皮は、術者の皮膚組織を培養して、皮膚シートを作って、皮膚になじませて、で、一時的にだけど皮膚として定着させるわけ~。でも、私って天才だからさ~」
うわっ、この人めちゃくちゃ自信家じゃん。
いや、これくらいでなければ医者になんてなれないか。
亜坂先生を見ても、あのぼんやりした眠そうな顔のままで、大した変化は無い。これから明かされる真実に、動じた様子も、怯えた様子も微塵も無い。
――むしろ、困っているように見えたくらいだった。
本来、似姿の彼女には、偽物の彼女には――不安なのだろうか。
存在の根底が揺らぐ、そんな気分があるのだろうか。
いや、やっぱり。
――睡眠不足。
彼女の目下の不満点といえばそれくらいだ。
彼女のハードワークからの睡眠不足。彼女はどうして働くのだろう。過重労働しないといけない、なにかがあるのか。それか、過重労働していないと見えてしまう、なにかがあったのか。
ややあって、亜坂先生は言った。
「……あっちの私はさ~、私の体を、培養でもうひとつ、作ってみたらしいんだよね~」
「なるほど」
私は合点がいく。
そんな「ほぼ完璧」な似姿があれば――いや、もはや、それは、「彼女自身」を使った似姿だったろう。
なぜならば。
――
人形のようなあの継ぎ目は――彼女が、継ぎを作りながら、右腕を継いで、右腕を馴染ませていたから。つまり、自らの右腕を培養した右腕とすげ替え、馴染ませ、馴染んだら、次は左腕を――次は右足を――左足を――彼女は替えていったのだ。そして、すべてをすげ替え終わったとき――その代わり、副産物として、『余り』の肉人形が一体、できてしまった。
そこには、
――
「私さ~。うん。今でも。ちょっと、分かってないんだよね~。ふらふらしてて~。あの研究フロアで似姿いじってたときからさ~。だから、どっちがどっちか、あやふやでさ~。この疑問が、ずっと頭から離れないんだよね~」
亜坂先生は頭を掻いて、向き直る。そして、
「――ねえ、どっちが本物の私だと思う~?」
結論に至ったであろう私へ、亜坂先生は困った顔で笑いかけて問った。
……私はすぐに答えようとした。
――貴方は偽物です。似姿です。
だって、人間は変わるはずがないのだから。
しっかりとした根拠だった。真面目一辺倒だった亜坂先生が、劇的に変化した原因。それは、似姿に成り代わられたから。これ以外にあり得ない。化け物になったから、化け物じみた性格になった。とても筋が通っている。だから、私はそう伝えようとした。
しかし、その瞬間に。
――サイドテーブルにある、私のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いたのである。
◆◆
そうして、さらに翌日になる。
――昨日はさんざんであった。
着信がきたと思ったら、着信先は先生であるし、スマホは持ち込み禁止のはずと亜坂先生にしこたま怒られるし、それでもまあ着信がきてしまったものはしょうがないからと大目に見られて (いいのか?)――先生の着信に出てみたところ、明日退院手続きで迎えに行くことについてと、亜坂先生について、ひどいこととか、見当違いのことを言っていないでしょうね、と釘を刺されて、――つまりは、えっ、と、面食らってしまったのである。
というわけで、今回は大人しく、私は白旗をあげることにする。
今回ばかりは、先生に任せる。
待ちに待った月曜日。
退院の日――。
私は既に入院着から普段着に着替えていた。
先生は既に退院手続き諸々を済ませて、ゆったり丸椅子に座っている。手慣れたものである。伊達に互いに入院回数が長くはない。私も荷物は纏め終わっているので、あとは約束の亜坂先生を待つのみだった。
そう。
今日も、亜坂先生と約束をしていた。
先生の提案である。
どうも、先生から、直々にお話があるらしい――私の生徒がいらぬ変なことを言ったりしてしまったのなら申し訳ございません、明日弁解します、と、電話口で、そういう話であった。
先生は、私が亜坂先生の本体を潰したことを告げると頭を抱えたあと、
「なんでそんなこと平気でするんですかね~~!」
と大仰に溜め息を長く吐き、それから、
「それは本体じゃなく、似姿のほうです」
と平然と言ってのけた。
――えっ。
えっえっ。
「だって、首を刎ねて心臓を突いたあと、泥になったんでしょう?」
「……た、確かにそうですが……」
「それなら似姿ですよ。あの亜坂先生は本物です。大体、潰されたのが本体だった場合、似姿は同時に消えてしまうでしょう」
「で、でも――過去の性格と劇的に変化した時期がありまして」
じとっ、と、先生に物凄く非人間を見るような目で見られた。やめろ。そんな目で見るな。
さらに、諦めた顔で、分からないでしょうが、と、丁寧にラジオの使い方を解説するように、先生は告げた。
「人は自分によって変わるものです。変わることはできるのです。良くも悪しくも――貴方は知らないのかもしれませんが」
「…………」
そんなのは嘘だ。
――だが、依然として、亜坂先生は、本物なのだろう。
先生は間違えない。だから――私の間違えだ。今回のところは。
「それじゃ、ひと段落しましたし、少ししたらお暇しましょうか」
「……?先生、亜坂先生にはこのこと、伝えなくて良いんですか?」
急に文庫本を取り出して広げ始めた先生に、私は不思議がって訊ねる。明らかに時間を潰す気のスタイルだ。確かに、亜坂先生は遅れて来る可能性もあるが――なんだか、先生はもう、何かを伝える気は無さそうだった。ひと仕事終えた顔をしている。それこそ先生もきょとんとして、それから、ああ、と私に笑いかけ、聞こえなかったんですね、と人差し指を唇に当てて内緒話に耳打ちした。
「病室の、ドアの前……泣いているようです。放っておいてあげましょう」
…………。
――あの人は、これからも変わるのだろうか。
それとも、変わらないのだろうか。
「真面目一辺倒」な清廉潔白でありたかった亜坂鳴と、その人格から剥離すべく、儀式のような試練を乗り越えた新しい「自由奔放」の亜坂鳴。
その同一性は、はたして、途中で喪われていないと言えるのだろうか……?
あの人は、自己の人格すら、犠牲にしているのではないだろうか。
私はあの人が本当は「何」なのか。ちょっと分からなくなってしまった。