この記憶も、いつだったか時期が曖昧だ。というのも――微妙に以前に引き続く話になるからだった。
なので、「私が泥水で溺死しかけていた」「頭を割られて昏睡していた」後くらいのお話と思って頂ければ差支えはない。
――入院中、救急病棟。
つまり、ICUから移動し――かなり状態がましになったころ。
場所は、もちろん私の愛する住処横浜――に存在する大学病院、聖ネオポリス大学附属病院。
比較的最近に新棟が完成していて、救急病棟はそちらへと移っている。旧棟も変わらず運営されており、病院は純粋に巨大化した、というわけだ。羽振りの良い病院である。しかし、少なくとも殺人鬼という半グレだか裏界隈だかに片足を突っ込んでいる私の情報網によれば、――多少あくどいことをしてあこぎに稼いでいるらしい。
というか、黒い噂は絶えない。
先生曰く、ここの除霊依頼を請け負ったのも一度や二度ではないようで――わりと恨みも買う病院なのである。いや、恨みすら転売している病院と言ったほうが正しいか。とにかく稼ぐこと第一主義といったかんじで、家族にろくに説明せず生命維持装置の装着をしてしまったり (一度してしまうと取り外せないのである)、成功確率の低い高額手術をさも希望的観測で成功率高く見せかけ同意書に判子を押させたり、エトセトラエトセトラ。他にもあるが割愛。まあ掘れば掘るほど様々な過去が飛び出してくる。
それでも安心してほしいのは、「金さえ払っておけば黙って治してくれる」、この一点なのだ。
実を言うとこの病院に入院するのは五回目くらいだから初めてではない。とはいえICUまでいったのは初めてだったが――こんな頻繁に大怪我を負っていても、病院は金さえ払っていれば何も言わないのだ。
私の特殊体質にも、黙ってくれている。
私の、というより、
先生も同じである。
自然治癒能力が高すぎる、という点。
私達の退院は、思いのほか、毎回早い。
「は~い、朝の検温だよ~」
救急病棟の個室にて、のんびり朝のニュース番組を見ていると、声を掛けられた。こちらもまた、一応隔てるカーテンはあるが、ドアが無い。基本、着替え中でも無い限り、カーテンも開け放してある状態だ。(まがりなりにも重症患者の扱いであった。)
私はテレビを切って、やって来た白衣の人物に応える。
「おはようございます、
「おはよ~。元気~?」
などと訊いておきながら、深く刻まれたクマ、夢うつつでふらふらの足取り、跳ねてぼさぼさの長すぎる髪と、まったく元気そうでないのはご本人、
亜坂先生は、この聖ネオポリス大学附属病院手術部勤務の医者だ。外科医である。
つまり、朝の検温という看護士さんや研修医がやる仕事をする必要はまったく無いのだが、これは、彼女なりの一種のライフワーク……という説明であった。なんでも、個人的に時間外で研究棟で研究をしているらしい。そのため、この検温と血圧測定の時間に、私はこっそり血液サンプルを採取される。先生の際もやられたようだ。――まあべつに、血液くらい良いだろう。お互い様ということで。と、半ばモルモット扱いは諦めている。
私達のような、異常早期治癒の原因を調べ、うまく医療活用できないか――という、まっとうな研究内容だし。
それに、医療の技術進歩に貢献は、悪いことではない。
それよりかは、今はむしろ亜坂先生に医療が必要な気もしなくもないが。すぐにでも睡眠不足か過労で倒れそうだし。
「……うん。額の傷もほぼ治ってるね~。これだったら明日にでも退院できるよ~」
「やった!」
「……あ~、でも、明日って土曜だったね~。ごめんごめん、土日は総合受付で退院手続きやってないから、月曜に退院ね~」
「やだー!!」
亜坂先生は、ポケベルで曜日を確認してあちゃ~っと頭を抱えるジェスチャーをしてみせた。私は希望から絶望の底へ叩き落とされた。
入院生活はとにかく暇である。特に、救命病棟はネットや電子機器がご法度だ。テレビは見られるが、令和の時代にテレビだけはつまらない。完全に飽きる。本や漫画も、先生にいくらか持ってきてもらったが、とっくにすべて読みきってしまった。
そんななか、「退院できる」と聞いて、「やっぱり待て」な二日間 (今日も入れたら三日か)はまさに地獄だ。どうしてくれる。
しょげる私があまりに哀れに見えたのか、亜坂先生は再度軽く謝って、いつもの呂律の曖昧な口調で提案した。
「それなら、旧棟に行ってきていいよ~。もう元気だし。ラウンジ行けば、カフェも売店もあるし、パソコン借りてネットもできるよ~」
「ほんとですか?!」
わりと地獄に仏だった。一度地獄に行った私が言うのもなんだが。とにかく、暇とは地獄のように苦しいのだ。あれ?でもあの地獄は苦しくなかったな?ということは、この形容詞はおかしいか?
まあそれはいいとして。
さっそく、ラウンジへ行こう。
私はやることを終えた亜坂先生を見送り、味の薄い健康的な朝食を食べ終え、手術後に飲まねばならない薬を複数飲んでから、やっと新館を出て、旧館へと繰り出した。
旧館と新館は渡り廊下で繋がっている。なので、救急病棟から出て階下へエレベーターを使うものの、一度外へ出る必要は無い。スリッパのまま移動できる。
ラウンジは新館の十階にあった。カフェや売店が併設され、隅の区切られたスペースは、有難いことにパソコンが複数台置かれている。お喋りに興じている人が多いし、多少騒がしくしても問題は無さそうだった。
――通話してやろっと。
私はパソコンの電源を入れ、ひとつの座席に腰掛けると、完全に立ち上がるのを待った。型はすこし古いがネットサーフィンには苦労しなさそうな、マイクとカメラが内蔵のデスクトップパソコンである。やがてパソコンが動かせるようになったので、私はネットで通話アプリのブラウザ版にログインし、「朱堂くん」に不意打ち通話を送った。
現在朝の八時。
平日なので、起きているはずだ。
……ややあって、完全に虚をつかれて焦ったらしい声の朱堂くんが、通話口から現れた。
『――はぁ?!は?!えっ?!な、なんで!?オバケ?!化けて出た!?誰おまえ?!アカウント乗っ取り?!』
「ふっふっふ……。地獄の底から舞い戻ったよ。今貴方の後ろに居るの、朱堂くん」
『許して!!』
「許さん!!」
『十万!』
「誰が許すか!」
『二十万!』
「桁が足りない」
『ぐっ……八十万!』
「九十万」
『八十五万!』
「いいだろう」
『許された!』
というか、本来私が払うはずだったのに、なぜか彼が払うことになっているがいいのだろうか。結果的に、彼は雨の中重労働しただけになってないか?……まあ、本人が納得してるしいいだろう。
「それより私のスマホ返して。車に置いてきちゃった」
「あー。そういえばあったっけ。分かった。届けるわ。明日休みだから明日でいい?」
「オッケー。フルーツわすれるなよ」
ぷつっ、と、何の感慨もなく通話を切断し (毎回こんなもんである)、その日はそのまま登録していたサブスクリプションで映画を見て一日を消費した。ネット社会万歳だ。やはり現代人はネットがなければ生きていけない。
◆◆
翌日。
病院というものは、なかなかどうして、過ごしていると健康的になってしまう。食事だけでなく、生活リズムも異様に整う。その日も朝七時に起床し、亜坂先生のチェックと採血を受け、栄養バランスの考えられた朝食をとって、しばらくベッドの上でのんびりしていると、十時あたりになり、やっと待ちかねた訪問者がやって来た。
「よっす。なーんだ、思ったより元気そうじゃん」
「おかげさまでね」
まあ言われた通り、ほぼ全快と言っていいので、めちゃくちゃ元気なのだが。なので余計に、暇が私を苦しめている。元気有り余りである。
朱堂くんは律儀に持ってきたらしい、フルーツの詰め合わせのカゴを私に渡すと、そのまま適当に備え付けの丸椅子に腰掛けた。フルーツは水信のやつだ。いちごなんて一粒ずつ箱で入っている。おお、相変わらず凄いな、ここ。わりと私はこの詰め合わせで殺されかけた (殺された)ことを許してしまった。ちょろい女である。
「そういや、この病院、大丈夫なの?」
彼にスマホを返してもらいつつ、私はかなりアバウトな質問の意図が読み取れずに首を傾げる。朱堂くんは誰が聞いているわけでもないのに声を潜めつつ、だってさ、と私に対して続けた。
「あの"亜坂"の病院だろ、ここ。やばい人体実験とか、やってんじゃないの?」
「え?いや。してるよ。人体実験」
あっけらかんと言う私に、固まる朱堂くん。
ていうか、朱堂くん亜坂先生のこと知ってたのか。お世話になっているのか?まあ、彼も日陰を歩く殺人鬼だから、少なからずお世話になっていてもおかしくない話ではあるが。
ちなみに、亜坂先生が人体実験をしているのは紛れもない事実である。しかし彼女の名誉のために念のため断っておくと、彼女が人体実験するのは「希望者」だけだ。あくまで「治験」扱いで違法なことをする。きちんと本人の同意ありで違法なことをするのだ。契約書だって交わすらしい。
「――ボクと亜坂ちゃんは別に知り合いってほどでもないけどね。――大学の同期だよ」
「……そういえば、朱堂くんって医者だったっけ……」
「え?!忘れる要素なくない!?なんで?!」
それはもう、医者らしくないから、である。
――まあそれは置いておいて。
「亜坂先生って、そんなに大学時代、悪い噂あったの?」
朱堂くんはまだこの話題についてひどく論じたそうだったが、年上らしく一歩引いてくれたようで、答えてくれた。
「娘のほうじゃなくて、――父親のほう、大学病院の院長のほうだね。そっちが元々、すっごい悪い噂ばかりでさ。やくざと裏金だの、死体の処理だの、死亡診断書の偽造だのって」
あーそれ、娘の方もやってる。
とは、口を挟むと面倒なので、私は大人しく彼の話の続きを聞いた。
「娘のほう――鳴ちゃんは真面目一辺倒ってかんじで悪いことできなさそうだったよ。ただ、ちょっとメンタル弱めに見えたかなぁ」
「精神科医が言うと重みが違うね」
「急に医者扱いすんなって」
――ふむ。しかし、そうか。
私はことのほか、急に、亜坂先生という存在に興味がわいてきてしまった。なにせ、暇だからである。少なくとも、今日を入れたところで、あと二日は暇だ。
なぜ興味がわいたかというと、まず第一に、私が亜坂先生から受けた、まあへらへらしてあくどいことでも平気でやるよなという第一印象と、真面目一辺倒だったという大学時代の印象、その正反対になるに至った経過、原因である。これにはかなり劇的な要因が必要なはずだ。それと――これが実をいうといちばんの理由なのだが、かなり以前に、これまた私が入院した折、亜坂先生がいつもの通り採血にふらりとやって来て、私の血をくすねていったわけだけれど――その際、偶然にもお見舞いに来ていた先生が居た。そのときに――亜坂先生が立ち去ったあとに、先生がぽつりと、不思議そうに、なんでもなく言ったのである。
――どうしてあの人、心臓の音がしてないんだろう。
◆◆
今日の昼間のほとんどは、朱堂くんのおかげで暇はせずにお喋りをして潰せた。どちらにせよ、こういった「調べもの」は真夜中に行うと相場が決まっている。
深夜零時。
とっくに消灯時間は過ぎ、看護士さんもまばらにしか居ない。
どこを調べるのか、という問題になってくるかと思うが、そこはクリアされている。夕方、朱堂くんが帰ってから、亜坂先生を探し、幸運にも見つかったので、ちょっとばかり尾行させてもらった。手術部の先生だが、今日の執刀はこれ以上無いことは知っていた。(なにせここに通って長いもので)。尾行の結果、亜坂先生は旧棟の地下一階に行ったことが分かり、ひとまずそこで、私は尾行を中断し、退散したのだが――。
――今現在、彼女はここに、居るのだろうか?
ナースステーションの視線をかいくぐり、渡り廊下もなんなく突破出来て、旧館に辿り着いた私は、エレベーターでは音が鳴るため、念を入れ、階段を使って、地下一階へとやって来ていた。
地下一階は、予想するに人体実験用の治験病室と、 (とはいえなんてことない普通の大部屋病室である。自由意志だし)、機械室、電気室、倉庫――そしてぐるりと治験病室を回り込むかたちで、わざと細長い廊下が遠回りにあり、解剖室、さらに奥に霊安室、と続いていた。
病室は声を上げられる可能性があるし、危険すぎるだろう。
機械室や電気室、倉庫に、何かあるとは思えない。見る限り、亜坂先生は不在のようだが、あまり情報が無さそうなところにのんびり割いている時間は無い。
何かあるなら、解剖室か霊安室だ。
そろりと大部屋病室の前を通り過ぎ、私は解剖室の前まで向かう。
スライド式のドアだ。解剖室は電子パネルが付いており、医者の持つカードキーと暗証番号を入れなければ入れないようだった。
私は解剖室を早々に諦めてスルーし、最奥、冷たく無骨なドアノブのついた鉄扉、霊安室の戸に近付いた。
――霊安室。
死者の眠る場所。死体の一時保管庫。そこはなぜか、簡単な鍵だけで封鎖されているようだった。
分かりやすい、家庭用のドア鍵だ。十円玉や爪で開けられてしまうタイプのやつだった。私はさっそく、愛用も愛用の飛び出しナイフの先端で鍵穴を回し (肌身離さずである)、霊安室の鍵を開けた。
慎重に、扉を開ける。
古くて重々しい音を立てたドアに、すこしばかりどきりとする。潜入ミッションをやっていると、どんな音でも過敏になるものだ。私はすぐさま体を霊安室に滑り込ませ、ドアをなるべく静かに閉めた。
勝手に、室内の電気が点灯する。
人が入ると自動で点くようになっているのだろう。私は明暗の温度差にちょっとくらりとしてから、立ち直って、やっと辺りを見回した。
壁に横四列×縦三列で遺体を収納する引き出し式銀色棚がくっついている、よくあるタイプの霊安室である。ちらほらラベルが引き出し部分のカード差しに入れられているものがあり、それこそ、「中身入り」というやつだろう。私はそのラベルをひとつひとつ確認した。
そのどれも、最近――ここ数日以内に死亡した遺体のようで、これといって不審な点は無い。
いくつか「中身入り」の棚を引き出してみる。
スライドされて出てきたご遺体は、どれもこれといって目立ったところは見当たらない――特筆すべきものも無い。ごく普通の遺体だ。男だったり女だったりする。もしかすれば、医学の知識さえあれば――この場に朱堂くんでも居れば、何か詳細に分かったのかもしれないし、不可思議な点があったのかもしれないが、素人の私には判別つかない。
――ただ、すべて全裸であり、解剖の痕跡がある。
ということは、この霊安室は、病院のものではなく、ここ、人体実験フロア専用のものなのだろう。しかし、そんなものは、情報にはなれども手がかりでは無い。もっとも手がかりらしきものは無いか、霊安室の中央にある寝台に書類かカルテかでも隠されていないかな、と遺体のある壁に背を向けたところで――
――かたたん。
音がした。
振り返っても、音の場所は特定できない――いや、予測するに、おそらく棚の中で何かが動いたのだ。ただ、私は、この十二個が並ぶ銀色の棺の中で、どの棺が動いたのか、察しがつかなかっただけだった。
この場に先生が居ればな、と、ここまで思ったことはない。
――左上から順番に見ていくか。
私が諦めて左上端棚の取っ手に手を掛けたその時、また、音が鳴る。
――かたた。
今度は、おおよその場所が特定できた。
棚側を見ていたため、ひとつの戸が音とともに揺れたのを確認できたからだ。
右下端の棚だった。危ないところだった。このまま左下端から律儀に開けていっていたら、私はすべての棚をチェックするまで「当たり」を引けないところだった。
その棚のラベルを見ると、死亡日付を示すカードが無い。
――空なのだろうか?
先程中身を見ていった時は、ラベルありのものしか見ていなかったから、たぶん、この棚は覗いていない。
私は、ゆっくりと、銀色の引き出しを開けていく。
はたして、中身は入っていた。
――そこに寝ていたのは。
一糸纏わぬ姿で目を瞑っている。冷たくなった亜坂先生だった。