反射的に受け取った朱堂くんは、受け取ってからそれが何なのか確認したのか、ハァ?!と森に木霊するほどの大きな声で叫んで嫌悪感を露わにする。
「ちょっと煙草じゃん最悪!最低!触っちゃったし!返す!」
「吸っときな」
「ゼッタイ嫌嫌嫌嫌!」
「ふかし煙草で大丈夫だから」
「吸うくらいなら死ぬ!」
「はい、火」
「殺す!」
「――吸って」
――作業中はずっと。
私が淡々と詰めて勧めるのが効いたらしい。しばらくすると、寒さでぶるぶる震えていた朱堂くんも、いつまでもこうしていられないと悟ったのだろう。手伝ってやっている身分だというのに、ありがたいことだった。とはいえ報酬の件を考えれば立場はトントン。(お金の約束の方はしっかり守るつもりである)、本当に、本当に嫌そうに、税金の塊、或いは紙に巻かれただけの依存性物質を箱から出して、口に咥えた。
「はいよ」
火を点けてあげると、――朱堂くんは慣れない手つきで煙草を吸って、の動作を行い――思い切りげほげほ吐き出して、
「ま、まあこんなもんか」
と、開き直った顔で告げる。
煙草の煙が、古来から体を循環し、体の中の悪い気を吸着させ、吐く煙とともに追い出す、と呪術的に信じられていたのは、まあ有名な話である。もちろん、健康的にそんな特別な作用は煙草には無い。百害あって一利なしなのは最早この令和の時代においてまったく常識の一部だ。
そして、同じく、呪術的に、煙草の煙をくゆらせることで、その場の悪い気を纏うもの――悪鬼や悪霊、障りなどを、追い払うとも古くから伝えられている。煙草というのは、特殊な薬草を神聖とされる火で燻す。それだけで、ちょっとした簡易の儀式とも相成るのだ。馬鹿にならない魔除けである。
――以上すべてが、先生からの受け売りなわけだが。
効果はばつぐんのようだ。私は使ったことがなかったが、朱堂くんの頬にはみるみる赤みが差して戻り、体の震えも落ち着いた。私はいつでも彼が煙草をチェーンスモークできるよう、彼にとっては誠に不本意だろうが、ジッポライターを渡し、煙草も箱ごと返さなくていい、と言って、そのまま持たせた。ピアニッシモのメンソール、一ミリだった。
――しかし、弱いとはいえ、霧雨の中でも燃え尽きなくて良かった。これは企業努力か、はてさて先生が何か手心を加えたのか――。
とにかく、これで問題も解決し、彼の落ちていたスピードも復活した。私達は再び、手にシャベルを持ち、単調な肉体労働へと回帰する。
――地表から、約百センチ、つまりは一メートル地点。
地面がかなり固くなってきている。腕がちょっと疲れてきた。朱堂くんに至っては、見た目通り体力が無いのか、もうこの件を請けたことを後悔しているようすである。そんなとき、
「……やや」
私は何かを掘り当てた。シャベルを突き刺したまま、手で掘り起こしてみる。半身だけ見えていた、木片のようなそれ。大きさは十五センチほどか。荒く、粗雑に彫られたそれは、よくよく見なければ何かなんて分かりやしなかった。
「――コケシ?」
「え?――げっ!なにそれ!」
朱堂くんは私の作業の手が止まっているのに気が付いたのか、私のほうを振り返り、またもや気味悪そうに悲鳴を上げる。
おそらく、切り出した木片をそのまま切り込みを入れて段付け、人型らしく見せかけているのだろう。本当に簡素すぎる、おかっぱ頭をした人型の木人形だ。なんだか必要最低限に迫られて――というのがあけすけだった。
コケシは、子消し、と書く、とも言う。
その発祥はいくつか説があるが、ひとつとして――間引いたり、堕胎したり、捨てたりした子供のぶんだけ、供養として母親が作る――というのが、一般的に浮かぶものではないだろうか。
今回、先生は居ない。
だから、この地の呪いの、詳細は分からない。
想像に任せるしかない。
ただ、このコケシの出来栄えの粗雑さを見る限りでは――逝った我が子の救いのためではなく、逝かせてしまった自身の救いのため、そんな気がする。
いや――。
それですらないのかもしれない。
気にしていない。
親は、この子を気にしていない――。救われたいなら、救われたいと思うほど我が子に恐怖を覚える興味があるならば、こんな粗雑さでは作らない――もっと、やはり丁寧に作るはずだ。それでも母親は粗雑に作った。それはなぜか?
子を気にしていなかった。
捨ててしまったものだから。
ここにあるのは、恐怖でも感謝でも詫びでも悼みでもない。ただの「義務」だ。
私はその「義務」を地面に落として、シャベルでそのまま、胴体部分から真っ二つに叩き割った。
耳の奥から微かに、小さな子供のすすり泣くような声がし始めた。
なにごとか朱堂くんが言っていたが知らない。どうせ信じられないだのどうのの文句だろう。私ははいはいと流してまたシャベルを動かした。感触。まただ。また突き当てた。今度は、二十センチ大の木片を使ったコケシだった。大きさは不揃いらしい。やはり、やる気を感じられない。私もやる気なく、機械的に、そのコケシを叩き割る。耳の奥の啜り泣きが大きくなる。いや――これは大きくなった、というより、重なったのだ。人数が増えた。まあ許せよ。出土したものは壊せとの先生よりのお達しなのだ。
過去に、ここで何が起こり、どんな村があり、どんな悲劇を重ね、どんな大層な事情があり、どんなあくどいことをし、どんな被害者があり、どんな呪いを撒き散らし、どんな呪いをまき散らし続けているとしても、同情はできない。でも、きっといつか、できるようになりたい。そのときを待っていてくれ――なんて。自嘲気味に思う。結局、そんな日は、死んだってこなかった訳だけれど。
ふたりで掘れば掘り進めるほど、コケシはみるみる出土する。最小で五センチ、最大で三十センチものコケシが。出土するたび、虫が出た女の子みたいな声を上げて、朱堂くんは破壊を私に譲った。コケシを割っていく。少年少女合唱団はもはやはっきりと泣いて聞こえる。おかげで、頭がちょっと、ぐわんぐわあんと揺れる。すこし酔っ払ったみたい。続ける。
――地表から、約一.五メートル地点。
ここまで掘り下げると、バケツの出番である。ここからは力がある私の方が穴の中に入り、――そう、まさかの、私の方が彼より力があるのである――ちなみにこれは彼のコンプレックスなので刺激すると殺されかねずかなりデリケートに扱わねばならない――とにかく、彼がコケシを嫌っているのもあるし、という理由付けで、私が穴に率先して入り、硬い地面を掘る役割を買って出て、地面をとにかく堀り、バケツに掘った際に出た土をいっぱいに入れて、地上に居る朱堂くんに渡す。地上側の朱堂くんは、そのバケツを受け取って、穴の横、決まった土の山へ捨に行ってくれる。これを繰り返す。何時間経ったのだろう。スマホを見れば時間確認ができるが、水に塗れるうえ泥まみれになるのは明白なので、朱堂くんの車に置いてきてしまっていた。
上へあげられた土の山は四つにもなり、もはや降り積もる「義務」の山だ。だいぶ腕が疲れてきた。かなりコケシを割ったゆえに、あの啜り泣きは既に大号泣、マックスレベルで耳奥を響き渡り、気分は夜泣きに困るお母ちゃんである。頭はくらくらと頭痛がしてきた。
――まだ全然動けるならば、大丈夫。
私は手をぐっぱっと握られるか確認して、再度シャベルを握る。気合を入れ直す。もうじき、目標の二メートルなのだから。
しかし、悪いことに、雨足が強くなってきていた。
雨はやけに大粒になり、涙のように私達へ打ちひしがれる。雨をこんなに邪魔だと思ったのは初めてだ。私は塗れた頬を同じく濡れている雨具で拭うという無意味なことをして、シャベルをひたすら突き立てる。
――そうして。
掘って、掘って、掘って。
コケシを割って。
続けて。
辺りが薄暗くなり始めた頃――それが、やっと、顔を出した。
――ついに、地表から約二メートル地点。
まるで図ったかのように、区切りのように出土したのは、小さな子供の頭蓋だった。
壊すまでもなく、手に取ろうと地中から引き抜くために力を入れただけで、それはがらりと崩れて割れてしまう。
その瞬間、あれだけうるさかった泣き声はやんだ。
分からない。
何のひとつも分かりはしない。
ただ――物事に、ひとつの区切りがついたのだな、とだけ、なんとなく思った。
「――よし。そろそろ埋めよう。これで良さそうだし――あ、」
ややあって、私は、自分の身長が百六十二センチであることを思い出した。
女性の平均だが、決して高くはない。ゆえに、さすがに二メートルの穴を容易には登れない。
私は手を伸ばして、朱堂くんに助けを求めた。
「朱堂くん。手、貸してくれる?」
打ち付ける雨はより強い。空と周囲の暗さを見るに、もう日の沈みが近いだろう。さっさと済ませて帰るに限る。――だが、しばらく朱堂くんは黙って佇んでいた。咥え煙草の火が明滅してちかちかするのがやけに目立ち、逆に、彼の表情は暗がりで読めない――といったこともなく、私は夜目がきくというくだらない特技があるので、彼の表情がはっきり覗ける。無であった。無表情で、朱堂くんは穴の上から私を見下ろしていた。
遂に雷が鳴る。
それに弾かれたように、まるで緊張の糸が切れでもしたように、朱堂くんは突然動きだして、薄い唇をにたっと爬虫類じみた笑みにかたち作る。
――そして。
私に差し出されたのは、彼の親切な手などではなく、――
◆◆
――畜生。
畜生畜生。
やりやがったな~~。
すこしだけ、気を失っていたらしい。頭から血が流れている。無遠慮に土が被せられている。私は胎児のように丸まって、横目で空を見上げている。雨粒が容赦なく眼球に降りかかってきて目が痛い。雨具越しのかけられた土――水を含みに含んで泥になっているので、泥と形容したほうが良いか――泥の重さに辟易とする。なるほど。私はこうやって死ぬのか、とまるで他人事に思っている。いまいち感傷などがない。嘘みたいだ。まぎれもなく現実で真実なのだから、そんなわけはないのだけれど。
「――あ、起きちゃった?」
やっと気が付いたのか、泥を被せていた殺人鬼、朱堂朱雀が悪戯っぽく笑って言う。起きないほうが楽だったよ。まったくその通りである。
「ボクさ、勝負より勝つのが好きなわけ。だからさ、悪いね」
どこか寂しそうな笑いである。まるで、隙を見せたお前が悪い、と責められているような。だったらひどい話だ。一般的な殺人鬼の私には、この異常な殺人鬼のロジックはまったくよく理解ができない。
どうにか起き上がれないかと試行錯誤してみるが、駄目そうだ。脳震盪か、未だ本調子でなく体がぐったりしている。動こうとしても動けない。私は――
――まあ、諦めるわけだ。
考えるのは先生のことで、ついぞ、先生を超えることはできなかったなとか、やっぱり人を殺している人間に、まともに生きて過ごす感覚を得たいという常人ぶる発想はそもそも人生不適格だからこれは先生のせいではないかもとか、それでも先生は、この結末について、自分を少なからず発端として責めてしまうだろうと、そんなことを呆然自失に考えるのだった。そう。呆然自失に。先生は、理解者が居ない。孤独だと言っていた。天才は孤高であり孤独だ、と。だからこそ、私に同じ境地を求めると言っていた。つまり、残念ながら、先生の孤独を癒す計画は破綻し、また先生はひとりの暗闇に投げ出されることになる。希望の光を失ってより深く暗く。先生はひとりになる。
空が狭い。
べしゃ、と動けない私に、私の顔面に、重く粘質な泥が覆い被さった。
「じゃあねマイナちゃん。結構オトモダチするの楽しかったぜ」
――これは返すよ、と最後に聞こえた。ぽいとふたつ、何か投げ入れられた感覚。
おそらく、先生に貰った煙草とジッポライターだ。なんとなく、私は安心感を得る。
意識が霞む。
空気が取り込めない。
だから――じき、死ぬだろう。
それでいい。実際、案外。死なんて経験してみてこんなものだ。
また、上から泥の重みが降り始める。雨だってひたすら降っている。降りしきっている。その中で、静寂に戻っていたはずの中で――微かな啜り泣きが、復活していた。
泣かれながら埋葬。
まるでお葬式だ。ははは。
心の中で笑いながらも、私は思う。
――
◆◆
知らない天井だ。
――と、なったら都合が良かったのだが、残念ながら私にそんな幸運は無い。あくまで悪魔的な一般殺人鬼の私は、いかにも地獄ですといったような、そんな場所を、いつの間にか歩いていた。
つまり、知らない空だ。
空は灰色で、黒い月が登っていた。
一歩先も見えないほどの暗い道のり。まあ私は困らず夜目がききとってもよく見えるんだけども――辺りは黒い水で膝下あたりまで浸水していて、ざばざばと掻き分けて歩かねばならないのが足取りをより重たくする。そこいらには、真っ赤な彼岸花が生えているのが散見され、そういえばあれって毒花なんだよなとかどうでもいい知識を脳の奥から拾って思い出していた。
私は歩く。
目的地があるわけではない。
だが、先導者が居た。
ぼろの和服を着た、小さな男の子だった。男の子は特に迷いなく、提灯を手に持って、頼りなげな明かりで先を照らしながら先を歩いている。私は彼に見覚えが無いので、手に明かりをもっているから、ついついつられてついて行ってしまったのか。私は虫か何かか?
――などと思いながら。
私は、男の子に声を掛けた。
「ねえ――」
果たしてこの子は地獄の獄卒か刑罰への水先案内人か。確かめようと肩に触れかけたのだが、不意に振り返った男の子の姿に、私はややぎょっとしたので手を止めた。
男の子の頭は、あの、無為で無意味なコケシだらけの穴の下、やっと見つけた、例の小さな頭蓋骨とすげ替わっていたからだ。
――なるほど。
――見覚えはなくとも、顔見知りではあったらしい。
こちらを空虚の眼窩で見上げる男の子は、あの時と違うのが、薄くはあれ、瞳孔の光が灯っているところか。私は大人しく手を引っ込めて (分からないものはまず触れるな。先生の教えである)、
「ここって、どこだか分かる?」
と訊ねた。
頭蓋の頭で発話はできるのかしら、と失礼なことを考えていると、まったく無問題だったらしい。男の子は私から目線を外して、前を向いて、また歩き出しながら、
「――ここは地獄。辺獄と言う人も居るよ」
と、こともなげに返してくれた。
うーん。
なるほど、辺獄。
辺獄とは、リンボとも言う。一応先生にオカルト周り (宗教や民間伝承、神話だってもちろん含む)の知識は叩きこまれているから、どういった場所かはおおよそ知識として得ている。
宗教的に表すなら、洗礼を受けていない人が行く場所。
名称概念的に表すなら、単なる地獄の「端」。つまりは郊外というわけだ。
辺獄では、罪人は特別苦しめられることも無いが、ただあてもなくさ迷い歩く罰を受ける。辺りは確かに粘性すら感じる暗闇が纏わりつき、男の子のように明かりに恵まれるか、私みたいな変な特技 (それも普段は別にこれといって使えない)でも持っていないと、歩き回るのすら厳しいかもしれない。
「――その明かりは?」
「みんながお別れにくれた。みんなはもう塵になった」
「お気の毒に」
原因は私であったが。
しかしそれで、私はそういえば、この子――あの頭蓋については、破壊をしていなかったことを思い出した。
手を掛けていない。
これを言うと言い訳みたいに聞こえるが、文字通り、勝手にあの頭蓋は壊れたのだ。自分の意思かどうかは知らないが――。
――どうしよう。「出土したものは全て壊せ」と言われていたのに、ひとつだけ損ねてしまった。
――先生に怒られる。
既に死んでいるのにそんな心配をしてもどうしようもないのだが――私は咄嗟に、
男の子を手に掛けようとした。
「――お姉ちゃん」
ちょうどその時に、振り返らずに呼ばれてしまい、私はなんとなく手を止めた。しまった気付かれたか。と思ったが、そうではないらしく、歩みを止めないまま、ただ、淡々と、彼は告げる。
「ぼくは、――ぼくたちは大人が嫌い。勝手に生んでおいて殺すから。それか、生まないでおいて殺すから。全部憎いし全部が全部大嫌い。ぼくらの恨みのことも知らないで生きていったのが本当に嫌い。ぼくらのことを見てくれなかったのが嫌い。ぼくらを見て笑ってくれなかったのが嫌い。ぼくらと笑ってくれなかったのが嫌い。ぼくらと泣いてもくれなかったのが嫌い。ぼくらを捨てていったのが嫌い。嫌いで嫌いで大嫌い――」
そんなのって、ただの大好きじゃないか。
子供は分からない。
私が呆れていると、男の子は、――また足を止めて、今度は振り返らずに、私に言った。
「
突如として、背後に引っ張られるように、私の意識は空間よりも深い暗闇に放り投げられた。
◆◆
誰かが泣いている。
私は不愉快になる。不愉快でどうしようもなくて、その原因に齧りつきたくなる。うるさい。騒がしい。雑音だ。苛々する。
――
「どうして泣いているんだい?――お腹の子が不安になった?大丈夫、元気に生まれてくるさ」
落ち着いた、暖かく低い男性の声がする。聞き覚えはきっとない。私の脳が危険信号を発していた。これ以上ここに居てはいけない気がした。これ以上、この会話を聞くのはまずいと頭が拒否していた。それなのに、いくら耳を塞いでもその声たちは私へ向かって、どこかから降ってくる。私を苛む。
――泣くのをやめろ。
私は咄嗟に愛用の飛び出しナイフの存在を探した。だが、身の回りにそれらしい感触はない。いつもの場所にも無い。どこかに落としたか。あれさえあれば今にでもずたずたに切り裂いてくれるのに。かつての私の両親のように。んん?
「――違うの」
ややあって、啜り泣く女性の声は、言葉らしきものを紡ぎ出した。
その瞬間、その後の台詞を、冷え切った脳は急停止でもかけたのか、私は一定の起伏を描く音の信号としてしか認識できなかったためよく分からないのだが、本当に音としてしかよく分からないのだが、――その音を、歌のように再現することはもちろん可能であり、つまり、私はその言葉を一言一句知っているし覚えているしつまりこれはなんてことはない、想起されただけの一節だ。ただ、意味が分からないのである。外国語のように理解ができない。この言葉の意味を知っている方がいるならどうぞ教えて欲しいくらいだ。だから、こうして音を再現させておく。深い意味などない。ただそれだけで。
それは柔らかい女性の声で、このような一節をしていた。
「――
◆◆
……。
…………。
知らない天井だ……。
めちゃくちゃ生きていた。復活してしまった。たぶん地獄から舞い戻ってしまった。
おおよその事態の察しはついて、私は体を起こす。白い天井、白いカーテン。そして管まみれの体。がんがんに酸素を送ってくる酸素マスク。指にはオキシメーター。(血中酸素濃度を測るやつだ、喘息が出たとき計ったことがある)。頭はまだ重く、包帯が厳重に巻かれていた。額、割れたんじゃないだろうか。たぶん縫ったと思う。まあ問題は失った血液の方だ。とはいえ大量輸血は既に済んだだろうし、私に現在ついているのはおそらく鎮痛剤と栄養剤くらいではなかろうか。それでも点滴というのはまどろっこしい。私が嘆息していると、看護士さんが三人体勢で室内に飛び込んできた。どうも、胸に貼られているバイタル測定器の電極に触れてしまったようだ。あれはうっかり素手で触るとエラー音が鳴るのである。私が申し訳なさそうに会釈していると、寝ていてくださいと怒られてしまった。
「すぐ、ご家族にご連絡しますね」
家族いないですけど。
まあ、そんな野暮なことは看護士さんに言うまい。私は三日、昏睡していたらしい。おそらく今回の入院 (というか搬送というか)にあたり手を回し緊急連絡先となってくれたのは、間違いなく先生だろう。いやあ助かった。助かりついでにこれ、労災認定してくれないだろうか。駄目だろうか。駄目か。私はさすがに自身の中の辞書にある「自業自得」という単語を、わりと現時点で大恩を受けてしまった先生に丸無視してはねつけるまではできないのであった。
ややあって、数十分後。
予想通りか、連絡を受け、先生がやってきてくれた。
カーテンを開け入ってきた先生に、 (部屋にドアは無い。ICUは基本看護士さんが常駐でひとりようすを見ているので、カーテン仕切りである)、とりあえず、私達は、互いに無言で見つめ合ってしまう。
……やば。
……どうしよう。そういえば、様々なルール違反をしたような気がするので、私は怒られる立場にいるのだった。
どれから謝罪したものかと迷っていると、意外にもなんともなさそうに口火を切ったのは、先生の方だった。
「とりあえず、生きていてよかった」
と、言って。
はー、と長く嘆息して、パイプ椅子を横から引っ張り出し、先生はベッド横あたりになだれるように座り込む。
「すみません。貴方が全然まだまだ幼いひよっこだということを失念していました――ちょっとでも成長があると考えた僕が馬鹿でした。こんなことになるなんて――僕の責任です」
「それなりに師事してきた生徒に対して、あんまりにも認識ひどくないですか?」
ぐうの音も出ない正論だが。
先生からせっかく貰った初のひとり依頼を勝手に台無しにしたのは私だし、見事に失敗してみせたのも私だし、要するに私のひとり芝居的自滅である。これからは、もうちょっと思慮深く生きてゆきたい。明日には忘れそうだけども。
――そういえば。
「そういえば、先生――どうやって、私のやらかしを知ったんです?」
先生はこともなげに、ああ、と返した。
「煙草ですよ。――以前渡した煙草。あれに実は、仕掛けをしてまして。双水晶の呪術の応用なんですけどね」
ちなみに、双水晶の呪術は、出自を同じとする鉱物を二つ用意し、それらを誤差なく同じ大きさの水晶玉に磨き上げ、弱い防護魔術を同時に付与する。というものである。こうしてできた双水晶は、どんなに離れようとも一方が割れたとき、もう一方も同時に割れる。つまり、相手の危機を即座に知らせるのに役立つわけだ。
って、ことは?
「いや~、驚きましたよ。煙草が急に黒ずんでひしゃげるんですもん。慌てて通報して、地元警察に直行してもらいました」
群馬県警の方、あんな雨の中、お疲れ様です。すみません。犯人は知っています。あとできつく言っておきます。
先生が聞いたところによると、警察が到着し、先生の言う通り不審な穴を確認してみると――というか、朱堂くんは穴をすべて埋めず、面倒くさがっていくらか土をかけたあと、途中放棄し逃げたらしい――結果、先生の通報で警察は雨のなか穴を掘ることになり、思うより迅速に、泥水で溺死しかけている私を発見したとのこと。
当然、緊急搬送である。
呼吸は既に止まっており、結構後遺症が危ないくらいのギリギリまで時間経過していたようだ。搬送中、心臓も一時は止まったみたいだった。まあ無事再稼働したために私はここに居るが。
「はあ、ほんとに――生きていて、よかった」
何度もそう言って脱力する先生は、なんだかおかしい。おかしいので笑ってしまう。いやあ。あはは。
それなら私だって言わせてもらえば、先生だって今回、生徒にやらせるべきケリを結局ひとつもつけさせてやしないし、後始末はご覧の通り世話を見ているし、そもそも生徒に「失敗したときの保険」をつけてあげている時点で甘い。甘すぎる。その点において先生は決定的に向いていないし最終的にも向いていなかった。人を育てる器じゃない。ひどい言い草だろうか。でも他に形容しようがない事実である。ともかく、私が言いたいのは、私の「はじめてのおつかい」にあたりどれだけ心を砕いていたかということ、私の覚醒を聞いてすぐ駆けつけてきてくれたこと、心配とか。気苦労とか。そういったやわらかく、軟弱で弱いもの。だから私は、こうして彼を結論付けるしかない。
――先生らしくないひとだ。