「おいおい……折角格好良く宣言したと思ったらそれか?」
「……普通にビビったんです、惨めになるんであんま話題にしないでください」
女性の声の言う通りだった。覚悟を決めて一歩を踏み出したのに歩き始める前に転ぶなんて幸先が悪すぎる。
スタッと、転んだクロエの前に降り立つ人物がいた。クロエが顔を上げれば、その人は納戸色の髪をポニーテールに結った人で、背中に弓矢と矢筒を背負っている。着ている服はどこかの部族の民族衣装なのか、ワンピースの型に奇怪な模様が刺繍されたものだった。なにより特徴的だったのは、彼女の耳である。所詮エルフ耳というのだろうか、横に長く先端が尖っている。
「いつまでそうして地べたに這いつくばっているつもりだ? 起きろ、生きるんだろう?」
「あ、はい。起きます……」
のろのろと起き上がったクロエを「遅い」と女性は叱咤する。体育会系のノリだなぁとクロエは既に遠い目である。というかこの『遅い』、さっき兵士達に散々言われたためもう聞きたくない。
「私はリオン。お前は?」
「クロエです。リオンさんは、えっと、エルフ……?」
「なんだ、エルフ族を見るのは初めてか?」
「なにせ田舎者でして……種族を尋ねるのは失礼に当たりますかね? あ、ボク人間です。……この場合人間族って言うんですかね? とにかく、気に触ったらごめんなさい」
「そうだな、訊かれて気分を害する奴もいるし気にしない奴もいる」
「つまり必要に迫られてなければ尋ねない方が吉ですね、把握しました」
また一つ知識が増えた。にしてもエルフ、本当にいるんだな。異世界という雰囲気がさらに高まったことに、クロエはため息が出てしまいそうだった。
「しかし……お前本当に人間か?」
「……? と言いますと?」
「お前の魔法は我々の常識から逸脱している。とても普通の人間とは思えない。お前が我々のように特殊な種族であるのなら、その理由も明白なのだが……少なくとも私は、犬を魔法で召喚する種族を知らない」
なるほど、普通ならありえないことをしているから、人間族であるかを疑われているということか。理解してクロエは相槌を打った。これは、変に誤解される前に詳しく説明しておいた方が良いだろうとクロエは己の掌をリオンに見せる。もしかしたら彼女が答えを知っているかもしれない。
「ボクも実の所はよくは分かってないんだ。死ぬ前の気休めに文字を書いたら、その通り犬が出て来て、ボクを守ってくれた。でもボクは本当にただの一般人で、平々凡々って言葉が似合う男なんです」
見せられた掌に、リオンは僅かに眉を顰める。
「……どうしたの?」
「……これは、なんと書いてあるんだ? 私には記号にしか見えん」
「あっ……」
なるほどたしかにここは異世界。言うなら海外だ。漢字は公用語では無い。外国人が『格好良いから』と“抹茶”などの漢字をタトゥーとして入れてしまうように、彼女にとってはこれはただの記号なのだろう。
「これは、ボクの故郷の文字で、“犬”って書いてあるんだ」
「お前の故郷では、この記号が魔法陣のような役割を果たして魔法を使っているのか?」
「……わかんないっス」
しゅんとクロエは小さくなった。だって本当に分からない。分かることはまだ血文字は薄く発光していて、犬はリオン相手にグルルルと警戒しているということだけだ。そんな犬の鼻先を撫でて宥めながら、そうだ! とクロエは大切なことを思い出す。
「浜辺に兵士が沢山いて流刑人を惨殺してる! ここに居たら巻き込まれるかもしれない! リオンも早く逃げた方がいい!」
「ああ、知っている」
「そうなんだよ! だから……——え、知ってる……?」
思わぬ返答に目をぱちくりと瞬かせれば、リオンは「着いてこい」とこちらに背を向け歩き出した。
「腹が減っているだろう。食料を分けてやる」
「あの、知ってるってどうして……」
「
「……」
目の前が、ずーんと暗くなったような気がした。あの処刑は、この島に暮らす者達にとって当たり前のことなのだと。そしてクロエ以外に助かった人間はいなかったという事実。全てがクロエの気分を重くさせた。
「あんなに居たのに……ボクだけ、なんて……」
「仕方が無いんだ。流刑人があまりにも多く送られてくるせいで人口が増えた結果、食料品や生活必需品が島民に行き渡らなくなった。犯罪も横行し治安も低下した。そうなったらもう、流刑人を根絶やしにして民を守るしか手段が無い」
「流刑人の中には、貴族の気まぐれで罪人になった人だっていた。ボクみたいに貴族の言う通りにしなかったからっていうくだらない理由でここに送られた人だって。そんな人達も、例外無く、理由も訊かれず殺されるのが『仕方ない』の……?」
「そうしなければ、どの道この島は領地として成り立たなくなる。仕方の無いことなんだ」
仕方の無いこと。まるで家畜を屠殺するように片付けられる。
仕方の無いこと、きっとその通りなのだろう。この島の人間だって犯罪者との共同生活に怯えながら暮らすのは御免ななはずだ。
「来い、クロエ。生きるんだろう、私の家に案内してやる。暫くはそこで暮らせばいい。立ち止まっていたら何もできやしない」
リオンがクロエをそう提案し、叱咤する。クロエを元気づけようとしてくれているのだろう。彼女の優しさだ。それは分かる。痛いほどに理解出来る。だがクロエは一歩も足が踏み出せそうに無かった。吐き気がした。
生きなくてはならない。生きると決めたのだ、覚悟したのだ。こんなもので揺らぐならそれは覚悟とは言えない。だが身体が言うことを聞かない。
気付けばクロエの身体は地面に伏していた。リオンが「クロエ!!」と慌ててこちらに駆け寄ってくる音が聞こえる。しかし上手く反応できない。
鞭で打たれ皮膚が裂けた腕が痛い。目眩がする、きっと貧血だ。嗚呼、恐ろしい。どうしてこんなに恐ろしいのか分からない。一つ分かることは、遠くで悲しそうな犬の遠吠えが聞こえたことだけだった。