次はクロエの番だった。兵士達は死体を山にした場所へと片付けるために引き摺っていく。なるほど、ここを“ゴミ捨て場”と言ったあの男の言葉の意味がわかった。自国で殺すと面倒くさいから“流刑”という形をとって、流刑先で殺すのだなと。死体はきっと砂浜にいるレイフ島の兵士が片付ける。本国の兵士は運ぶだけでいい。なんて簡単なお仕事なんでしょうか。嗚呼、吐き気がする。
「あまりにも人の心が無い」
嘔吐いたクロエは背中を押され、踏ん張る力も無く簡単に砂浜に落とされた。驚くほどに呆気無い。剣を持った兵士が向かってくるのが振動で分かる。
仰向けになり空を見上げたクロエは、血で濡れた指先で掌に“人”と書いた。だが間違えて、掌の文字は“犬”になっていた。
「間違えた“犬”じゃないや、“人”だ。あれ、犬でもいいんだっけ? 諸説あるんだっけ? まぁいいや、あ、飲み込まなきゃ。飲み込むって昔から思ってたけどどうやんの? あーぁ……」
ぺらぺらと多弁になる。最早現実逃避だった。だってこんなのありえない。クロエは目撃してしまったのだ。船旅をあれだけ楽しくお喋りしたあの男の人も、悲惨にも首を切り落とされて兵士に殺されてしまったところを。人生で初めて身近に感じる死に、抗える気力が無かった。否、死んだと言えば電車に轢かれて死んだのだがあの時は一瞬だったから痛みも何も無かった。兎に角腹が減った。
それでも、あの国でペレ伯爵の男妾になって好きでもない男に股を開くよりは余っ程妹に誇れる死のはずだ。クロエは砂浜に寝転がり目を閉じる。
ふと、掌が光った。「うわ眩しっ」とクロエは声を出した。砂浜にいる邏卒兵達の進軍が止まらない。だが、その剣がクロエに振るわれる時が一向に訪れない。
何故だ、クロエは恐る恐る目を開ける。するとそこには驚くべき光景が広がっていた。
そこには狼王ロボやもののけ姫の山犬のように、巨体を持った犬の姿があった。その巨躯の犬が、クロエを殺そうとする邏卒兵を片っ端から噛み殺して行っている。
「嘘じゃん……」
呆然としたクロエだが、その犬が明らかにクロエを守るように行動しているのを見た。そしてクロエの掌からは血文字の“犬”が薄く発光している。
まさか、まさか。まさか“犬”と書いた文字が具現化したとでも言うのだろうか。いや、今はそうかどうかなんてどうだっていい。今地獄であるこの場所で、クロエの目の前に、蜘蛛の糸が垂らされたのだ。ならばクロエはこの蜘蛛の糸にしがみつくしかない。
クロエは暴れ回っている犬の毛にしがみつくと、なんとか背中によじ登る。
「ボクをここから逃がして!!」
久しぶりに大声を出すから喉が枯れて裏声になっていた。それでも構わず「お願い!!」と懇願する。巨躯の犬は応えるように遠吠えを上げるとクロエを背に乗せて浜から森の方へと走り出した。
あとはもう無我夢中だった。犬の背中は大きくて、跨るのは足の長さが足りない。動き続ける犬の背中からはすぐにずり落ちてしまって、しかしここで落ちたら死ぬと本能でわかっているから落ちるわけにはいかない。一歩犬が走る度にずり落ちそうになって必死に毛を掴む。きっと毛を引っ張られて痛かっただろうがそれを慮ってやる余裕も無かった。
そうしてどれほど走っただろうか。犬が走るのをやめた時には、すっかり辺りは樹海といった風景で、あの殺戮の喧騒は遥か遠く消え去っていた。
自分は生き延びたのか? クロエは自問する。
きっと生き延びたのだ。クロエは自答した。
だかあの人は死んでしまった。頭からあの船で言葉を交わした彼の死に様がこびり付いて離れない。
この犬がもっと早く来てくれていたら、あるいはあの男も助けられかもしれない。なんて、願うのは傲慢というものだろうか。
にしてもどうしてこの犬は自分を助けてくれたのだろうか。クロエは掌を見る。本当に文字を書いたから犬が現れたとでも言うのだろうか。そんな手品みたいなこと、あるのだろうか。
だがそこでクロエははたと思い出す。この世界には“魔法”と呼ばれる神秘があるのだということを。ここは神秘に満ちた魔法の世界で、領主制度で社会秩序を維持しており、奇妙な種族や生物が存在するのだということを。ならばこの犬も、魔法で呼び出したと言うことがあったって不思議じゃないかもしれない。しかし、魔法か。
「ボクが魔法使いとか、そんなミラクルなことあるんだ……平々凡々なサラリーマンが、魔法使いにねぇ……」
クロエはまだ半信半疑だった。事実は小説よりも奇なりとでも言いたいのだろうか。
「とりあえずワンちゃん、助けてくれてありがとう」
背中から降り、恐る恐る頭を撫でてみれば、案外懐っこい性格なのか自ら手に擦り寄ってきた。一頻りなでなでと感謝を伝え、さてこれからどうしようと森を見渡す。
生憎クロエにサバイバルの知識など無い。キャンプも行ったことがない。
「目下の目標としては、腹が減った。喉が渇いた。寝る場所。これからどうするか。……一つずつ解決していくか……」
指折り数えて、思わずため息が出る。
しかし、やることは出来る。生きることは出来るはずだ。見渡せば、森の中には様々な木の実などがある。それらを食べれば腹立って膨れるかもしれない。食べたことは無いが芋虫だって食べれるんだからきっと大丈夫。最悪昆虫食を初めればいい。問題は勇気と覚悟だけ。
生き延びる覚悟、それが大切。
「せっかく生き延びられたんだ、覚悟を決めろボク!」
クロエはパンッ! と両の頬を叩くと、生き延びる覚悟を決め、一歩を踏み出した。
「——へぇ、なよなよしてるかと思ったら随分見上げた根性じゃないか」
そして突如掛けられたその声に驚いて、濡れた地面の葉っぱも相俟ってずべしゃっと派手に転倒するのであった。