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第3話

 徴兵制度によって兵役に伏することになった少年等はまず最初に名前と生まれを確認された。そこで既にクロエとして生きる覚悟を決めていた圭作も「クロエです」と自分の名を告げたのだ。

「あー、あんたが例のね」

「……? 例のって?」

「あぁ、言わないほうが良かったか? とりあえず、あんたはこっち」

 そして何故か、帳簿にチェックを入れている体育教師みたいな兵士によって、他の少年等とは違う場所に連れて行かれたのがまず最初の歯車の狂いだった。

 連れて行かれたのはそれこそ小説の挿絵で見るような貴族の屋敷で、その一室でクロエは体育教師みたいな兵士から数学教師みたいな屋敷兵に案内を変わられた。その兵士に連れられて屋敷の中を進み、ある一室に辿り着いた時「伯爵様がいらっしゃるのをここで大人しく待つように」と命じられた時点で逃げればよかった。だって、徴兵で来た兵士に告げるにはあまりに不自然な内容だし不思議な出来事だ。オマケに連れてこられた部屋は誰かの寝室のようで、居心地が悪い。

「何故ボクだけこの屋敷に連れてこられたんですか?」

 クロエの身体になってから一人称がすっかり“ボク”になった圭作は、クロエの見張りらしき屋敷兵に尋ねる。屋敷兵は気の毒そうに「……伯爵様が来ればわかることだ」と言葉を濁した。

 それからやって来たペレ伯爵は、なんといえばいいのか、成金の感じのする厭な人だった。安直にあだ名をつけるなら“小豚オジ”。彼はクロエが部屋にいるのを確認するとすぐに「来い!」と命じ、クロエがえぇ……? と戸惑いながら男の方へと歩いていくと「遅い!」と怒鳴る。そしてクロエの頭からつま先を見てみっともなく目尻を下げると「今日からお前は吾輩のものだ」と告げた。

「……え? 違いますよ?」

 クロエのそんな返答はあまりにも滑稽だっただろう。だが照れてるだけと思われたらしく、深く咎められることは無かった。

 そこからのペレ伯爵の言葉を要約するなら、以前都市部に出稼ぎに来ていたクロエを偶然目撃し、他の労働者の中で美しい汗を流してあくせく働くクロエの姿に一目惚れ。見惚れているとクロエは戸惑いながらも仕事を頼まれていると思ったらしくペレ伯爵の靴を磨いたらしい。献身的なその姿に庇護欲が爆発し、徴兵のこの機会にクロエを男妾として屋敷に迎えると決めたのだと彼は話す。昨日に伝えの男が行っただろう? と言われ、クロエの自殺の理由が漸く判明した。この男から逃げるために、受肉前のクロエは自殺を敢行したのだ。

 クロエは抱きしめられ、キスを迫られた。少しぽっこりとお腹の出た、あまり美人とも言えないオッサンからのガチキス。かつての先輩にレイプされかけた時のことが脳裏にフラッシュバックした。ハァハァと熱を帯びた汚らしい吐息、ヒキガエルのような手、その全てにぞわりと鳥肌が立ち、意識は困惑から自己防衛にスイッチが切り替わる。もうお分かりだろうか。その日圭作はクロエの身体になってから初めて本気で人を殴った。しかもその場にあった花瓶を使って容赦無く殴った。何度も、何度も、この穢らしいものが動かなくなるようにするために何度も。喚いていたから上乗りになって殴りもした。はたと気付い時には、クロエは何人もの兵士に取り押さえられていて、ペレ伯爵は鼻血を流していた。ちなみに後日の法廷では目や頬が青黒く腫れていた。

 それから形だけで中身の無い裁判が行われ、傍聴人も弁護士も居ないままの法廷で流刑に処されることが決まり、丁度出航日だったこの船に乗せられた。船に乗せられるまで、ペレ伯爵の“慈悲”で荷馬車で運ばれることになった。彼は今から運ばれるクロエの前に青痣だらけの顔で現れ、「意見を変えるなら今だぞ」と告げる。「今ならまだ、吾輩の寛大な心で許してやろう」と。だがクロエは、男妾になるなど真っ平だったため断った。端的に、それでいて分かりやすく、「お断りします」と。

 そしてここにいる。

 現状を後悔していないと言えば嘘になる。こんなスーパーの特売袋詰めのようにギチギチに詰められて息苦しくて、これからの未来のことも何一つわかりゃしない状態。明日には衰弱と飢餓で死んでいるかもしれない、そんな現状。

 だが、あんな男に媚びへつらい生きていくぐらいなら死んだ方がマシだと思った。ペレ伯爵の青痣の出来具合からしても、クロエの本能はあの男を全力で拒否していた。あの男とセックスすると爪先だけでも考えるだけでゾッとして嘔吐いえしまう。ならば今の自分の選択は間違っていない。クロエは心の中で再三その言葉を繰り返した。そうやって自分を前向きにさせようとしていた。

「にしたって……狭いなぁ……」

 本当にギチギチである。高校の文化祭の時の廊下を思い出す。あの明らかに許容量を超えている人の往来。もっとも、ここは往来ではないが。やはり通勤ラッシュ時の満員電車か。しかし満員電車は皆が立っているかがここでは無理矢理寝ている者も居て面積の取られ方が違う。東京のスクランブル交差点だって人が溢れんばかりにいるように見えて、もっと人と人の距離が空いている。一般的に日本人のパーソナルスペースは広いのだ。なのにここでは一分の隙も無い。正直言うとそれだけでもうしんどい。

 オマケに、体育座りしたクロエの脛の辺りに背中を預けて寝ている老人のカヒューカヒューという今にも死にそうな呼吸が心臓に悪い。ただの寝息にしては死にかけている雰囲気が強い。なんとか助けてやりたいが、今のクロエはあまりにも無力だった。

「すみませーん。誰か、いませんかー?」

 クロエは部屋の唯一の扉に向けて、そう声をかけてみた。これは数時間に一回、思い出したように行っている行為だった。飲まず食わずで今日まで来て、そろそろ空腹が限界だった。なにより足元の老人が死にそうだ。せめて彼に水だけでもあげてほしい。欲を言うなら自分にも水を。もっと欲を言うなら食べ物も是非に。

「無駄だ、諦めろ」

 クロエのあげた声に、クロエの斜め向かいの壁に寄り掛かり座る男がキツイ声で答える。

「あいつ等が食料を運んでくることなんて無い、絶対に」

「わからないじゃないっスか。もしかしたらラッキーでくれるかも」

「とことん脳天気な奴だなお前は。これから死んでやる奴等に飯を与えてやるほど、あいつ等だって潤って無ぇんだよ」

「ボク達って死ぬんですか? お恥ずかしながらそもそも刑罰のシステムがよくわかってなくて……流刑地で労働に従事させるためにボク達を運んでるんじゃないんですか? ただ殺すだけならこんな船に乗せてわざわざ運ぶ必要が無い……だってそっちの方か時間の無駄じゃないですか。法廷で判決後に剣で首を切り落とせば済む話だろうに」

「……お前さん、本当に何もわかってないんだな」

「何せ田舎者でして」

 実際“クロエ”の記憶にも刑罰についての詳細な情報は無い。ただ『恐ろしいこと』という漠然としたイメージだけだった。

「ボク、クロエって言います。お兄さん名前は?」

「……知らない奴に名乗る名前は無ぇよ。お前さん、何してここにぶち込まれた」

「ペレ伯爵の男妾になることを断ったら流刑にされました」

「ぶはっ! あの豚伯爵の男妾に! そりゃあお前、断って正解だな」

「でしょ〜?」

 ニコニコとクロエが愛想良く振る舞えば、男は僅かに饒舌になった。きっとこの息苦しい場所で、“他者と会話する”という行為は男にとっても精神衛生上良いものだったのだろう。勿論クロエにとってもそうだった。


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