ギーコギーコと、木材の軋む音が鼓膜を揺らす。その音は最初聞いたとき本当に不快で耳を塞いでいたが、もう何日も聞き続けたら慣れてしまった。たしかガレオン船とか言う帆船の中、おそらく船底のほうにあるのだろう部屋に敷き詰められた人々は皆疲れきっていて、床に押し合い圧し合い寝転がっていた。そんな船の中で、部屋の隅に体を丸めるようにして座ったクロエは、両手首と両手首を手錠のように縛られた両腕で時々モゾモゾと動き伸びをする。身に降りかかったことがないのが実感や危機感は薄いうえに聞きかじりの知識でしか知らないが、エコノミー症候群を防ぐためだった。
いい加減、身体が痛い。揺れる環境に慣れていないからここ数日の眠りも浅く、常に脳と眼球に眠気がまとわりついている。眠ってしまいたい、出来れば泥のように。欲は言わない地面でいいから、両手両足を伸ばして眠りたい。そんなクロエの我儘は、きっとこの部屋に集う囚人が皆思っていることだろう。
そう、囚人。クロエ達は皆同じ理由でこの船に乗っている。それは、罪を犯した“罪人”ということであり、流刑に処された流刑人であるということ。
これからクロエ達は“レイフ島”と呼ばれる島に連れて行かれるらしい。しかしそこから先は説明されていない。その島で刑期を終えるまで刑務作業に従事するのか、それとも島に放置されて死ぬまでその島で暮らすのか。きっと後者だろうなとクロエは考えていた。それもこれも全ては、ペレ伯爵の誘いを断ったから。
少し昔を振り返ろう。だいぶ昔まで振り返ろう。
過去、クロエは日本という島国のサラリーマンだった。あくせく毎日社会の歯車として働きながら起きては出社し帰社しては眠ってを繰り返し物価高に小言をこぼすような、そんな一般的な社会人。両親との仲は良くもないが悪くも無い、妹は誘拐事件に巻き込まれ他界、その際心を病んだ母の介護に父は忙しく昔から放置気味に育ったから両親に恩を感じておらず仕送りも必要最低限の一人暮らし。父親の許可を得て持ち出した妹の仏壇の前に必ず手を合わせるのが日課で、小説を読むことが趣味な、一言で言えばつまらない男だった。そんな自分の周りからの評価は“良い奴”。それは、常に“良い”と思われる行動を積極的に行ってきたから。人が嫌がる仕事でも引き受けた、ババを引かされても報復など考えない。そんな“良い奴”だった。
しかし、“善人で在る”行動が、必ずしも“最善”とは限らない。自分が“正しい”と思った行動を起こしても、“最も良い”結果が返ってくるとは限らないのだ。
「あーつっっっっかれた……」
自動販売機でモンスターエナジーを購入して、ガゴッっという自動販売機独特の落下音を聞きながら、クロエの転生前の社会人
圭作の人生は思い返せば苦々しいものである。
小学生時代、最愛の妹が幼児性愛者に殺された。そこから“善人で在ろう”と心掛け始めて、いい子ちゃんぶってると周囲に毛嫌いされた。
中学時代、いじめを止めるよう進言したら次の日から圭作がいじめのターゲットになって前のターゲットの少年は見て見ぬふり。
高校時代、親友と同じ女の子を好きになり、自分より親友の方が女の子と気が合いそうだったからお膳立てしたら仲が深まって学生時代から日々仲を深め先日結婚した。結婚式の親友代表スピーチは圭作が読んだ。ちなみに圭作は彼女無しイコール年齢というやつである。
親友と女の子が恋人として上手くいって寂しかった時に慰めてくれた男の先輩は、ある日母親が入院したと言って落ち込んでいたから家を訪ねて手料理を振舞ってやったらそのまま何故か『お前のことが好きだったんだ』という告白から非合意セックスの流れになり半裸のまま逃げ出して大泣きした。以降その先輩はストーカーとなって親も教師も警察も頼れないから本当に対処が大変だった。最終的に圭作が包丁で刺されて傷害事件となりやっと警察が重い腰を上げてくれて接近禁止命令が出てその件は解決したが、未だに諸々の対応に納得がいっていない。にしても圭作の人生は女にはモテなくても男にはモテたのだから不思議だ、嗚呼ムカつく。
それでも、圭作は“正しい”と思う行動を続けた。己の行動を恥じたくないから。己が恥じるべき人間になりたくないから。
「にしたって、一ヶ月連続残業はキツイって……」
事の発端は至極単純。同期である男が、課長から滅茶苦茶嫌われている。そのせいで仕事を大量に押し付けられている。だがその同期君は月齢3ヶ月の子供いる。ちなみに育児休暇を申請したら課長に突っぱねられていた。育児休暇を取らせてやってくださいと圭作が頭を下げたら、『なら代わりにお前が仕事をしろ』と同期の男の仕事が圭作に流れてくるようになった。だがそれを拒否しなかったのは圭作の意地だ。同期には早く帰らせてやりたいし、仕事をやり切って課長を見返してやりたい。なによりここで逃げたら自分の行動が恥になると思った。もう二度と、妹に顔向けできないような行動は取りたくないと強く思った。
「でもやっぱ一ヶ月連続残業はキツイって……!」
モンスターエナジーを一気に飲み干して、空き缶をゴミ箱に投げ入れて言葉を繰り返す。さすがに身体に疲労感が溜まって仕方無い。圭作も今年で25歳、若い頃のように元気いっぱい徹夜余裕なんて身体では無いのである。
投げ入れたはずの空き缶が、ゴミ箱に入らなかった。カランカランとコンクリートで出来たホームに転がった空き缶を確認してからゴミ箱の投入口の筒を見れば、他の誰かが“空き缶を入れるため”のその筒の中に紙ジュースのパックを無理矢理ねじ込んでいて中が詰まっていたらしい。そりゃ入る物も入らない。
仕方無く持ち帰って捨てることにする。ホームに転がった空き缶を拾うこの時の惨めさとはかくも虚しく、口にするのもおぞましい。早く終電間近の電車に乗ってしまおうと、電車の列に並ぶために振り返る。
その時、
「デケェ腹しやがって! 邪魔だなァ妊婦様はよォ!!」
ホームによく響く男の声が轟いた。驚いてそちらを見れば、周囲の人間も同じようにそうしていた。見れば妊婦の女性に中年の男性が絡んでいる。中年男は酔っ払いのようで、顔が赤いし理性が効いているように思えない。妊婦の女性は具合が悪いのか男に反論も出来ていない。
周囲の人間の視線が、またバラバラと各自の行動に戻っていく。ホームで怒鳴り声を上げている人が居ても、“他人事”。妊婦の顔が青ざめていって背中を丸めて必死に謝っていても“他人事”。見て見ぬふりとはなんと簡単なことか。そう、簡単なのだ。
圭作は酔っ払いと妊婦から目を離せなかった。身体が硬直していた。疲れた身体、面倒事に巻き込まれたくないという自己愛、そもそも“他人事”、周囲の人間は見て見ぬふり。だがやがて、「あぁもう」と呟いた圭作は交通系パスポートで天然水を二本買うとガゴンッガゴンッと連続で吐き出されたペットボトルを引っ掴んで、慌てて二人に駆け寄った。