「ついに始まったか……!」
出陣を告げる一発のピストルの音が、開け放たれた窓から部屋の中に響いた。
西の大陸のシレオン王国、その沿岸部に建てられた海軍基地にて、今し方帆を広げ出立したガレオン船の群れを見送ったペレ伯爵はニヤリと口角を上げた。
あのガレオン船はペレ伯爵の指揮する戦列艦隊であり、二列の砲列に六門の大砲を乗せた最新鋭の戦列艦である。その向かう先はレイフ島と呼ばれる小島。国王から領地を任されたペレ伯爵によって流刑地として選ばれていた島であった。表向きにはその流刑人達の一斉殲滅による治安維持が目的となっている今回の出陣、しかし真の目的はレイフ島への警告とペレ伯爵の地位の向上。
レイフ島は近年、目覚ましい発展を遂げていた。その最先端の技術力は西の大陸のどの国よりも優れていると噂されほどである。それが、シレオンの貴族達は気に入らない。元々ゴミ捨て場のように扱っていたその島が日の目を浴びるなど、ましてや自分達よりも卓越した技術を持つことなどあってはならないことなのだ。そしてその貴族の中には、当然ペレ伯爵も含まれていた。夜会で挨拶をした貴族にレイフ島のことで嫌味を言われることもあった。影では『小島一つ管理できないなんて、伯爵家の名が泣いている』と嘲笑されているのを知っている。そのたびに燃えるような怒りに襲われて地団駄を踏んだものだ。
なのでここで暗に『図に乗るな』と釘を刺し、平伏させたついでに島の中で発展したその超技術もペレ伯爵が独占して得ようという一挙両得の軍事作戦である。この戦いで功を上げられたのならば、ペレ伯爵は貴族としてだけでなく軍人として強い権威を得られるだろう。
小島を一つ
そんなペレ伯爵の下賎な下心を存分に孕みながらも始まった侵略作戦。戦列艦は既に第一陣、第二陣、第三陣と港を出航した。普通は二日掛かるレイフ島への航海も、この船ならば一日と掛からずに行える。あとはペレ伯爵は、望遠レンズで海上の戦いの
「ふふっ、アレクセルめ……! 貴様なんぞが欲をかくからこうなるのだ……! ゴミ捨て場の人間は大人しくゴミとして一生を終えておれば、吾輩からの侵略に怯えることも無かっただろうに……!」
傍観中の間食として用意させたぶどうを一粒食べながら、ペレはレイフ島の領主である男を嗤う。
「——ご心配には及びませんよ。アレクセルさんが怯えることも、レイフ島が侵略されることも有り得ませんから」
その時、部屋に若い男の声が響いた。驚いたペレ伯爵は食べていたぶどうの種を喉に詰まらせてゴホゴホと咳をする。呼吸を整えながら声のした方を見れば、麻布のローブを被った二人組が、いつの間にか部屋の中の姿見の前に立っていた。その鏡に浮かんでいた“転移”という(ruby:記号:・・)がじんわりとインクに溶けるように消えると共に、二人組のうちの背の低い方が「お久しぶりです、ペレ伯爵」と露出した口元だけで笑う。
「なっ、何者だ!」
「やだなぁ、もうボクのこと忘れちゃったんですか? それとも元々、最初からボクにあんまり興味なんてなかったんですかね。妾にしようとしたぐらい、ボクにぞっこんだったのに」
少年——青年だろうか——は肩を竦めると、勿体ぶったようにフードを取る。そしてフードの中に窮屈にしまわれていた髪をふわりとフードから出すとちょいちょいと小指で前髪を整えた。
腰で切り揃えられた濡れ羽色の髪、満月のような金色の瞳、こちらを誘うような垂れ目と長い睫毛、男とは思えない白い肌と痩せた腕。
「おぉ」と思わず声が漏れた。声でこそ気付かなかったが、その顔を忘れるわけがなかった。甘えるような困り眉も、白い肌に目立つ薔薇色の唇も、全てがペレ伯爵の心を掴んで離さなかった。そしてそれは、今も一緒。
「クロエ……! 其方、クロエではないか!!」
「ピンポン、正解です。お久しぶりですペレ伯爵。
よかったぁ、遠路はるばるやってきたのにボクのこと忘れちゃってたらなんのために来たのか分からなくなるところでしたよ」
ホッと胸を撫で下ろした青年は、たしかにクロエという名前だった。
ペレ伯爵はこの青年を知っていた。何故ならこの青年こそ、ペレ伯爵が気に入り男妾にしようと近づいて、有り得ないことに抵抗され、不敬罪でレイフ島に島流しにしたはずの青年だったからだ。
その愛らしい姿を再び見られた喜びと、何故この男かここにいるのだという疑問、後ろの男は誰だという疑念が湧いてくる。布に包まれた何かを持った背の高い男もフードを脱げば、その男はペレ伯爵が一度レイフ島に送り込んでから連絡が途絶えていたレクターという兵士である。彼にはレイフ島の技術者を連れて来いと命令を下したが、ペレ伯爵が受け取った報告は『レクターはレイフ島の者の手に落ちたようです』だけだったためてっきり死んだと思っていたのに、ピンピンと生きている。前よりも活き活きとして、まるで自分はクロエを守る(ruby:騎士:ナイト)だと言いたげにクロエの傍に立っている。
「其方達、どうやってここに」と言いかけて、ペレ伯爵は事態を理解しニヤリと笑った。このタイミングで、彼の言葉を借りるなら遠路はるばる、それも人目を避けるようにクロエがこの部屋を訪れる理由なんて一つしかない。この青年は、自分に懇願しに来たに違いない。あの戦列艦隊がレイフ島に到着し砲弾などによる実害が出る前に、負けを認め戦争を終わらせるために。クロエが交渉役に選ばれたのはきっと、ペレ伯爵と面識があったから。レイフ島の領主たるアレクセルはクロエを交渉役に立て、それでも納得がいかないのならばこの青年を与えるから攻撃をやめてくれと言いたいのだろう。クロエはそれらを理解して、わざわざペレ伯爵の元に帰ってきた。あのころと同じ、愛らしい姿で。
賢い選択だとペレ伯爵はクロエを褒めてやりたい気分だった。だがそんなペレ伯爵の意識とは裏腹に、クロエは室内のテーブルにチェス盤のようなものを置くと、それに掘られた“投影”という記号部分を指でなぞる。そこには海の映像と、つい先程港を発ったペレ伯爵の戦列艦が映し出された。
「——降伏してください」
クロエは金色の目でじっとペレ伯爵を見て、告げた。
「降、伏……?」
言い放たれた言葉に、ペレ伯爵は戸惑い反芻した。“降伏”、こうふく、降伏? 何故? どうして自分がクロエに降伏する必要があるのだ? 降伏するのはクロエであり、その嘆願のためにここに訪れたのでは無いのか?
そんなペレ伯爵の様子を嗤う者が在った。レクターだ。彼はクスクスと声を潜めて肩を揺らすと、流し目にペレ伯爵を見る。その目は“滑稽だ”と雄弁に語り掛けていて、ペレ伯爵はいきり立って「無礼者が!」と叫んだ。
「——これを、見てください」
そんな中、クロエはマイペースだった。見せたのは先程のチェス盤で、波に揺られながら前に進む帆船が——ペレ伯爵の戦列艦隊が映し出されている。
「アナタに是非見せたかった。ボク等の島の最新技術ですよ。
木で造った鷹の彫刻の眼球に魔法石をはめて、風魔法で空を飛ばせ、魔法石が捉えたものをそのままこの盤上に投影する。草魔法と風魔法の応用なんですよ、これ。まぁなにより、ボクの要望通りにこれを造れるゴブリンが凄いけど。ガチでビビりましたよね最初見た時は。ペレ伯爵もそう思いません? 伯爵だったら、これにいくらの値を付けますか? ボクは3000万
クロエは少し得意気にそう話してから、ペレ伯爵の返事が無いことに首を傾げた。そして「あぁそっか、そんな余裕無いですよね」と納得して何やら書類を机の上に並べていく。
「こっちも見てください。
これがアナタに署名してほしい書類です。内容は……——」
「ぶっ、無礼者が!!」
クロエの言葉を遮って、ペレ伯爵は糾弾した。反射的に手に持っていた葡萄を投げつければ、それは風魔法で上へと弾かれ、キャッチしたレクターが「危ないですね〜」と言いながら一つ粒をもぎ取る。見せつけるようにそれを食べようとしたレクターに「やめなよ、汚い」とクロエが言うから、ペレ伯爵は更に侮辱された気持ちになってダンダンと床を蹴る。
「貴様等がすることは吾輩の無敗戦列艦隊に慄いて許しを乞い降伏することだ!! それが、吾輩に『降伏しろ』だと!? 図に乗るなよ流刑人風情が!!」
「……ボク達は
クロエは言いながら、指を滑らせてチェス盤へと視線が向くように誘導する。チェス盤では波の音と砲弾の音に混じって、バラバラバラバラと何かが回るような音が遠くから響いてきた。
「——パラソル翼飛行機。お目見えするのは初めてですね。これもペレ伯爵に最初に見せることになりました」
「なんだそれは……怪鳥か……!?」
「飛行機ですよ。空を飛ぶ機械」
「クロエ、それでは説明になっていませんよ。何しろこんな優れた機械、大陸にはまだ無いのですから、ちゃぁんと説明してあげないと分かりませんよ〜」
レクターの言葉に腹が立つが、クロエの「それもそうだね」の言葉も腹が立った。
クロエが言うところのパラソル翼飛行機は第一陣の戦列艦の頭上へと飛ぶと、何かを落とす。それが船に触れた瞬間爆発したから、爆発物だと言うことがわかった。
「なっ、なんだこれは……!?」
「鉱石を掘るダイナマイト、それに炎魔法でスパイスを加えたものを落としてるだけですよ。凄いでしょ? こんなことも出来ちゃうんです」
着弾を免れたのは最も端を進軍していた三隻だけだった。だがその三隻は、海の中から生えてきた巨大な蛸足に絡め取られ宙吊りになる。
「あぁ、死体も船もちゃんと潮の流れでこの国に漂流するようにするので安心してくださいね。海底に沈まれても困るんですよね、死体も船も。水質汚染になるし、人魚達も迷惑だっていい顔しなかったんですから」
「ごもっともな話でしょう。彼女達からすれば人間の戦争など対岸の火事なのですから。それでもクラーケンを派遣したのは偏にクロエが信頼されているからでしょうね」
「そうかな? それなら嬉しいんだけど」
クロエとレクターは笑い合い、そしてペレ伯爵の方を向いた。
「書類の話が途中でしたね。書類の内容は三つです。
一つ、この戦争の負けを認めること。
二つ、過去アセクセルに着せた汚職は己の策略だったと認めること。
三つ、レイフ島を独立国家として認めること。
サインしてください、より多くの血が流れる前に。今ならまだ、アナタ達は軽傷で済みます」
「なにを……!」
「兵士は消耗品じゃない、有限な価値のある財産だ。それをアナタは今、己のちっぽけなプライドのせいで失おうとしている。サインしてください、そして、降伏してください」
クロエの目は本気だった。金色の瞳にじっと見つめられ、ペレ伯爵は思わずたじろぎ後退る。
盤上では第二陣の戦列艦隊の前に、何か黒い鉄の塊が現れていた。煙を吹きながら海を悠々と進むナニカ。あれはなんだ? 鉄の船? そんなの物が用意出来ると言うのか?
「降伏してください」
再三、青年は繰り返す。
「そんなこと……そんなことしてなるものか!」
ペレ伯爵は
「何故……? 戦いもしない、後方でただ前線で人が死んでいるのを見ているだけの臆病者が……? この戦に負けたってそちらの失うものはなにも無い、なのにサインができない……?」
「吾輩がどうして貴様等の言うことを聴いてやらねばならぬのだ! 我が無敵の戦列艦隊は負けたことなどない! 今の一度だって! 此度の戦も負けるはずがない!」
「あっあっあ〜……駄目ですね、クロエ。ペレ伯爵はもう既に『負けるはずがない』という言い訳に縋って己の自尊心が傷付くことを最小限にとどめようとしてしまっている。説得は難しいでしょう」
レクターの冷静な分析は当たっていた。ペレ伯爵が今考えていることはどうこの無礼者二人をこの場から追い出すかだけ。初戦が負けたとしても次の戦いがある。隊を立て直し再び攻めればいいだけだ。小さな島がそう何度もペレ伯爵の戦列艦隊の猛攻を防げるわけが無いのだ。今回はたまたま、運が良かっただけだと。そう思い込むことで彼は己を守っていた。そう思い込むことで自分のプライドを守っていた。
そこで初めて、クロエの顔が悔しそうに歪む。
「アナタは……アナタはいつもそうだ!!」
クロエは悔しそうに拳を握り締めペレ伯爵を批難する。
「人の命を命とも思わない! まるでゴミを捨てるように人間を扱う! そうやってレイフ島を扱ってきた! アレクセルさんを侮辱してきた! アナタは、オマエは……!」
クロエは金色の瞳を閉じ悔しさに唇を震わせる。湧き上がる嫌悪に頭痛がしているようだった。
クロエは考える。自分が流刑に処されたあの頃から、ペレ伯爵は何一つ変わっていない。自分が一番可愛くて、自分には向かうものは全て悪で、自分のプライドの為なら他者の命など顧みない。
「くだらないプライドを捨てろ……! オマエの一言で何百の兵隊の命が助かると思ってるんだ!」
クロエは憤り、ペレ伯爵はそれでもなお降伏をしようとはしなかった。それどころかバトラーズベルをこれでもかと鳴らし部屋に異変が起きていることを告げる。
「どうします〜? もう少しでこの部屋に兵士がなだれ込んでくると思いますけど?」
「皆が戦っているのにボクだけ退くわけがないだろ? 徹底抗戦だよ」
「流石クロエ。それでこそ愛おしいってものです」
“蛇刀”と宙に書いたクロエの手の中に、2mを超える刀身の巻尺のような剣が現れる。ウルミと呼ばれるような刃に似ているその刀を握ったクロエは、「レクターは下がってて」と言い入口から来る警備兵に立ち向かった。
結果は文字に起こすまでもない、クロエの圧勝だった。そもそも普通の長剣しか見たことの無い兵士達が、蛇のように動き予測不可能な動きをするクロエの蛇刀に対応できるわけがないのである。全て峰打ちで済ませたクロエに、「お見事」とレクターは手を叩く。
ペレ伯爵は驚愕していた。クロエはただの子供で、明日の飯にも困るような生活を送っている貧民だ。そんな彼があんな剣を使いこなしペレ伯爵の私兵を倒してしまうなんて意味がわからない。ペレ伯爵の知っているクロエではない。このクロエは一体何者なのだ。
盤上では、帆船の砲撃を蒸気で動く軍艦が全く意に介さず着弾してもその船に傷一つつかないことを見せつけていた。
どちらが優勢かなんて、猿でもわかる。そんな明らかな戦闘力の差を見せつけられても頷かないペレ伯爵に「救えない屑が……!」と吐き捨てたクロエは手の甲に取り付けた魔水晶によって通信を繋げる。
「砲雷撃戦よーい——撃て!」
魚雷発射の合図に、蒸気船はすぐに答えた。発射された魚雷によって、ペレ伯爵が最強だと誇っていた戦列艦隊の第二陣の船底には穴があき、徐々に沈没していく。
ジリジリと、二人の交渉は焦れていく。クロエさえ追い払ってしまえば回生の芽はある、むしろクロエが今見せている映像が虚像だと思い込み己のプライドを守るペレ伯爵に、クロエは目を細め、「レクター」と今日ここに運ばせた布袋を渡すよう求めた。
「やるのですね」
レクターはわくわくしたように布袋の紐を解いて渡す。そこから現れたのは機関銃で、マシンガンは装填してある。
「最後のお願いです。降伏してください」
「ふんっ! 聞き分けの無い小僧だ……! いいか! どれだけ虚像で吾輩を誤魔化そうとしても、負けるのは貴様なのだ!!」
「そうですか……なら死ね」
そして引き金に指をかけ、クロエは機関銃を発射した。