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第13話 雨の夜のパーティー

Apaiserアペゼのオープンから数日後の事だった。商工会議所で夫人同伴のパーティーが催される事になった。これまでは辻崎株式会社からは代表取締役社長である宗一郎と妻の佳子が出席していた。


「今回は宗介が出席してくれ」


「まだ私は独り身ですが」


「なにを言っているんだ果林さんがいるじゃないか」


「そうよ、果林さんにもみなさんの集まりに慣れて貰わなくちゃ」


「まだ時期尚早しょうそうではないかと思いますが」


「あらあらあら、果林さんなら大丈夫よ、ねぇ?」


 佳子にそう言われれば「今回はご遠慮します」と異を唱える事も出来ず果林はそのパーティーに出席する事になった。商工会では経営診断や事業計画、商品化、販路拡大など事業経営に関する相談事を無料で受ける事が出来た。その為パーティーには事務所、店舗、工場、企業などの事業者など錚々そうそうたる顔ぶれが集まる。


「宗介さん、心配です」


「そうですよね、申し訳ありません」


「同伴される奥さま方も茶道や華道のお家元の方が多いとお聞きしました。大丈夫でしょうか」


「初めは緊張するかもしれませんが果林さんなら大丈夫です」


「そうでしょうか」


 宗介の根拠のない「大丈夫です」は果林をより不安にさせた。パーティーには正装とまでは言わないがそれ相応の装いで出席しなければならない。手持ちのワンピースなど以ての外だった。


「果林さん、ワンピースを買いに行きましょうか」


「はい」


 2人はきらびやかなファッションモールの一角にいた。普段ならば楽しいショッピングも気が乗らない、宗介はそんな果林に気を遣いながら何枚かの上品なワンピースを選んだ。それはシフォン生地で軽やかで清楚、果林によく似合った。


「母からパールのネックレスを頂きました。以前買った白いハイヒールと合わせてこの色はどうでしょうか」


「・・・・・白いハイヒール」


 そうだ、あの時宗介は「いつか必要になるから」と白と黒のハイヒールを手に取った。あれはこのような事態を想定しての事だったのか。


「パールのネックレスに白いハイヒールならこの色のワンピースが似合うと思いますが」


 それはまるでバニラアイスからミルクティーのグラデーションで7部袖の膝丈フレアスカート、軽やかなシフォン生地のワンピースだった。


「コサージュはどれが良いですか?」


 果林は悩みに悩んで季節に合わせ茶色い木の実があしらわれた深い赤茶の薔薇のコサージュを選んだ。


「木の実に薔薇ですか個性的ですね」


「駄目でしょうか?」


「良いと思いますよ」


「試着してみますね」


「はい」


 果林はワンピースを手に試着室のカーテンを閉じた。さすが宗介が選んだだけあって果林の面差しによく似合いサイズ感もしつらえた様にピッタリ合っていた。ただひとつの問題は着脱が背中のファスナーであることだった。両手で上げようとしてみたが肩甲骨の下が限界だった。致し方がない。


「宗介さん」


「着心地はどうですか」


「それは良いんですが困った事になりました」


「どうしましたか」


 果林は顔を赤らめながら宗介に助けを求めた。


「背中のファスナーが上がらないんです。お願いできますか?」


「ああ!はい!」


 宗介は「お邪魔します」と試着室の中に滑り込んだ。


「果林さん、とても似合っています」


「ありがとうございます!ファスナー、お願いできますか?」


「はい」


 すると宗介は果林のうなじに薄い唇を近付けると舌先で軽く舐めた。


「ひゃっ!」


「しっ、静かにして下さい」


「宗介さんが悪いんですよ!もう!」


 宗介はふっと笑いながらワンピースのファスナーを上げた。


「さぁ、見て」


 果林は試着室のカーテンを開き鏡の中の自身に見惚れた。


「綺麗、ウエディングドレスみたい」


「果林さん素敵ですよ。大丈夫、パーティーでもそのワンピースを着て私の隣にいて下さいればそれで問題ありません」


「そうですか」


「いつもの笑顔で」


「はい」


 果林の心はシフォンのワンピースのように少しだけ軽くなった。





バタン バタン


 うやうやしく頭を下げた黒いスーツに白い手袋の運転手が後部座席のドアを開けた。高台から街を一望出来る場所にそのホテルは建っていた。車寄せに次々に着けられる黒い高級車。中からは白髭の紋付き袴、その後には加賀友禅の着物の女性が連れ立った。高い天井からは光の滝が流れ落ち、足元にはヒールが埋もれる高級な紺色のカーペットが敷かれていた。


「そ、宗介さん」


「そんなに緊張しないで。誰もあなたを取って食べたりはしませんから」


 商工会議所のパーティ会場は最上階の18階で開催されると衝立ついたてが置かれていた。


「あ、乗ります」


 宗介にエスコートされた果林はエレベーターの箱の中に足を踏み入れたが粉っぽい海外製の化粧品の匂いにむせかえった。ふと見上げると年配の女性が宗介に微笑みかけ、次に果林を見下すように一瞥いちべつした。果林は居心地の悪さを感じた。


ぽーーーん


 エレベーターの扉が開くときらびやかなシャンデリアが会場全体を照らし白い布のテーブルクロスで覆われた円卓が幾つも並んでいた。円卓には豪華なアレンジメントフラワーが飾られ銀のカトラリーが輝いていた。


(別世界だ)


 果林は初めて見る豪華絢爛ごうかけんらんな風景に気圧けおされ宗介の腕にしがみついた。この世界に馴染んだ宗介は「大丈夫」と微笑んだがとてもそんな気持ちにはなれなかった。そして宗介が辻崎株式会社の副社長でこれから社を一身に背負う人物である事を認識した果林は自分がその妻になるのだという現実を再確認した。


(私、とんでもない事をしようとしているんじゃない?)


 宗介は上背があり整った面立ちで周囲の人物よりも頭ひとつ抜きん出ていた。今回のパーティーは夫人同伴とあるが未婚の娘を伴ってパーティーに参加する者も多くその娘たちは我先にと宗介の周囲に群がった。娘たちは皆、気品があり育ちの良さを感じさせた。間に合わせで買い揃えたワンピースを着ている果林とは雲泥の差、衣装やアクセサリーも上品で高価な物ばかりだ。果林はこの場所に立っている自分を恥ずかしく思った。


(やっぱり私、宗介さんと釣り合っていないよね)


 生まれは町の建具屋たてぐやでその両親も他界、学歴も低く資格といえば菓子を作るくらいで茶道や華道などとは縁遠い。果林が呆然としているうちに宗介は名刺交換に勤しみ人混みの中に消えた。果林はたった1人壁際でその賑やかな群れを眺めていた。すると給仕がトレーにワインを持ち「いかがですか」と声を掛けて来た。


「ありがとうございます」


 受け取ったグラスは芳醇な香りを放っていた。


(・・・・ふぅ)


 その時、宗介がにこやかに微笑みながら果林へと歩いて来た。


「1人にして申し訳ない」


「お仕事ですから、大変ですね」


「機嫌悪い?」


「いいえ」


「おいで、皆さんに紹介したいから」


「えっ」


 壁の花だった果林は宗介に背中を押されて人の輪の中に連れて行かれた。案の定、娘たちは果林の足の爪先から頭のてっぺんまで見定めると口元を歪ませて小さく笑った。そんな事に気付かない宗介は「婚約者です。仲良くしてやって下さい」と果林を紹介したが娘たちは一斉に蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。


「申し訳ない」


「良いんです、お友達を探しに来た訳ではありませんから」


 マイクの音が響き壇上で商工会議所会頭の挨拶が始まった。宗介の視線は壇上に向けられた。その数歩後ろに果林が立ち宗介の背中を見つめていた。その時、すれ違いざまに誰かの肩が果林を押し退けた。


「あっ!」


 そこでほくそ笑んでいたのは立派な加賀友禅の振袖を着た若い娘だった。手に持っていた赤ワインがグラスからこぼれ果林のシフォンワンピースを深紅に染めた。娘は小声で「あら、ごめんなさいね」とその場を離れ、果林は胸元から裾に掛けて滲んだ色に涙が込み上げた。


(もう、嫌だ!)


 気が付くと果林はエレベーターホールで階下に向かうボタンを連打し、背後では大きな拍手が湧き上がった。「お客さまどうなさいましたか!?」フロントのホテルマンが慌てて後を追って来たが果林は車寄せに停まっていたタクシーの後部座席に乗り込んだ。その頃、宗介は背後にいた筈の果林の姿がなく左右を見渡した。


(果林?)


 足元の紺色のカーペットには黒いシミが点々と落ちていた。


 降りしきる雨の中、部屋に戻った果林はワンピースの背中のファスナーを思い切り下げた。シフォン生地のワンピースはほつれてしまったがそんな事よりも悔しさで涙が止まらなかった。


「なんで、なんであんな事をされなきゃならないの!」


 宗介が見立ててくれたワンピースの前身頃は深紅に染まり、下着にもうっすらとそれは滲んでいた。果林は嗚咽おえつを上げながら震える指でパールのネックレスを外し、しなびたコサージュをソファに投げ付けた。パールのネックレスを外すと首周りが随分と軽くなり普段の自分に戻ったような気がした。


(やっぱり私が副社長の奥さんになんてなれない、無理!)


 濡れた衣類を洗濯機に放り込み熱いシャワーを頭から浴びた。ボディソープで苛立ちと悲しさを洗い流したが胸のつかえを取り払う事は出来なかった。ドライヤーで髪の毛を乾かしたがなんの解決にもならなかった。


(婚姻届)


 果林はおもむろにチェストの引き出しを開け婚姻届を手に取った。薄茶の枠線にポタポタと涙が落ち万年筆で書かれた辻崎宗介の名前が滲んで消えた。


(宗介さんと結婚するなんて無理!)


 果林は咄嗟とっさに両手で婚姻届を持つと2枚に引き裂き細かく破いた。


(無理!)


 婚姻届ははらはらとフローリングの床に舞い落ちた。


(やっぱり無理!)


 果林は部屋着に着替えると部屋を飛び出しエレベーターに乗った。果林が向かったのはApaiserアペゼ、本来自分がいるべき場所はパティスリーの菓子工房であり、きらびやかなパーティー会場ではなかった。2階のフロアで出くわした夜間警備員に「忘れ物を取りに来ました」と挨拶をし店の扉の鍵を開けた。ふわりと甘い砂糖やバターの匂いが果林を抱きしめた。


(・・・・最悪)


 暗いバックヤード、誰もいない菓子工房、静まりかえった店内は普段ならば不気味に感じるだろうが今の果林の頭の中は空洞で真っ白だった。


(ただのパティシエールが大きな会社の副社長さんの奥さんになるなんて無理だ)


 雨粒が屋外庭園のガラスに涙の筋を作った。少しずつ冷静になった果林はヒッコリーの椅子を窓際に運びそれを無言で眺めた。


(宗介さんどうしたかな、心配しているよね)


 時計の秒針が時を刻むと鳩時計が23:00を告げた。帰宅した宗介が細かくちぎられた婚姻届を見たらどう思うだろう。それは手に取るように分かった。きっと自分を探し回るだろう。果林は自分がただかまって欲しくて駄々をこねている子どものようだと思い恥ずかしく思った。


(どうしよう)


 どれだけ時間がたっただろう自分の行動を馬鹿らしく感じ椅子から立ち上がろうとした時だった。エレベーターの扉が開く音がして聞き覚えのあるかかとを引きずる革靴の足音が駆け足で近付いて来た。Apaiserアペゼの鍵が開いている事を確認したその影は勢いよく店内に踏み込んだ。


(宗介さん!)


 宗介は果林を見つけると足早にその姿を抱き締めた。


「何をしているんですか!」


「宗介さん」


「心配させないで下さい!それにあれはどういうことなんですか!」


「あれ?」


「婚姻届です!」


 宗介の顔は見えないが指先が震え声はかすれていた。


「あれは」


「あれはなんですか!」


「私、やっぱり宗介さんとは結婚出来ません」


 宗介は果林の肩を引き離すと信じられないことを聞いたような面持ちでその顔を凝視した。


「どう言うことですか」


「パーティー会場で分かったんです。私は宗介さんには不釣り合いです」


「そんなことはありません、どうしてそうなるんですか!」


「宗介さんにはあの場所にいたお嬢さま方がお似合いです。私じゃありません」


「私は果林さんが良いんです!」


 宗介は果林の肩を揺さぶると眉間にシワを寄せて声を大にした。果林はその気迫に気圧けおされて思わず目をつむった。


「ごめんなさい、自信がありません」


 宗介は一呼吸置くと深く力強い声で呟いた。


「許しません」


「え」


「私は婚約破棄なんて許しません」


 宗介は果林の髪に指先を埋めると思い切り唇を奪った。果林の中に差し込まれた舌は生き物のように這い回り痛みを感じる程に強く吸い上げた。それは息継ぎが出来ない程長く続き果林はその胸を押しやった。


「誤魔化さないで下さい!」


「誤魔化してなどいません!パーティーに出たくないのならばそれでも構いません!」


「そんな訳にはいきませんよね!無理です!」


「果林さんがいなくなるなんて私には耐えられません!」


 宗介は果林をテーブルに押し倒すと激しく口付けその手は胸をまさぐり始めた。


「駄目です!やめて下さい!ここは大切な場所なんです!」


 宗介は我に帰り果林の言葉でその動きを止めた。


「・・・・済まなかった」


 そこへ夜間警備員の持つ懐中電灯の明かりが上下左右し果林は衣服の乱れを整えた。


「部屋に戻りましょう、話はそれからです」


「はい」


 エレベーターの箱の中では気まずい空気に包まれ2人は無言で玄関の扉を開けた。


 冷静になって見ると部屋の中は散々なものだった。脱ぎ捨てられたワンピース、萎れたコサージュ、パールのネックレスはかろうじてチェストの上に置かれていたが床には千切れた婚姻届が散乱していた。この状況を目にした宗介はさぞ驚いたことだろう、明かりの下で見遣ると髪もスーツも雨で濡れズボンの裾には泥が跳ねていた。革靴もグショグショだ。


「探したんですよ」


「はい」


「羽柴の叔父さんの家にも行きました。無事だと連絡を入れて下さいませんか?」


「はい」


 果林は携帯電話を取り出すとタップしてLINEメッセージを送信した。返って来たのは「迷惑を掛けない事!」「心配させるな!」とお叱りのメッセージだった。


「ごめんなさい」


「本当に・・・本当に心配しました」


 果林は事の顛末てんまつを打ち明けた。宗介は「その娘には思い当たる節があるから親御さんに注意しておく」と腕組みをして鼻息を荒くした。


「ワインを掛けられたから嫌になったんですか?」


「それもありますがやっぱり自分に自信が持てなくて恥ずかしくなりました」


「茶道や華道が苦手だとしてもなんの問題もないじゃないですか。果林さんが習いたいと言うのであれば母に習えば良いですよ」


「えっ」


「母は草月流の師範ですから」


「そ、そうだったんですか」


 果林は一気に力が抜けた。


「カクテルドレスやイブニングドレス、色留袖などは婚姻届を提出したら追い追い揃えようと思っていました。今回は父の思い付きで果林さんに恥ずかしい思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。」


「そんな揃えて頂いても着こなせないと思います」


「心配無用です。少しづつ慣れていきますよ」


「そういうものですか」


「はい、私だって若い頃はやんちゃしましたから」


「やんちゃ、ですか」


 書類の奥から古めかしいアルバムを持ち出した宗介は「これです」と指差した。そこには髪をリーゼントに固め紫色の派手なスカジャンを着た宗介がVサインをしていた。


「隣にいるのは宇野です」


 宇野は真紅のハイビスカス柄のアロハシャツにびょうの付いたGジャンを羽織っていた。


ぶっ!


 果林は思わず吹き出してしまった。


「宗介さんにもこんな時代があったんですね」


「18歳か19歳の頃です。両親には心配を掛けました。それが今では副社長です。パティシエールが副社長夫人になる方が簡単だと思いませんか?」


「簡単かどうかは分かりませんが宗介さんの意外な過去を知ってなんだかどうでも良くなりました」


「人生、なんとでもなります」


「はい」


「私と人生を歩んで下さいませんか?」


「はい」


「もう破らないで下さいね」


「ごめんなさい」 果林がアルバムをめくり思い出に浸っていると宗介が「こちらに来て下さい」とリビングのソファで手招きをした。リビングテーブルには未記入の婚姻届が一枚広げられていた。


「これ、どうしたんですか?」


「書き損じの時に必要かと思い数枚頂いて来ました」


「用意周到ですね」


「はい」


 宗介は5本のボールペンと四角と丸の朱肉を持って微笑んだ。


「私は油性ボールペンで書きます」


「私もこの万年筆は止めます、お揃いの油性ボールペンで書きますね」


「証人は父と母になって貰いましょう」


「はい!」


 初めに宗介が書き込み次に果林が書き込んだ。果林が印鑑を捺す瞬間、宗介は感嘆の声を上げた。


「宗介さんは大袈裟ですね」


「2年間の片思いなんです、涙も出ますよ」


 確かに、宗介の目は赤く充血し目尻に涙が浮かんでいた。


「39歳の男の人が泣くなんて変ですよ」


「今夜だけ泣かせて下さい」


「分かりました」


 果林は宗介の後頭部を優しく撫で手を繋いだ。

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