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第7話 木古内和寿

 その2人の姿を見掛けた人物がいた。


「ねぇ、和寿」


「なんだよ」


 杉野恵美は木古内和寿が泣いて喜ぶ場面を目撃してしまった。


「私、すごいもの見ちゃった」


 連日、鼓膜をざわめかせ感情を逆撫でする電気ドリルやチェーンソーの騒音。目障りな工事中のApaiserアペゼの店の中を何気なく覗いた杉野恵美は屋外庭園に寄り添う人影を見た。


(・・・・・まじ、嘘ぉぉ)


 その2人はゆっくりと口付けをし、振り向いた女性は羽柴果林だった。


「ここに怒鳴り込んだ背の高い男の事、覚えてる?」


「果林を連れ出したあいつだろう!忘れるかよ!」


「灯台下暗しよ」


「トーダイモトクロスがどうだっていうんだよ」


「果林を見つけたわ」


「どっ、どこで!」


 杉野恵美はフロアの真向かいに位置するApaiserアペゼを指差した。


「まっ、まさか見間違いじゃないのか」


「間違える訳ないじゃない」


「本当か!」


「それがちょっとこ綺麗になってたわよ、あの男のコレみたいよ」


 小指を突き立てると前後に動かした。


「そんな訳あるかよ!」


「ほらぁ、いつも14:00になったら楽しそうにお喋りしてたじゃなぁい?あの頃から出来てたのかもしれないわよ」


「えっ!」


 木古内和寿はサロンエプロンを外すと床に叩き付けた。


「どこに住んでるんだ!」


「知らなぁい」


「くそ!」


「ここで見張っていればいつかは捕まえられるんじゃない?」


「くそ!」


 ただこれまで闇雲やみくもに探し回っていた事を考えれば果林の行方に目星が付いた。木古内和寿の口元は醜く歪んだ。

 その頃、6階の社員食堂は騒めいていた。副社長が食券を買いその行列に並んでいる。しかも秘書としては地味な女性社員が隣に並び談笑をしているではないか。


「副社長が食堂に来るなんて珍しいな」


「ランチA定食、意外と健康重視なんだな」


 宗介が副社長である事を知らない果林は不思議に思った。


「宗介さん、私たちに視線が集まっていますが」


「気にすることはありません」


「無理、無理です、ほらあの女の人なんて私のことを睨んでいます」


「なら、あの窓際の席に座りましょう」


 2人で注文したランチA定食は鯖の味噌煮と里芋の煮っ転がし、ひじきの和物に豆腐となめこの味噌汁だった。宗介は綺麗に鯖の小骨を取り外している。育ちが良い証拠だ。


(んむーーーー)


 焼き菓子を作る事以外は不器用な果林は鯖の小骨に四苦八苦していた。すると宗介が皿に手を伸ばし「貸してごらん」と箸を付けた。


「そっそんな!」


「気にしないでください」


「気にします!」


 この勢いだと口角に味噌を付けたり頬に米粒を付けたりしようものなら指先で摘んで「ぱくっ」とされるのではないかと果林は戦々恐々とした。


(そうだ)


「宗介さん」


「なんでしょう」


「どうして私はApaiserアペゼに行っちゃ駄目なんですか」


「それは」


「それは」


「それは木古内和寿さんとお会いするのも気まずいでしょうから」


「あぁ、そんなことですか!もう退職しているので問題ないですよ!」


「そうでしょうか」


「大丈夫です!」


 宗介は味噌汁の椀をトレーに置くと箸を揃えた。


「どうしたんですか」


「果林さん、お願いします。もう2階には1人で行かないで下さい」


「でも私、Apaiserアペゼで働くんですよね」


「それまでには何とかしますから、お願いします」


 そこで宗介の胸ポケットで携帯電話のバイブレーション音が響いた。


「失礼」


「あ、はい」


 宗介は云々と頷き困った表情で溜め息を吐いた。


「申し訳ありません、急な来客で」


「あ、はい」


「これは」


「あ、トレーは片付けておきますね」


「ありがとうございます」


 宗介は小さく手を振ると足早に社員食堂を後にした。


(宗介さんも色々とお仕事大変なんだ)


 ふとそこで果林はジャケットのポケットに入れていた小町紅のコンパクトが無いことに気が付いた。もう一度手を手を入れて確かめたがその感触が無い。


(・・・・えっ、落としちゃった!?)


 思い当たるとすればApaiserアペゼの屋外庭園で屈み込んだ時に落としたその可能性が高かった。果林は慌てて食事を済ますと2階へと降りるエレベーターに乗った。


ぽーーーん


 エレベーターの扉が開くと果林はけやきの太い幹に身を隠しながら2階のフロアに足を踏み入れた。吹き抜けの天井から大理石の床を照らすライトが果林の影を映し出した。


(誰もいない)


 chez tsujisakiしぇ つじさきには以前の様な活気は無くショーケースの中の焼き菓子の種類も少なかった。そして菓子工房に木古内和寿や杉野恵美の姿は無かった。


(・・・・どうしたんだろう)


 果林はchez tsujisakiしぇ つじさきの現状を宇野から又聞きしたもののその逼迫感ひっぱくかん、また木古内和寿が自分を店に連れ戻そうと躍起になっていることは知らされていなかった。


(・・・・コンパクト、見つかると良いなぁ)


 Apaiserアペゼには照明が設置されておらず昼間でも薄暗い。


「お邪魔しまーーす」


 果林は小声で扉を開けると殺風景なコンクリートを踏み締めた。企画室のメンバーと見学に来た時はそうでも無かったが誰も居ない店内は薄気味悪かった。暗闇に目が慣れて来た時視界の端で何かが動いた。驚いた果林がそちらを振り向いたが配線コードが天井からぶら下り揺れているだけだった。


(は、早く探そう)


 なんとも表現し難いおぞましさが這い上がって来た。第六感が早くこの場所から立ち去れとささやいている。果林は屋外庭園のガラス扉の鍵を開けると芝生にしゃがみ込んだ。


(ない、ない、どうして?ここしか考えられない)


 手のひらの大きさとはいえ鮑貝あわびがいの装飾が施されている、床に落とせば割れるなり何なり音がする筈だった。果林が両手両脚を地面について這いつくばっていると背後で扉が閉まる音がした。


「あ、ごめんなさい。落とし物をして、今すぐどきます」


「なぁ果林」


 企画室のメンバーか工事現場の作業員かと思い振り返ろうとした瞬間、聞き覚えのある声が頭上から降って来た。


「えっ、なに!?」


「落とし物はこれかよ」


 木古内和寿の手には小町紅の金のコンパクトが握られていた。


「そ、それは」


「なぁ、果林」


 顔を向けるとそこにはやつれ顔の和寿が露骨で不潔な笑みを浮かべていた。果林の身体は強張り小さな悲鳴が上がった。


「なんだよ、薄情な奴だな。もうオーナーの顔を忘れたのかよ」


「なに言ってるんですか!どいて下さい!」


「なぁ、もう一度ウチで働かないか?」


「嫌です!」


「遠慮するなって」


「来ないで!近寄らないで!大声を出します!」


「誰も来ねえよ」


 振り向いて見ると店の出入り口には杉野恵美が腕組みをし、果林と和寿がもつれ合う姿を見張っている。


「もう辞めたんだから!離して!」


「遠慮するなって!」


 果林が手を伸ばした先には苗木が入った野菜コンテナがあった。指を伸ばしそこからオリーブの苗木を引き抜くと木古内和寿の顔めがけて振り下ろした。


「なっ、てめぇ!ざけんな!」


 オリーブの苗木が鼻先を掠めた木古内和寿は目に入った土を擦りながら果林の頬を平手打ちして怒鳴り声を上げた。その衝撃で果林の脳裏には火花が散ったが最後の力を振り絞って木古内和寿の手を振り解いた。


「待てよ!」


「助けて!」


 和寿が怯んだ隙をついて果林はガラス扉を閉め鍵を掛けた。金色のコンパクトは踏み付けられ泥だらけになっていた。


(コンパクトが)


 けれど今はそれどころでは無かった。早くこの場所から逃げなければと出入り口の扉に手を掛けたが杉野恵美が押さえつけびくともしなかった。


「あんた、なにやってるのよ!開けなさいよ!」


「あら、駄目よぉ。さっさと和寿にられてこっちに戻って来なさいよぉ」


「なに馬鹿な事言ってるの!犯罪よ!」


「あら、られましたってみんなに言えるのぉ」


「・・・・・・!」


ガシャーーーン!


 その衝撃音に振り返ると工事中の外壁ブロックでガラスの扉を叩き割った木古内和寿が室内に入って来た。逆光の中、パキパキと破片を踏み締める音が果林に近付いて来たがその面持ちは異常極まりなかった。


「なぁ、果林戻って来いよ」


「嫌です!」


「もう金がねぇんだよ」


「知りません!」


「毎日会社から電話が掛かって来るんだよ、金払えねぇんだよ」


「自業自得でしょう!」


 和寿が果林に掴み掛かった瞬間、杉野恵美が悲鳴を上げ床に倒れ込んだ。


「なにをしているんだ!」


 ガラスが割れた音で警備員が駆け付け、宇野が果林を店の外に連れ出した。


「大丈夫か!」


「だ、大丈夫です」


「怖かったね、もう大丈夫だよ」


「宇野さん、宇野さん!」


「大丈夫だよ、もう大丈夫」


 宇野は果林を抱き締めるとその髪を優しく撫でた。木古内和寿と杉野恵美は複数人の警備員に羽交い締めにされ宇野の指示により総務課隣の会議室に連れて行かれた。果林は宇野に肩を支えられながら医務室へと向かった。

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