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第6話 宇野

 ところがその悪い虫は果林の身近に存在した。


「ここだよ」


 港に程近い隠れ家のようなその店の名前はスミカグラス鞍月くらつき。日本家屋の外観、いぶした木材の格子戸を開けると店内は落ち着いた色合いの北欧風に姿を変えた。


「わぁ!素敵!」


「この店の内装も辻崎が手掛けたんだ」


「だから温かみがあるんですね、素敵です」


 ウォールナットの美しい木目、艶やかな手触りのテーブル、天井からはペンダントライトが暖色系の明かりを灯しアイボリーのカーテンが空調に揺れた。 そして2人はウンベラータ観葉植物の隣のテーブルを選んだ。大きな窓枠いっぱいのガラスからは初夏の日差しが降り注いだ。


「ご注文はお決まりでしょうか」


 目の前にレモンの輪切りが浮かんだグラスが置かれ、おしぼりがセッティングされた。果林はメニュー表を広げて見た。


「ペペロンチーノ、ペペロンチーノが食べたいなぁ」


「良いね」


「でもガーリックの臭い、みなさん嫌がらないでしょうか?」


「大丈夫、大丈夫、俺も同じものを頼むから」


「駄目ですよ!それじゃ臭いが2倍になっちゃうじゃないですか!」


「それもそうだね!でも果林ちゃんだけにんにく臭いのは恥ずかしいでしょ?」


「うっ、それはそうですけれど」


「だから僕らは運命共同体、2人は共犯者だよ」


「共犯者」


「食べたい物を好きな時に好きなだけ食べる!これこそ至福なり」


「宇野さんは好きなだけ食べても太らないんですね、良いなぁ羨ましい」


「あぁ、スポーツジムに通っているからね」


「そうなんですね!じゃあ腹筋割れてますか?」


「割れてる、割れてる」


「そうなんだ」


 宇野はスーツの前をはだけて見せた。


「なに、見たいの?今度・・・・触ってみる?」


「・・・・・ええっ!」


 果林の顔は真っ赤に色付いた。


「なに驚いてるの、耳まで真っ赤だよ」


「だって、突然すごいこと言うからびっくりしました」


「すごいことねぇ」


 果林はこれまで男性と付き合った事が無かった。黒目がちな瞳は可愛いと評判でボーイフレンドもいた。しかしながらどの男性とも友人止まりで男女交際に発展しなかった。


「え、果林ちゃん可愛いのに男の人と付き合った事ないの!?」


「可愛いとかお世辞でも言わないで下さい」


「え、目とかくりくりで大きくてチンチラみたいで可愛いよ」


「・・・・チンチラ」


「あ、地雷踏んじゃった?」


「良いです、どうせチンチラにモモンガです」


「小動物系女子、可愛いじゃない」


「私は大人の女性になりたかったです」


「まぁまぁ、それはそれ、個性という事で」


 そこへガーリックの香りが香ばしく赤唐辛子が目にも鮮やかなペペロンチーノがテーブルに運ばれて来た。オリーブオイルが絡まった艶々としたパスタが湯気を立てている。


「宇野さん、食べて良いですか!」


「どうぞ温かいうちに」


「いただきます!」


「今日は果林ちゃんの入社祝いだからどんどん召し上がれ。デザートも注文する?」


「えっ!良いんですか!ありがとうございます!」


「うーん、でも市場視察で経費で落とすのも有りかな?」


「ええ、それはアウトですよ」


「あ、やっぱり?」


 心地よい音楽が流れる店内、宇野は思い付いたように顔を上げた。


「そういえば、お父さんが建具屋をしていたって言ってたよね。建具屋はもう辞めたの?」


 果林の顔色が変わった。


「父と母は私が高等学校の時に交通事故で亡くなりました」


「え、ごめん。ご愁傷さまでした」


「ありがとうございます」


「大変だったね」


「いえ、叔父も居ましたし遺してくれたお金で短期大学にも通うことが出来ました」


「その後専門学校に?」


「はい、母がよくケーキを焼いてくれたので私も作ってみたくて資格を取りました」


「そうだったんだね」


「はい」


「だから果林ちゃんのケーキは温かい味がするんだ」


「え?」


「いや、宗介の受け売りだけど俺もそう思ったよ」


「ありがとうございます」


「果林ちゃんと一緒に仕事が出来て嬉しいよ。Apaiserアペゼはきっと成功する、頑張ろうね」


「はい!」


 宇野がフォークでパスタを巻き取ると湯気はすっかり消えていた。


「あぁ、パスタが冷めちゃったねごめん」


「本当だ」


「今度は冷めない料理をご馳走するよ」


「なんですか」


「フランス料理のフルコースとか」


「わぁ、フルコース!食べたことないです!」


 2人は笑顔でパスタを口に運んだ。


「ご馳走さまでした!」


「今度はフランス料理だよ」


「はい!楽しみにしています!」


「じゃあ、ゆびきりげんまん」「嘘ついたら」「針千本の〜ます」「指切った!」


 果林と宇野は小指を絡めて次の食事の約束をした。その姿を対向車線の車の中から愕然とした表情で見遣る宗介の姿があった。


「う、宇野が・・・果林さんと!」


 歩行者信号の赤が青に変わり横断歩道を渡った2人はコインパーキングへと消えた。程なくして宇野の白い車が左にウインカーを出した。果林は満面の笑みで宇野と会話をしていた。宗介は横を通り過ぎる2人の笑顔を目で追った。


 企画室に先回りした宗介は平静を装いながらも額の汗を拭った。数分後、果林と宇野がガーリックの匂いを漂わせながら「ただいま戻りました」と笑顔で扉を開けた。


(ぺ、ペペロンチーノ!)


 果林と宇野がガーリックの匂いを気にせず食す間柄になったのかと焦った宗介は宇野を果林から引き剥がしApaiserアペゼの図面をスチールデスクに広げて見せた。


「うおっと、何だよ宗介」


「うるさい!」


 そして果林に手招きをすると図面のテラス部分、けやきの樹の端に丸を付けて赤く塗り潰した。


「これは何でしょうか」


「ここにはカリンの木を植えようと思います」


「カリンの木ですか」


「果林さんがこの店のオーナー兼パティシエールになる記念樹です」


「えっ!記念樹!良いんですか!?」


「はい」


 少し赤ら顔になった宗介は軽く頷いた。


「果林さんと私の木です」


「私と宗介さんの木ですか?」


「はい」


「ちょっと意味が分かりませんが」


 宗介はその図面の上に赤鉛筆で何重もの円を書きながら髪の毛をいじった。


(照れてる?宗介さん、カリンの木で照れてる?)


「果林さん」


「はい」


「カリンの花言葉はご存知ですか?」


 宗介は果林の顔を覗き込みながらささやいた。


「花言葉には疎くて・・・・ごめんなさい分かりません」


 宗介はスチールデスクに落としていた目を上げて果林を凝視した。薄い唇がゆっくりと動いた。


「カリンの花言葉は<唯一の恋>です」


「こ、い・・・・こいですか?」


「はい」


 その目は熱を帯びていた。果林はその意味を把握したが咄嗟とっさにおどけてみせた。


「あぁ、お魚の鯉ですね!」


「魚の鯉ではなくここの恋です」


 その指先は果林と自身の胸を交互に指差した。薄らと気が付いてはいたが宗介は果林に特別な感情を抱いている。思わず魚の鯉だと茶化してみたが何とも形容し難い甘い空気が漂った。


「果林さん」


「え・・・と、はい」


 するとそこで宇野が間に割って入った。


「はいはいはい、職場に魚の話は要らない!」


「宇野!なんだおまえは!」


「はい、散った散った!宗介は自分の業務に戻れよ!」


 宇野は丸めたポスターで宗介の頭を軽く叩いた。


「はい、果林ちゃんも仕事仕事!」


「宇野っ!」


 こうして辻崎株式会社の双璧は睨み合った。果林を中心に宗介と宇野は度々小競り合いを起こし、宗介は企画室スタッフから開店準備の妨げになると出入り禁止を喰らった。その数日後、会社公認の職務が発生した宗介は小躍りでApaiserアペゼに入店した。それはApaiserアペゼプレオープン告知の記念撮影だった。


「はーーい、こちら向いて下さい」


(果林さん、そのエプロン姿、可愛いです!)


 宗介は携帯電話のカメラで果林の姿を連写した。ところが会社広報誌や地元新聞社のカメラに満面の笑みで応える企画室部長である宇野の手はApaiserアペゼオーナー果林の腰に回されていた。


「宇野!おまえ結婚披露宴の記念撮影じゃないんだぞ!」


「はっはっはっ、羨ましいか!」


「ぐぬぬぬぬ」


「宗介さん、宇野さんも落ち着いて下さい」


「果林ちゃん、Apaiserアペゼの制服似合ってるよ」


「ありがとうございます」


「ぐぬぬぬ」


 Apaiserアペゼオープンの日は近い。


 記念撮影から数日後、Apaiserアペゼの水回りの設備が大方おおかた仕上がったとの連絡が入った。そこで宇野うのが企画室のメンバーで店内の仕上がり具合を確認しに行こうと提案した。


「えっ、私も見に行って良いんですか!?」


「そうだよね、果林ちゃんは一度も現場に入っていないけれどどうして?」


「はい、宗介さんが危ないから行っては駄目だとこれまで許可が降りませんでした」


「宗介が?あいつ果林ちゃんを束縛しすぎだろう」


「束縛、束縛なんでしょうか?」


「店の仕上がり具合、見てみたいでしょう?」


「はい!見たいです!」


「配線はまとめてあるし天井も仕上がっているから大丈夫。問題ないよ」


「はい!」


 果林はようやくあのけやきの樹に対面出来ると胸弾ませいそいそとヘルメットを被り2階への階段を降りた。宇野は果林と木古内和寿を会わせるべきではないという宗介の真意を知らなかった。木古内和寿はApaiserアペゼの工事現場を疎ましく思いながら現在も赤字すれすれの営業を続けていた。


(果林を連れ戻せば客も戻る!)


 木古内和寿はその一心で休憩時間や休日を利用して果林が勤めそうな近隣の洋菓子店を探し回っていた。


「うわぁ!」


 Apaiserアペゼの壁や床はコンクリートが剥き出しのままだが照明の配線や庭園に出るガラス扉は既に設置されていた。出入り口はオープンテラス形式で折り畳み式の木枠の扉、ガラス面には流れるような曲線でApaiserアペゼのロゴが入っていた。


「宇野さん、素敵なお店になりそうですね」


「なかなか良い雰囲気だね。chez tsujisakiしぇ つじさきは鉄骨が剥き出しで無機質な印象だったけれど、Apaiserアペゼは木材をふんだんに使うからきっと温かみを感じる店になるよ」


「あの、その事なんですが・・・・」


「なに?」


chez tsujisakiしぇ つじさきはどうなるんでしょうか?」


 果林はchez tsujisakiしぇ つじさきが今後如何なるのかを尋ねてみた。木古内和寿はテナント料を3ヶ月滞納し経営状態も悪化、需要と供給が合致しておらず提供される焼き菓子や飲料についても社員からの評判が好ましく無い。やむを得ず閉店を視野に入れているのだと小耳に挟んだ。


「閉店になるみたいだよ」


「そんな」


「ああ、果林ちゃんはchez tsujisakiしぇ つじさきで働いていたんだよね」


「はい」


「店が無くなるのは寂しい?」


 果林にとってchez tsujisakiしぇ つじさきには良い思い出などひとつもなかった。ただ閉店になるとすればあのけやきの樹やつばめの巣が処分されるのではないかと思い胸が痛んだ。


「あの樹は如何なるんでしょうか」


「あぁ、あれは残すみたいだよ。chez tsujisakiしぇ つじさきの店舗を撤去した後、あの場所はフリースペースとして解放するらしいから」


「そうなんですね、良かった」


「なに、あの樹になにか思い出でもあるの」


「はい、温かい思い出です」


 果林の頬は赤らんだ。


「なーーに、気になるなぁ、教えてよ」


「内緒です」


 宗介は毎日14:00になるとあのけやきの樹を眺める席に座っていた。彼が店を訪れると心が和み、果林にとっては癒しの存在だった。果林はアフォガートをオーダーしていた薄い唇を思い出した。


「宇野さん届きましたよ!」


 企画室スタッフの1人が重そうな野菜コンテナを持って店内に駆け込んだ。


「もう届いたの!早いなぁ、カリンと名の付く物には手が早いんだな」


「カリン?私の事ですか?」


「そうそう」


「なにが早いんですか」


 宇野は屈み込んで果林の耳元でささやいた。


「宗介、あんな顔して女には奥手なんだぜ」


「女の人・・・奥手」


「そう。それがまぁ、果林ちゃんに関しては電光石火って感じ」


「・・・で、んこうせっ」


「超〜手が早ぇって事だよ」


「そ、そうなんですね」


 果林にとってなにがどう電光石火なのか眉間にシワを寄せていると宇野がニヤついた顔で見下ろした。


「あいつ果林ちゃんにプレゼントとかしなかった?」


「はい、頂きました。お土産とか誕生日の花束とか入社のお祝いのシャツも」


「くそ〜、まじか俺のアドバイス全コンプリートかよ」


 額に手を当てて天井を仰ぐ宇野を尻目に果林が野菜コンテナの中を覗き込むとオリーブの苗木が何本も入っていた。


「庭園にオリーブも植えるんですか」


「そうそう、向かいのビルからの目隠しにもなるからね」


 果林はその中に初めて見る苗木を見付けた。


「これはなんですか」


「これがカリンの苗木だよ、かなり急がせたみたいだよ」


「これがカリン」


「ピンク色の花が咲くんだとさ」


「実もなるんですか」


「そりゃあ、わっさわっさ」


 コンテナの前に座り込んだ果林は宇野を仰ぎ見た。


「わっさわっさ、ですか」


「果林ちゃん、俺とわっさわっさしちゃわない?」


「わっさわっさ」


「そう、わっさわっさ」


 果林は人の気配を感じた。


「う、宇野さん、宇野さん後ろ!」


 宇野の背後には眉間にシワを寄せ青筋を浮き立たせた宗介が仁王立ち、それまで調子の良かった宇野の顔は引きつった。


「宇野!おまえ、なにを勝手に果林をここに連れて来たんだ!」


 気が動転した宗介は果林を思わず呼び捨てにすると宇野の襟元を掴み上げていた。


「なにって企画室のメンバーなら来るべきじゃないのか!」


「ここに連れて来なかったのには理由があるんだよ!」


「理由ってなんだよ!」


 宗介は宇野と果林の顔を交互に見てその手を離した。


「・・・・・・すまん」


「おまえなぁ、果林ちゃんの事になると見境なさすぎるぞ。他の社員に示しが付かないんじゃないのか。そんなに心配なら現場から外せよ」


「すまん、気を付ける」


「頼むよ」


 宇野は宗介の肩を叩くと「さぁ、メシだ飯、休憩な」と他のメンバーを急き立てApaiserアペゼを後にした。残された果林と宗介は互いに気不味く青い芝生に目を落とした。


「名前を呼び捨てにして申し訳ありませんでした」


「いえ、大丈夫です気にしないで下さい」


 果林は野菜コンテナを指差しながら「カリンの苗は初めて見ました」と呟やき、宗介も「初めて見ました」とうなずいた。


「カリンの花言葉ってなんでしたっけ」


 果林はカリンの花言葉に話題を振ってしまい心底慌てた。


(あ〜、これってまずいよね、まずいよね!)


「果林さん、カリンの花言葉は<唯一の恋>です」


「あ、え〜とそうでしたね!鯉、鯉が池からビチビチ〜っと!」


 おどけて見せたが時既に遅し。宗介の眼差しは熱を帯びていた。


(えええええと)


「唯一の恋です、果林さん」


「はい、そうですか、そうですね」


 果林はこの場所から逃げ出したい衝動に駆られた。


「私が以前、chez tsujisakiしぇ つじさきのテラス席で言った言葉を覚えていますか?」


「ええーーとどの事でしょう?」


 果林は思い当たることが多すぎて脇に汗をかいた。


「小町紅」


「この口紅の事ですか」


 果林はスーツのポケットから金のコンパクトを取り出した。


「私にもつけて下さいとお願いしました」


「確かにお願いされました」


 宗介は少し屈むとコンパクトを開きその紅を人差し指でなぞり果林の唇に色を落とし、果林の唇はほんのりと紅色に色付いた。


「果林さん、良いですか」


「よ、良いとはどのような意味でしょうか」


「私の唇に紅を付けても良いでしょうか」


「・・・・・え」


 果林は唖然としたが気付かぬうちにコクリと小さく頷いていた。宗介の薄い唇が果林のぽってりとした唇に重なった。それは軽く触れる程度だったがしっとりとした温もりが名残惜しそうにゆっくりと離れた。


(宗介さんってまつ毛、長いんだ)


 2人の視線が絡まり果林の頬は色付いた。


「ありがとうございます」


「あ、はい」


「では企画室に戻りましょうか」


「は、はい」


 宗介の唇には淡い小町紅が残り果林の心臓は今にも破裂しそうに脈打った。




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