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第4話 新しい暮らし

 青い空、白い雲。


「・・・・・はぁぁぁ」


 ブラックもブラック、真っ黒黒な職場を退職して1週間、果林はそれまで溜め込んでいたシーツやブランケットなどの大物を洗濯機に放り込んだ。眩しい日差しを浴びながらリビングルームで大の字になってみたが気分は低空飛行だ。


(んーーーーーーー!取れない!)


 2年間職場で着ていたカッターシャツにはあの忌々しい菊代の香水の残り香が染み付いている。羽織るたびに「申し訳ございませんでした」と頭を下げなければならない卑屈な自分の姿が頭を過った。


(ああ、洋服買い替えたいなぁ)


 銀行の預金通帳を広げて見たが残高はたかが知れている。それに勢いで退職したもののこれからの生活はどうすればよいと言うのか。果林は洗濯物を干し終えるとコンビニエンスストアへと走った。そして手にしたのは履歴書、その足でハローワークに向かったが25歳の女性パティシエールの求人は無かった。こうなればインターネットの企業ホームページの採用窓口に突撃あるのみだ。


ピコン


(また駄目だった・・・くぅぅぅ!)


 携帯電話のメールボックスに届くのは不採用<またの機会がございましたらよろしくお願い申し上げます>ばかりだ。


「このままでは来月のお米が買えない!」


 遥か昔、ベルサイユ宮殿で「パンがないならお菓子を食べれば良いじゃない」とマリーアントワネット妃が名言を残したが、現在の果林の財政状況はそれに近かった。今夜の食事は冷凍ご飯と焼き鳥の缶詰、ローテーブルで「いただきます」と手を合わせているとインターフォンが鳴った。


(・・・・誰だろうこんな時間に)


 宅配サービスの勧誘かといぶかしげな面持ちで玄関扉を開けると、深紅の薔薇の豪華な花束が目の前に飛び込んで来た。


「うわっ、な、なに!」


「果林さんこんばんは」


「そっ、宗介さん!」


 玄関先でにこやかに微笑んでいたのは仕立ての良い濃紺のスーツに焦茶のシルクのネクタイを締めた辻崎宗介だった。それは掃き溜めに鶴、築40年の1LDKのアパートに相応しくない異空間で思わず果林はたじろいだ。


「な、なんでわた、私のアパートをご存知なんですか!」


「私は果林さんの事ならなんでも知っていますよ」


「まさかスリーサイズまで!」


 果林は思わず両手で貧相、いや小振りな胸を隠した。


「んーーーー、残念ながらそれは分かりませんがそれは追い追い」


「お、おい、追い追いおいおい」


 宗介は深紅の薔薇の花束を果林に手渡すと満足げな顔をした。


「似合っています」


(どこがですか、私なんてぺんぺん草ですよ、ぺんぺん草!)


 次に宗介は一通の封筒を手渡した。薄水色したB4サイズの大きな封筒には辻崎株式会社のロゴが入っていた。


「これは、これは何ですか?」


「果林さん、これはあなたが新しい世界へと踏み出すためのチケットです」


「チケット」


「中身を確認して数日中に総務課のメールアドレスまでお返事を下さい」


「・・・・そう、総務課」


「はい。辻崎株式会社の総務課です」


 宗介はそれだけ告げると深々と頭を下げそれにつられて果林もお辞儀をした。カンカンと軽い音で錆だらけの階段を降りた赤茶の革靴はいつか見た黒い車の横に立った。すると運転席から黒いスーツの男性が小走りに降り、白い手袋で後部座席の扉を開けた。宗介は「また」といった雰囲気で片手を挙げると車内へと乗り込んだ。低いエンジン音を残して走り去る高級車、果林はそのリアウインドーを見送った。


「というか、宗介さんて誰?何者?」


 ローテーブルに置かれた深紅の花束を振り返った果林は大輪の薔薇の本数を数えてみた。25本だった。


「ま、まさか私の年齢もご存知ですって言う事だったりします?」


 果林の背筋に冷たいものが走った。


 果林は焼き鳥の缶詰にラップを掛けると手を洗いローテーブルの前で正座をした。


「いざ!」


 息を止めながらハサミを入れると薄水色の封筒には数枚の書類が入っていた。


(なんですか、これ)


 その書類には辻崎ビルにApaiserアペゼという新しいパティスリーがオープンするので企画準備段階からその後の運営に関わって欲しいという内容だった。数日中に返答すれば辻崎株式会社の人事課で面接が行われる。採用が決まれば6月中旬から勤務開始と記載されていた。


「・・・・こっ!これは!」


 こんなに美味しい話があるだろうか!果林は書類を手にリビングルームでクルクルと喜びのダンスを踊りアパート1階の住人から注意を受けた。携帯電話を手に画面をタップする。メールの宛先は辻崎株式会社の総務課だ。


「ぜひともよろしくおねがいいたします はしばかりん」


 是非とも宜しくお願い致します、羽柴果林。果林は1文字1文字ゆっくりと入力してメールを送信した。


「えいっ!」


 シュン!と音を響かせてメールは送信済みメールボックスに入った。


「採用されたいなぁ!いや、される、採用一択!これしかない!」


 果林の背後は断崖絶壁、このチャンスを逃す訳にはゆかない。


(・・・・にしても)


 退職願の封書を果林に「お守りです」と持たせ退職届を総務課部長と人事課部長に手渡したのは辻崎宗介だ。そして今、この薄水色の封筒と薔薇の花束を届けてくれた。辻崎宗介は果林の人生の水先案内人だ。


「一体、何者なんだろう」


 果林はチェストの上に置かれた小町紅の金色のコンパクトを見つめた。


コンコンコン


「失礼します」


 果林は肩までの髪をひとつにまとめ不本意だが菊代の香りがするワイシャツを着て面接会場となる総務課会議室の扉を3回ノックした。深くお辞儀をして顔を上げると総務課部長、人事課部長、その隣には鼻筋の通った切れ長の目でスポーティーな雰囲気の宇野うのと名乗る若い男性が座っていた。宇野はApaiserアペゼの企画部長だと紹介され、果林は握手を求められた。


「宜しくね。果林ちゃん」


(か、果林ちゃん!?)


 果林が宇野の馴れ馴れしさに驚いていると人事課部長が眼鏡を上下させた。


「それでは羽柴さんは6月15日付けでApaiserアペゼ企画室に配属されます。雇用契約書にご同意頂けるようでしたらサインと印鑑を捺して6月14日までに一度総務課までいらして下さい」


「は、はい?」


「なにかご質問でも?」


「あの、私は御社に採用されたと言う事でしょうか?」


「はい、なにかご不満でも?」


「いっ、いえ、そんな不満だなんてとんでもない!」


 どうやら面接とは名ばかりで果林の採用は事前に決まっていたようだ。

「ありがとうございました」


 果林が深々とお辞儀をして総務課会議室から退室するとエレベーターホールの革張りのソファに見覚えのある後ろ姿が座っていた。短く刈り上げられた襟足、手櫛でかき上げた自然なオールバックの髪、幅広の背中は上質な仕立てのスーツを身にまとっていた。


「宗介さん」


「あっ、果林さん面接は終わられたんですか?」


「はい!」


 果林が親し気に宗介に駆け寄ると総務課の社員たちは驚いた目で一斉に振り向いた。


「・・・・?」


 女性社員が小声で話しているが聞き取れない。果林が不思議そうにしていると宗介がソファに座りませんかと座面を指差した。


「宗介さん、このまえは素敵なお花をありがとうございました」


「どういたしまして。私としては果林さんのお誕生日ですからもっとキラキラした物を差し上げたかったのですが」


「あっっ!誕生日!」


 宗介は左手を開いて見せたが果林にとってそれはどうでも良い事だった。日々の忙しさで忘れていたが薔薇の花束を手渡された日は果林の誕生日だった。


(まさか、誕生日までチェックしていたとは!)


 決して悪い人物ではないのだがここまで詳しく自身のプロフィールを把握されているとなると気味が悪い。


「26歳おめでとうございます」


「は、ははは・・・誕生日、ありがとうございます」


「そこでもうひとつあなたにプレゼントがあります」


「えっ、そんな!もう頂きましたし!」


「これです」


 差し出されたのは白いカッターシャツだった。


「これは」


Apaiserアペゼ企画部入社のお祝いです」


「え、なんで」


 まさに今、総務課会議室で入社の内定を言い渡されたにも関わらず宗介はその事を把握していた。


(・・・・・Mサイズ)


 そしてカッターシャツのサイズまで合っている。


(恐るべし、辻崎宗介)




ーーーー6月15日




 果林は新品の白いカッターシャツのボタンを留め鏡を覗き込んだ。


(良い感じ)


 化粧はナチュナルに仕上げ口紅は宗介から贈られた小町紅をうっすらと塗った。黒いパンツのベルトを締めると気分も引き締まった。


「頑張るぞ!」


 羽柴果林、勤務1日目の朝。

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