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第10話 女の影

 翌日、大智は昼飯に素麺を思い切りすすると明穂の部屋で胡座をかいた。長い前髪を垂らし黒いTシャツにジーンズ姿の大智は明穂と付き合っていた頃を思い出させ思わず胸がときめいた。


「なに、ギャップ萌えだろ」

「あーーー」

「萌えたな」

「否定はしないわ」

「あーーー、おまえの事抱き締めてぇ」


 明穂は一歩後ずさった。


「昨夜のあれはなんなの」

「親父たちのショックを和らげる為にちかました」

「寝込んだらしいじゃないの」

「吉高の事を知ったら脳卒中だな」

「縁起でもない」


 新しいSDカードをデジタルカメラに差し込みながら大智は髪を掻き上げた。


「明穂」

「なに」

「その女に見覚えはないのか」

「分からない」

「だよなぁ」


 そこで明穂は大智に肝心な事を伝えていない事に気が付いた。


「あっ!」

「なんだよ変な声出すなよ」


「紗央里さんに会った事がある!」

「はぁ?見覚えないって言ったじゃねぇか」

「紗央里さんか如何か分からないけれど家に来た女性が居るの」

「なんだよそれ」

「荷物を持って来たの」

「荷物ぅ?」

「お腹が切られたぬいぐるみが入ってた」

「ば、馬鹿じゃねぇのか!早くそれを言えよ!」


 大智は寝込んでいる父親の車の鍵を奪い取ると明穂を後部座席に乗せた。


「大智、免許証持ってたんだ?」

「免許は持ってる」

「持ってるって運転した事はあるの!」

「これ踏んでハンドル回せば良いんだろ!」

「ちょ、ちょっとーーー!」


 明穂はシートベルトを絞めると強く目を瞑った。


 忌々しい我が家に到着する頃には大智も明穂も汗だくになっていた。


「日本って道路の向き反対なのな」

「なに当たり前の事言ってるのよ」

「死ぬかと思った」

「もう2度と大智の運転する車には乗らないわ」

「お、おう。これからは公共交通機関だな」

「なにそれ」

「タクシー」

「金持ちね」

「まぁまぁな」


チャリン


「ーーーーー」


 大智に手を引かれ玄関ポーチに立った明穂の指先は震えた。一昨日まで住んでいた場所が明穂を拒否して居るかの様な錯覚に陥った。


「おまえ、真っ青だぞ。鍵貸せ」

「う、うん」

「家入ったら必要なもん掻き集めろ、車に積むから」

「洋服は、2階か?」

「うん」


 その作業はまるで夜逃げ、明穂は吉高と紗央里に屈服したかの様で悔しさを感じた。案の定、台所の鍋や皿の位置が変わっていた。干してあった吉高の洗濯物は折り目正しく畳まれソファの上に置かれている。


(ーーーなに、なにこれ)


 明穂の洗濯物は無造作に床に放置されていた。この屈辱、涙が滲んだ。


(泣いたら負け)


 明穂は目尻を拭うとリビングのチェストから障害者手帳や保険証書、実印や銀行通帳を鞄に詰めた。部屋を見回すと結婚式で微笑む2人のフォトフレームが目に留まった。明穂は無言で立ち上がるとそれを手に取り大きく振りかぶって床に叩き付けた。なにかが割れた音に大智が2階から駆け下りるとガラスの破片の中に無表情の明穂が佇んでいた。


「おいっ!おまえなにしてんだよ!」

「幸せになれると思ったの」

「動くな!」

「幸せだと思っていたの」

「動くなって!」


 パリパリとガラスの破片を踏んだ明穂の足裏には血が滲んだ。大智は靴を履いて明穂に駆け寄るとその身体を抱き上げた。


「幸せだと思っていたの」


 大智は明穂を抱き上げたままソファに腰を下ろした。明穂はその胸にしがみ付くと嗚咽を漏らした。大智の指先は戸惑ったがそれは明穂の背中に回され思い切り抱き締めた。


「これから俺が幸せにしてやるから」

「ーーーーー」

「泣くな、あんな奴の為に泣くな」

「うん」

「泣いたら負けだ、泣くな」


 静かな時間に明穂の慟哭どうこくが響いた。


「ーーーよし、これで全部積み終えたな」

「ありがとう」

「冬物の服は良いのか」

「また買い直す」


「おーーー、俺が買ってやるよ」

「え、そんな悪いし」

「なに言ってるんだよ、そんときゃ俺ら夫婦だぞ」


 目を腫らした明穂は力無く微笑んだ。


「ところでこれ如何するんだ。いきなり全部持って行ったら今度はおまえのとーちゃんが寝込んじまうぞ」

「大丈夫、夕方お母さんと買い物に行くみたいだから」

「その時部屋に運ぶか」

「うん」


 そして2人の視線は物置の扉に注がれた。


「此処か」

「うん」


 大智が物置の奥に手を伸ばすと段ボール箱が有った。確かに箱の大きさの割に中身は軽くそれはいとも簡単に取り出す事が出来た。


「開けるぞ」

「うん」


 大智はその中の猫のぬいぐるみを見て顔色を変えた。カッターで引き裂かれた腹からは小粒の発泡ビーズが溢れ落ち、その中に黒いメッセージカードが埋め込まれていた。大智がそのカードを開くと金のボールペンで文字が書かれていた。


死ね


 明穂を振り向いたがそのカードには気付いていない様子だった。大智はそれらを段ボール箱に戻すと蓋を閉めた。


「これをその女が持って来たのか」

「うん、宅配便の人の格好をしてたの」

「明穂の目が見えない事を知っていたのかもしれねぇな。でもなんでだ」

「それはーーー吉高さんが」

「馬鹿に付ける薬はねぇな」


 大智がふと見上げると防犯カメラが目に入った。


「明穂、あれ動いてんのか」

「あれ?」

「防犯カメラ」

「うん、録画されてる」

「よっしゃ!その女の顔が写ってるかもな!」


 ところが大智が確認したところ肝心の顔が撮れていなかった。ただひとつ、使われた車が宅配便業者の車では無くごく一般的な軽自動車である事が判明した。


「この車種、ナンバープレートは  、レンタカーか」

「レンタカー」

「ちょっと当たってみよう」

「分かるの?」

「車借りる時に身分証てぇのを出す決まりなんだよ」


「この日付に借りた女が、紗央里なら脅迫行為に当たるな」

「強迫行為」

「おまえへの精神的苦痛で慰謝料上乗せだ」

「慰謝料」

「がっぽり頂くぞ」


 そしてもうひとつ紗央里に繋がるであろう事実が判明した。


「明穂、紗央里は病院関係者かもしんねぇ」

「如何して」

「この段ボール箱、点滴用のパックが入っていたもんだ」

「点滴」

「看護師かもしんねぇな」


 顔の分からない女の影が見えて来た。


 翌日、大智は髪を後ろに撫で付け背広を羽織ると弁護士バッジを光らせながら革靴を履いて出掛けた。その背中は逞しく5年前の大智とは違うのだと明穂は再確認した。


「行ってらっしゃい」

「おう、行ってくるわ!」


「なによ」

「良いな、これ」

「なにが」


「新婚夫婦みたいじゃん」

「しーーーーっ!お母さんたちに聞かれたら如何するの!」

「如何もしねぇよ」

「もうっ!」



 微笑ましいひととき。



 大智を笑顔で見送った明穂はデジタルカメラを首から下げると白杖はくじょうを手に玄関の扉を閉めた。白杖で足元の点字ブロックを辿り横断歩道を渡っていつもの散歩道を歩いた。自宅から程近い児童公園には子どもの笑い声が響いていた。


(あ、ウグイス)


 明穂は鳥のさえずりや公園のブランコの揺れる音に向けてシャッターを切った。


(今日は鳩が居ないのね)


 いつもは樹の下の木製ベンチの周りには何羽かの鳩が喉を鳴らしているが今朝はその気配が無い。不思議に思いシャッターを切っていると砂利を踏む音が近付き明穂は背後を振り返った。


カシャ


 その瞬間、明穂の視界が宙を見上げ青い空が広がった。天と地が真っ逆さまになり後頭部が地響きを感じ鼻腔に振動が届いた。何故こうなってしまったのか理解出来ないで居ると周囲が騒がしくなった。「大丈夫ですか!」「捕まえて!」「大丈夫ですか!」起きあがろうとするとそれは制止されやがて救急車のサイレンが近付いて来た。


(私)


 明穂はようやく自分が転んだのだと理解した。遠のく意識の中、救急隊員の聞き取りで通り掛かりの女性にのだと知った。


 明穂は暗い世界に居た。ひとりきりで明かりが灯る方へと幾度となく手を伸ばしたが板に貼り付いた身体は前に進む事は無かった。身動きが出来ず藻搔もがいていると深い滝壺が現れ身を乗り出したが飛び込む事も叶わなかった。


大丈夫


 誰かが耳元でささやいた。


大丈夫


 暗がりにぽっと明かりが点き顔を上げると何処かで見た様な若い男性が明穂を見下ろしていた。「あぁ、こんな顔をしていたのね」そんな自分の声が頭の中で響いた時、暗い世界がめりめりと音を立てて明るくなった。涙が溢れた。


「大智」

「明穂、明穂!起きたぞ、看護婦!医者を呼べ!医者!」


 らしく無く慌てふためいた様子の大智が廊下に走り出ると大声で叫んだ。その声に弾かれた様に目を真っ赤に腫らした母親と不安げな父親が明穂を見下ろした。


「あぁ、明穂、良かった!良かった!」

「私、如何したの」

「公園で転んでずっと起きなくて、もう駄目かと、良かった」

「転んだの」

「そうよ、転んだの」

「誰かに押されたんじゃなくて?」


 両親は黙り込んだ。公園で遊んでいた子ども連れの母親たちは皆、長い髪の女が明穂にぶつかったと口を揃えた。ただそれが意図的なものか偶発的なものかは定かでは無いらしい。


「明穂、これが紗央里、佐藤紗央里だ」


 大智は明穂の目の前にデジタルカメラを差し出し液晶モニターを見せた。そこには木製ベンチに長い黒髪の女性が座り画面をコマ送りする度にその面差しは明穂へと近付いて来た。それは無表情で宅配便業者を装った女性に酷似していた。


「佐藤さんというの」


 最後の画面には青い空と明穂を見下ろす紗央里が写っていた。


「これは明穂に対する傷害罪の証拠になるかもしれない」

「傷害罪」

「そうだ」


 明穂が倒れ込んだ場所は芝生が敷き詰められていた。あと10cmでコンクリートの遊歩道だったと言う。その頃大智は金沢市内24箇所のレンタカー店舗を回っていた。ただ、軽自動車を扱う店舗は少なく数店舗目で佐藤紗央里に辿り着いた。


「佐藤紗央里の住所も分かったぞ、材木町ざいもくちょうだ」

「病院から近いのね」

「それに面白い事も分かった」

「面白い事」

「まぁそれは後のお楽しみ」


 明穂は白い天井を見て周囲を見渡した。


「此処は何処?」

「大学病院」

「吉高さんの病院に運ばれたのね」


 そこで母親が明穂の手を握った。


 明穂の手を取った母親は涙を流した。


「お母さん、泣いてるの?」

「ごめんね」

「なにが?」


 母親が父親に向き直ると軽く頷きその肩に手を置いた。


「吉高さん、一度も此処に顔を出してくれなかったのよ」

「そうなの」

「それで大智くんに尋ねたら教えてくれたの」

「なにを?」

(ーーーーまさか)


 母親の背後に大智が立ち眉間に皺を寄せた。


「ーーー大智!」

「もう隠しておけないだろ」

「言ったの!?」

「吉高が来ねぇ方がおかしいだろ」


 大智は吉高の不倫行為と明穂が離婚を望んでいる事をつまびらかにした。そして現在、吉高と愛人への慰謝料請求に必要な証拠を集めている事も正直に打ち明けた。


「明穂の怪我、その人が原因なのね」

「そうかもしれない」

「大丈夫なの」

「大智が居るから大丈夫」

「ーーーーそう」


 父親は大智に深々と頭を下げ「明穂をよろしく頼む」と懇願した。


「おじさん、うちの両親にこの事は黙っていてくれませんか」

「大智くん」

「吉高にけじめを付けさせます」

「分かった、約束しよう」


 そこで担当医師と看護師が病室に駆け付け問診や脈拍を計測し始めた。


「明日、もう一度MRI検査とCTスキャン検査を行います」

「宜しくお願い致します」


 そこで大智が右手を差し出した。


「明穂、家の鍵貸してくれ」

「良いけど、鞄のポケットに入ってる」

「さんきゅ」

「如何するの」

「取りに行かなきゃならねぇんだ」


 大智は明穂の手を握ると「任せておけ」と笑顔で頷いた。

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