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第9話 明穂

 京都の大学病院の学会に一泊二日で参加したという吉高の顔は魂が抜けた様に惚けていた。しかも明穂が使っているオードトワレは微香でこんなに強い匂いではない。


(頭が痛くなりそう)


 それに吉高の体臭がいつもと違う。スーツからは畳のい草の匂いがした。


(紗央里さんと一緒に居たのね)


 つい、吉高と紗央里の情事を想像し悪寒が走った。土産だと手渡された生八つ橋は事前に通信販売で取り寄せた物だろう。「ありがとう、気を遣わなくて良いのに」そう微笑みを浮かべ受け取ったが今すぐにでもゴミ箱に捨てたい衝動に駆られた。


(これは明日のごみ収集に出すしかないわね)


 吉高は「教授の話が長くて疲れたよ」と在りもしない学会の愚痴を溢しながら風呂場へと入って行った。吉高が妻と同じ銘柄のオードトワレを不倫相手に買い与えているとすればボディーソープやシャンプーも自分の家と同じ銘柄の物を紗央里の家に常備している可能性があった。


(気持ち悪い)


 吉高のもうひとつの顔、もうひとつの家が存在する事に吐き気がした。


(美味しくない)


 紗央里にうつつを抜かし誠意の欠片も無い顔と向き合って夕飯を口にしたがまるで砂を噛んでいる様で味がしなかった。


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 新婚当初は別々のベッドで眠る事に寂しさを感じたがこの不協和音にあってはツインベッドで良かったと心から安堵した。然し乍ら安眠は訪れず霞がかった朝を迎えた。


「どうしたの、顔色が悪いよ」

「あまり眠れなくて」

「明穂は家の中に引き篭もっているから運動不足なんじゃない?」

「ーーーーえ」

「お義母さんの家に遊びに行ったら?」


 呆れた。


「そうね、そうしようかな」

「今晩、泊まってくれば?」

「泊まるなんてそんな急に、お母さんも困るわ」

「そうしなよ気分転換にもなるよ」

「そうかな」

「うん」


 吉高は紺色のネクタイを締めながら機嫌良く出勤して行った。確かにこのままでは息が詰まって憎悪の沼で溺れてしまいそうだった。


 明穂は思い悩んだ挙句実家に泊まる事にした。


「ただいま」

「あら!吉高さんはどうしたの、今日は一緒じゃないの?」

「うん、いつもより出勤時間が早いんだって」

「なら電話してくれれば迎えに行ったのに」


 明穂がタクシーで実家の玄関先に乗り付けると母親は「吉高さんに送って貰えば良かったのに」と不思議そうな顔をした。確かにこれまで出勤退勤の道すがら送迎をしてくれたのだが今朝はその事について一言も触れなかった。もしかしたら紗央里の件で実家や田辺の家に顔を出し辛いのかもしれない。


(ーーー吉高さんも馬鹿ね)

「なんや明穂、疲れた顔して」

「そうかな」

うちん中にずっとおるからや、出掛けるぞ」

「う、うん」


 定年退職を迎えた父親は娘の帰りを喜び「鮎でも食べに行こう」と金沢市郊外まで明穂を連れ出した。


「吉高くんも誘った方が良かったかな」

「吉高さんは忙しいから」

「やり手の医者らしいな、近所でも有名や」

「そうなの?」

「そうや、仙石の家もうちも自慢の息子やって鼻高々や」

「大袈裟」

「いや、ほんとやぞ」


 満面の笑みで娘婿の自慢話をする父親に吉高の不倫や離婚を考えている事など到底切り出せる雰囲気では無かった。そこで大智の話題が上った。


「大智くんも偉い立派になっとって驚いたわ」

「本当にそうね」

「私もびっくりしたわ」

「ありゃ、明穂はもう会ったんか?」

「あ、あぁ、うん」


 大智が勤務する佐倉法律事務所は東京都に事務所を構えており大智は東京のマンションに帰っていた。なんでも金沢市に戻ってこちらでの勤務先を探しているのだと言った。


「Uターンてやつね」

「勿体無い、東京の方が楽しいやろ」

「まぁ大智くんが帰って来たいって言うんだから良いんじゃない?」

「ところで、田舎に戻ってまでやりたい事ってなに?」


「わからん」

「なんだろ」

「若い人の考えている事は分からないわぁ」


 そこで明穂は大智の名刺を母親に預けておこうと考えた。


「ねぇお母さん、忘れ物を取りに戻りたいの」


 ところが母親は婦人会の会合に出席しなければならず父親は既にビールを呑んで赤い顔をしていた。


「今日じゃないと駄目なの?」

「大智の連絡先なの、大事な物だからお母さんに持っていて貰いたいの」

「分かったわ、明穂は言い出すと聞かないから」

「頑固なところは母ちゃんに似たんや」


 明穂がそこまでこだわった理由はもうひとつ有った。結局大智は吉高に会いに来なかった。そこにはなんらかの理由があるからだと考えた明穂は大智の名刺を吉高に見られてはならないと思った。


「10分で戻りますから待っていて下さいますか?」

「あぁ、料金メーター止めておきますわ」

「ありがとうございます」


 明穂がタクシーを降りると玄関先に柑橘系の香りが漂っていた。それは玄関扉のドアノブ辺りから匂い立ち、鼻先を近付けるとシャネルのチャンス オー ヴィーヴ が(私は此処にいるわ)と自己主張した。


(ーーーまさか)


 明穂の心臓は昂り呼吸が乱れた。音を立てないようにゆっくりと鍵を回して解錠し玄関扉を開いた。白いダウンライトの下には自分の物ではない白いサンダルが揃えられていた。こめかみが脈打ち全身の血が逆流するのを感じた。


(そんな、まさか)


 明穂はリビングのチェストからデジタルカメラと大智の名刺を取り出した。名刺はショルダーバッグのポケットに入れ、指先は自然とデジタルカメラの電源ボタンを押していた。微かな起動音に口腔内が乾いた。


(オートフォーカス、フラッシュはーーー無し)


 もし、もしその場所に誰かが居たとして、それがどんなに衝撃的な場面であっても迷わず撮影ボタンを押す。けれど相手に悟られてはならない。明穂の手のひらには汗が滲み、手摺りから指先が滑り落ちそうになった。裸足の足裏が階段に貼り付いて気持ちが悪かった。


(あぁ)


 寝室の扉は僅かに開いていた。


(あぁ、やっぱり)


 明穂はひざから崩れて行きそうな感覚に捕らわれた。ひじが落ち着かず手首が小刻みに震えた。薄暗い部屋のカーテンの隙間から伸びる夕暮れに2人の姿が浮かび上がった。


「あっ、あっ」


 荒い息遣いに熱気が篭る寝室。吉高はベッドに脚を投げ出し豊かな乳房に手を伸ばしていた。紗央里は吉高の下半身に跨り激しく腰を上下させている。明穂は自宅で繰り広げられる痴態に顔を背けた。然し乍らこれは決定的な不倫の証拠になる。


(見つかってもいいわ!)


 意を決しわきに力を込めてデジタルカメラの撮影ボタンを押した。


「ああっ」

「んっ!んっ!」


 絶頂が近い2人はデジタルカメラのシャッター音にも気付かず腰を振り続けた。俯き加減の紗央里の表情は見えないが、仰向けになり無我夢中の吉高の顔はSDカードの中に収められた筈だ。


ぎしっぎしっぎしっ


「ああっ」

「さお、紗央里!」

「あっ、あっ、あっ」


 激しく軋むベッドのスプリング音、2人の汗の臭いに絡み付くチャンス オー ヴィーヴ に吐き気を催した。胃から込み上げる悲しさや憎しみ、おぞましさを堪えて階段を降りた。


「ああっつ!ああっ!」

「で、出る!」

「出して!出して!ああ!」


 明穂はサンダルに足を入れようとしたが足首が震えて上手く履けなかった。らちが明かずサンダルを手に持ち素足で玄関ポーチを飛び出し慌てて玄関扉を施錠した。


(早く、早く此処から!早く!)


 タクシー乗務員は運転席のシートを倒し一休みしていた。後部座席の窓を小刻みに叩くとその音に気付きドアがゆっくりと開いた。


「お客さん、大丈夫ですか、顔色悪いですよ」

「あ、ありがとう、早く、早く行って下さい」

「あ、はぁ」

「早く!」


 明穂の手には辛い現実だけが残った。


 タクシーの後部座席で明穂はデジタルカメラのモニターを見た。近距離で撮影した吉高の顔は写っていた。ただし、その面立ちが鮮明かどうかは大智に確認して貰わなければ分からない。


(画像がぼやけてなければ良いけど)


 流れる車窓に虚な自分の顔が映った。


(この目が見えていたら、こんな事にはならなかったのかも)


 一筋の熱いものが頬を伝う。


(もうあの家には帰りたくない)


 明穂はなにか理由を付け実家に身を寄せようと考えた。


(逆に吉高さんは喜ぶわね)


 自虐的な笑みが溢れた。


(あぁ、荷物、障害者手帳も保険証書も着替えも欲しいわ)


 吉高の出勤時間にあわせて自宅に一旦戻る事を考えた。


(ーーーーあ!段ボール箱!)


 紗央里と思わしき人物からの気味の悪い荷物の存在を大智に伝えなければならない。実家に帰宅した明穂は婦人会の会合から戻った母親に頼み大智へ電話を掛けた。


「もしもし、大智?」


=この電話はお繋ぎする事は出来ません、電波の=


 大智の携帯電話は繋がらなかった。


「あら、繋がらなかったの」

「うん忙しいのかな」

「そうね、まだ17:00だもの、弁護士さんは忙しいのよ」

「ーーー17:00」


 吉高はこんな早い時間から愚かな行為に耽っていた。父親が自慢げに話す優秀な外科医は何処にもいない。


(私、そんな|医者《ひと》に手術されたくないわ)


「どうする?大智くんにもう一度電話してみる?」

「発信履歴で掛け直すから大丈夫、ありがとう」

「で、これからしばらく実家うちに帰るなんて如何したの」


 明穂は母親に痛い所を突かれたが吉高の不倫行為を匂わせる良い機会ではないかと考えた。大きく息を吸い、深く吐いて戸惑う振りをした。母親は明穂の思惑通りにいぶかしげな顔をした。


「如何したの、なにかあるの」

「それが」

「それが如何したの、喧嘩でもしたの?」

「吉高さんが最近冷たくて」

「冷たいって」

「仕事が忙しいのかなぁ、外出も多くて会話が少なくて寂しいの」


 母親は安堵の表情を見せた。


「なんだ、そんな事!28歳、働き盛り仕方ないわよ!」

「でも、お泊まりも多いのよ」

「そりゃあ緊急の手術もあるでしょ、お医者さんの奥さんなんだから明穂が支えてあげなきゃ」

「でも変なの」


 そこで若き日の父親に話題が飛び火し良い具合に収まった。


「あんたのお父さんも若い時は接待だとかなんとか家に居たためしがないわよ、ね、お父さん!」

「あ、あぁ。そんな事もあったかなぁ」

「浮気かと思って心配したのよ!」

「そ、そんな筈ないだろう!」

「浮気、如何しよう」


 母親は明穂の肩を軽く叩いた。


「あんな真面目な吉高さんに限って浮気なんてない無いない!」

「そうかな」

「そうよ!」


 これで実家の父親と母親にはを打つ事が出来た。後は仙石の義父母だが此処は様子見で大智と話し合おう。


「じゃ、ちょっと休むね」

「夕ご飯には降りて来なさいね」

「分かった」


 明穂は階段を上り2階の自室へと向かった。現在いまの新築の手摺りはまだ硬く手のひらに馴染まず他人顔をしている。然し乍ら幼い頃から掴まって上った実家の木製の手摺りの表面は滑らかで心が落ち着いた。


(ーーーーふぅ)


 自室の扉を開けると懐かしい匂いが明穂を包んだ。家具の配置は今も変わらずそのままだった。窓ガラスを開けると夏の湿気を含んだ夜風がカーテンを揺らした。


ぎしっ


 明穂は窓際のベッドに腰掛け大智との無邪気な時間を思い出した。





<ほら!受け取れ!>

<な、なに>

<そこだよ、左ひだり!>


 ベッドの上には紙コップが落ちていた。


<引っ張るぞ、離すなよ!>

<こ、こう?>


 明穂の自室の向かいが大智の部屋だった。椿の垣根を挟んだだけの距離は糸電話で2人を繋いだ。


<耳、耳に当てろ>

<うん>


 大智の息遣いが聞こえ、それは木綿糸を伝って明穂の耳に届いた。


<付き合ってくれ>

<え!>

<でけぇ声出すなよ、ばばぁが起きるだろ>

<ばばぁって口悪すぎ>


<明穂、好きだ。付き合ってくれ>





 それは明穂が高等学校に上がり大智が電子機器の会社に入社した春、沈丁花じんちょうげの花の香りにせ返る深夜の逢瀬だった。ただその恋は5年で終わりを告げ大智は渡航し行方知れずとなった。


「明穂ちゃん、僕と結婚してくれないかな」


 その後明穂は吉高と結婚したが、実はその間も大智は明穂に手紙を送り続けた。然し乍らそれらは吉高の手で封印された。


(大智の手紙を隠してまで吉高さんが守ろうとしたものはなに?)


 処女を捧げた吉高はたった2年で明穂を裏切った。この結婚に元より愛情はあったのだろうかと目頭が熱くなった。


(大智の事、嫌っていたよね)


 比較され続けた双子の兄弟は明穂を真ん中に微妙なバランスを保っていた。それが大智と明穂が交際を始めた事で脆く崩れてしまった。吉高は大智が大切にしていた明穂を奪う事で優位に立ちたかったのかもしれない。


(それなら良き夫であり続けて欲しかった)


 まるで自身を景品の如く扱われた事に明穂は悲嘆に暮れ、次第に腹の底から沸々と激しい怒りが湧き出すのを感じた。


(吉高さんと紗央里さんには相応の屈辱を味わって貰おう)


 そこで明穂の携帯電話が大智からの着信を知らせた。


「大智、お疲れ様」

「なにが」

「お仕事だったんでしょ?」


 電話の向こうで一呼吸の間。


「ちげぇよ、新幹線の中だったんだよ」

「何処か出張に行くの?」

「おまえの頭は虫湧いてんのか」

「ひ、酷っ!」


 大智は佐倉法律事務所を退職し金沢市のとある法律事務所に転職が決まったのだと言った。現在は残りの有給休暇を取得中、自由の身で吉高の悪事をつまびらかにするのだと息巻いている。


「今、金沢駅に着いたところ、なんか有ったんだな?」

「ーーーうん」

「情けねぇ声出すなって。で、今、実家か」

「なんで分かるの!」

「分からない方がおかしいだろ、今から帰るおばさんに言っといて」

「なにを」

「腹減ってるんだよ!飯食わせろよ!」


 大智のこの暴君ぶりは明穂が落ち込まない様に、塞ぎ込まない様にと敢えてぶっきら棒に接してくれる優しさだった。


「分かったわ」

「おう!タクシー使うから15分くらいで宜しく!」


 呆れてため息を吐いた明穂だったがその優しさが有り難かった。


「はぁ〜、食った食った!おばさんの飯は美味い!」

「そんな褒めてもなにも出ないわよ」

「て、メロン持ってんじゃん」

「相変わらず目敏めざといわね」


 やはり大智が来ると明るく場が和む。吉高は明穂と結婚し田辺家と縁付いても何処か余所余所しく堅苦しい。生来の性格とはいえこれ程までに正反対の兄弟も珍しいのではないだろうか。


「ほら、飲みなさい」

「あ、すんません」

「いや、良いね良い飲みっぷりだね」

「お父さん、あんまり飲ませないで」


 明穂の父親は明穂と大智が結婚し大智が義理の息子になるものだと思っていた。ところが大智がなんの相談もなく突然渡航してしまい田辺家と仙石家が仲違いしていた時期も有った。そこで吉高との縁談が持ち上がり両家は和解した。


「いやぁ、大智くんが婿ならなぁ」

「お父さん!」

「おじさん、今からでも遅くないっすよ!」

「大智!」


 父親は酔いに任せてビール瓶を傾けるのだが大智はかなり真剣な表情でグラスの泡をすすっている。


「ねぇ、大智くんが金沢に戻ってまでしたい事ってなんなの?」


 メロンに包丁を入れながら母親が振り返ると大智は右の眉を吊り上げ悪戯めいた笑みを浮かべ明穂を見た。


「そりゃあ、明穂と」

「ーーーーー!」


 明穂はその背中を思い切り叩いた。


グホッ


 グラスのビールが机に溢れ大智は激しくせた。大智の「おまえを奪いに行く」宣言はかなり本気のようだ。


「大智、あんたまさか」

「東京から戻る理由なんかひとつしかねぇじゃん」

「本気なの」

「吉高がーーー」

「しっ!まだお母さんにも言ってないのよ!」

「おっせぇなぁ」


 オレンジ色のメロンが食卓に並んだ。


「なに、メロン出すの遅かった?」


 ビールとメロンを平らげ水腹になった大智はデジタルカメラを手に明穂の部屋で大の字になって寝転んでいた。仙石家の軒先で風鈴のぜつが涼やかな音でクルクルと回った。




リーリー リーリー




「大丈夫?お腹壊さない?」

「そんときゃそん時だよ」


 鈴虫やコオロギの鳴き声を聴きながら明穂が撮り溜めたデジタルカメラの画像をコマ送りしていた大智は感嘆の声を挙げた。


「おまえこんな所まで出掛けるのか」

「うん、結構遠くまで1人で歩いて行ける様になったの」

「県立美術館か、久々に行ってみるかな」

「行ってみて、建て直した部分もあるから」


 大智は眉間に皺を寄せた。


「馬鹿か、おまえも一緒に行くんだよ。美術館の中にケーキ屋あるだろ」

「あ、あるね」

「デートだデート」

「人妻とデートは弁護士さんとしていかがなものでしょうか」

「幼馴染が並んで歩くぐらいなんでもねぇよ」


 そこで大智はおもむろに起き上がりその画面を凝視した。


「吉高」


 眼鏡を外した大智の顔色が変わった。


「この画像はいつ撮ったんだ」

「今日の夕方」

「何処で、まさか」

「うん、私の家の寝室で」

「マジか」

「うん」

「なにやってくれてんだよ」


 大智は後ろに撫で付けた髪を掻きむしると胡座あぐらをかいて数枚の淫らな画像をズームアップして見た。


「間違いない吉高だ」

「大丈夫?写真ボケてない?」

「何枚かは使える、女の顔は分かんねぇが吉高の顔は分かる」

「そう、なら良かった」


 大智はその大きな手で明穂の頭を撫でた。


「頑張ったな」

「証拠として使えそう?」

「使える。おまえ、目が見えなくて良かったよ」

「どうして」

「こんなには見た事がねぇ」


 SDカードに記録された画像は結合した陰部が鮮明に映る言い逃れの出来ない不倫現場の証拠写真だった。あとはこの吉高の下半身に跨り喘いでいる女の正体を突き止めるだけだった。


(これが、これが俺の実の兄貴かよ)


 大智はこの争い事の大凡おおよその青写真は既に思い描いていた。今回は身内の不祥事という事もあり明穂への慰謝料は家庭裁判所ではなく公証役場の公正証書で請求、ただし吉高とこの女にはそれなりの制裁を与えると決めていた。


「どうしたの、怖い顔して」

「もう一度聞く、真剣に答えろ」

「う、うん」


「おまえ、俺と結婚しろ」

「しろ、しろって命令形なの!?」

「どうなんだよ、するのか、しねぇのか」

「ーーーえっと」


「吉高とは離婚で良いんだな」

「うん」

「俺と結婚で良いんだな」

「うんって、ず、ずるい!」


 明穂の顔は真っ赤に色付いた。


「よし、決まりだな!婚約指輪は1.5ctカラットくらいで良いか!」

「ちょ、ちょっと」

「結婚式は鞍月くらつきの教会で決まりだな!」

「そ、それは」

「100日間の再婚禁止期間か」


 大智は手のひらを広げると指折り数えた。


「くそ面倒だな」

「あの」


 携帯電話を取り出すとカレンダーアプリを立ち上げた。


「クリスマスイブに挙式な!」

「い、イブ」

「さっさと片つけて教会の予約だな」


 吉高への復讐劇に前のめり気味の大智、取り残された感が否めない明穂だったがその横顔は頼もしく心強かった。


「吉高、落とし前はきっちり付けて貰うからな!」

「が、頑張って!」

「おう!」


 大智は不倫の証拠となるSDカードをスーツの胸ポケットに仕舞うと「明日、新しいカードを持って来るから待ってろよ!」と言い残して階段を下りて行った。


「ご馳走さんでした」

「また来てね」

「明日も来るわ」

「あ、そう。お素麺で良い?」

「卵宜しく、細っそくて薄っすいの」

「はいはいはい」


 そんな遣り取りが階下から聞こえて来た。ふと笑みが溢れ、それが壁に立て掛けた姿見に映った。明穂の面差しは柔らかな輪郭をしていた。


(大智が居てくれてーーー良かった)


 そして当然の事だが吉高から「泊まるのか」「いつまで実家に居るんだ」そんな電話は無かった。もしかしたら紗央里があの家の台所で自分明穂のエプロンを身に付けて素麺を茹でているのかもしれないと思うと身の毛がよだった。


(もう2度とあの家では暮らさない)


 吉高との暮らしがほんの数ヶ月の不倫で音を立てて崩れてしまった。世間では浮気は男の甲斐性と堪える女性もいると大智は言った。けれど妻を実家に追い遣り愛人を自宅に招き入れるなど言語道断。この先、子どもを授かり里帰りしようものなら好き放題するに違いなかった。


(紗央里と別れても吉高さんは同じ事を繰り返す、そんな気がする)


 明穂は深呼吸をして夜の空気を吸い込んだ。すると仙石家の中が何やら賑やかしい、義父母と大智が言い争っているようにも聞こえた。


(ーーーーえ、まさか!)


 直情型の大智の事だ。もしかしたら吉高の不倫の件を口にしたのかもしれないと明穂は耳をそば立てた。それは不要な心配だったが大智はとんでもない事を言い出した。


「なんで東京の事務所を辞めたんだ!」

「そうよ、やっと採用されたんでしょう、勿体ないわ」

「もう辞めた!再就職先も決まった!問題ねぇだろ!」


 それはそうだ。いつもの思い付きでUターン再就職したと叱責されてもおかしく無い。


「やりたい事があって帰ったらしいな!」

「チッ、あいつ口が軽いな!」


 まさか大智が両親に相談も無く金沢に戻って来るとは思ってもみなかったので明穂はその事を大智の母親義母に漏らしてしまった。


「大智、やりたい事ってなんなの?」

「まさか失敗して逃げてきたんじゃないだろうな!」

「俺がそんな下手するかよ!」


 机を叩く音がして明穂は飛び上がった。「この騒ぎはなんだどうした」と明穂の両親も様子を見に2階に上がって来た。


「どうしたの?」

「なんだかお義父さんとお義母さんが大智と喧嘩してるみたい」

「あらまぁ、珍しいわね」


 3人で顔を見合わせて居ると大智はについて言及した。


「結婚してぇ女が居るんだよ!」

「そうなのか」

「遠距離恋愛?でもあなたアメリカに居たんじゃ」

「金沢に居たんだよ!」


「なら紹介しなさい!」

「未だ出来ねぇんだよ!」

「如何して!」

「旦那が居るんだよ!」


「はぁーーーーーーーー!?」


 明穂を除く両家の大人たちは驚きの声を挙げた。そこで烈火の如く大智の父親義父が「不倫か!おまえ、不倫なのか!」と騒ぎ出した。


「そんなんじゃねぇよ、手も握ってねぇ(昔はキスしたけどな)」

「手っ、てっ、てててっつ!」

「親父、落ち着けよ」


「大智、弁護士が他所の奥さんと不倫なんて世間様が知ったら如何するの!」

「だーかーらー不倫じゃねぇから」

「どっ、どこの女だ!」

「心配するなって、近々紹介するから」

「大智!」


 階段を上る音がして大智の部屋に明かりが点いた。カーテンが開き大智と田辺一家がご対面である。大智はなにも言わずにVサインをするとカーテンを閉めた。


「な、なんだ」

「大智くん、如何したの」

「さ、さぁ」


 大智は着々とその日に向けて準備を始め、明穂は脇に汗をかいた。

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