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33 友達ってなんですか?

 あんなに愛おしく、彼女に必要とされるなら、他には何もいらないとさえ思った。

 それなのに……目の前にいる女は、一体何者だ?

 自分の脳みそが、どんどん冷たくなっていく。僕は存在を確かめたくて、彼女の手首をさらに強く締め上げた。


「痛いッ!」


 は悲鳴をあげ、激しく体をしならせた。


「離しなさいよ!」


 僕をきつく睨みつけてくる彼女は、もう僕の知っている冬花ではなかった。

 きっと彼女にとっても、僕はもう他人なのだろう。

 ふふふ、と頭上から笑い声が降ってくる。視線をあげると、ヨルは楽しそうにベッドの上へ寝そべり、冬花のショルダーバッグの中を漁っていた。

 少しの間があって、ヨルが中から取り出したのは――果物ナイフ。鋭利な先端が、ぎらりと鈍く光る。

 それを見た冬花の表情が強ばる。


「ヨルちゃん、やめてよ」

「最初から、僕を殺すつもりだったの?」


 冬花は僕にゆっくり顔を向けると、無言で懇願するように首を振る。それが嘘なのか、本当なのか。僕にはわからない。

 無言で探るように互いを見つめる僕たちを、ヨルは嘲笑する。


「ねえ」


 僕らは同時にヨルを見上げた。



 愕然とした。

 この十日間の出来事は、すべて記憶に残っている。

 だが、悲しいほどに、僕はもう冬花に対して『他人』以上の感情を持つことはできなかった。

 冬花にとっても、もう僕は他人なのだろう。僕を疎ましげに見上げる彼女の視線は、痛いほど辛辣だ。僕は冬花を組み敷いたまま、ごくりと唾を飲み込む。


「……どっちが死ぬべきだと思う?」


 冬花の瞳が、揺れる。

 細くて白い喉が、ごくりと唾を飲み込む。

 そうだ。僕らは、もう友達なんかじゃなかった。


 冬花と初めて出会ったあの日――。


 見ず知らずの彼女を介抱し、挙げ句、家まで送ろうとした僕の好意。

 今ならわかる。あれは、ヨルによって創られたものだったのだ。

 その証拠に、僕は今、彼女に対して微塵の好意も抱くことができない。

 僕が一生働いても手に入れられないような金を手にし、大勢の友人たちと共に過ごす、華やかな生活。

 さらに、僕が喉から手が出るほど欲している『友達』を『スペア』だと言い切って。

 いつかの朝。帰宅途中に、彼女の家の庭で目が合ったシーンが蘇る。

 冷たい視線。嫌なものでも見るような、あの目……。

 それは今も変わらない。

 僕を見上げる冬花の目は、汚物でも見るような、嫌悪感で満ちている。


 ――最初から友達じゃないと岡田へ向けた視線と同じだ。


 何様だよ。


 ようやくわかった。僕は彼女のことが最初から嫌いだったんだ。

 そして、きっと彼女も僕のことが嫌いなのだ。

 冬花の首に、そっと両手かける。形の良い唇が、「まって」と動く。両手で僕の胸を乱暴に叩き、両足で蹴り上げようとする。

 そのすべてが憎たらしかった。

 締め上げる指の力が、どんどん強くなる。

 誰か、止めてくれ。

 嫌だ。こんなこと、したくない。でも、誰も僕らに気づいてくれない。

 冬花は声にならない悲鳴をあげ、ガリガリと爪で僕の手の甲を引っ掻いた。

 陸にあがった魚のように、冬花は体をばたつかせる。遠くなっていく意識の外側で、ヨルの哄笑が響く。


 僕は一生懸命、彼女の命を奪おうとしている。


 きっと、僕は今、悪魔になっているのだ。

 今からでも遅くない。この手を離して包丁で自分の胸を刺せ。

 誰かを手に掛けるなんて、そんな恐ろしいことをするな。


 同時に、もう一人の僕が笑う。


 いやいや。この女のために死ぬなんて馬鹿げている。

 冬花の首を締め上げながら、必死に彼女との出会いから、楽しかった思い出を振り返る。けれど、手のひらからこぼれ落ちる砂のように、何の感情も湧かず、味のしないガムを延々と噛んでいるような虚無感に襲われる。


 ああ……友達を、殺してしまう。


 ――どれだけの時間が経ったのだろう。


 ふと気づくと、冬花の動きは止まっていた。

 恐る恐る彼女の顔を覗き込むと、冬花は苦しそうな表情を浮かべたまま、息絶えていた。


「冬花、ちゃん」


 体をつついても、彼女の体は人形のように重たくなっていて、ぴくりともしない。その瞳には涙が滲み、頬を伝っている。


 殺した……。

 僕が? 僕がやったのか?

 とんでもないことをしてしまった。


「うわあ!」


 情けない悲鳴をあげ、僕は彼女の体から飛び退く。これは現実か? 悪い夢を見ているんじゃないか?


 自分が恐ろしくてたまらない。自然と涙がぼろぼろと溢れてくる。冬花の亡骸にすがりつき、「許して」と泣いた。そんな自分が滑稽で、さらに涙が滲む。


「北村さんが悪いんじゃないですよ。やらなきゃ、やられていたんです。仕方ないです」


 一部始終を見ていたというのに、ヨルの声は明るい。まるで、コメディドラマでも見終わった子供のようだった。

 それがあまりにも憎たらしくて、僕は冬花を抱きしめたままヨルを睨みつける。


「面白かったですよ、北村さん」

「……悪魔なんかと契約をした僕が間違ってた」

「親友を二人作っておくべきでしたね。だから、色んな人と遊びに行ったら? と言ったのに」

「どうせ、十日がすぎれば他人に戻る魔法のくせに」

「それは北村さんの努力不足です」

「なんだと」


 ヨルはぴょんとベッドから降り立ち、動かない冬花を見つめる。彼女の頬を愛おしそうに手で優しく撫でると、


「北村さんにとって、友達ってなんですか?」

「えっ?」


 唐突な問いかけに、言葉が詰まる。

 僕にとっての友達?

 なんだ? 僕は、友達に何を求めていたんだ?


「夢を見過ぎなんですよ、北村さんは」

「……夢?」

「うふふ。十日間ありがとうございました。北村さんがどうであれ、ヨルは楽しかったです」

「うるさい。僕は、お前のことなんか大嫌いだ」

「そうですか。残念です。でも、ヨルと北村さんは、冬花さんを殺した悪友ですね」


 僕は目を見開く。


「さようなら、北村さん」


 その言葉とともに、ヨルは僕の目の前から姿を消した。同時に、抱きしめていたはずの冬花の亡骸も煙のように消えてしまった。

 無機質な病室に、僕は一人取り残された。

 得体のしれない悔しさと、腹立たしさ。記憶の中の冬花への愛情がまぜこぜになって、心がズタズタに引き裂かれたようだった。


「ああああああ」


 叫び声をあげ、無茶苦茶に壁を殴る。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。とんでもないことをした。ああ!

 やがて、騒ぎを聞きつけた看護師がやってくると、


「北村さん、うるさいですよ!」


 そう言って、僕を厳しく叱咤した。

 そこには親しみはない。すべてが僕にとっての他人になっていた。

 僕は冬花のショルダーバッグを引き寄せる。

 祈る気持ちで中を見ると……そこには、酒と僕への見舞いの品だとわかる果物が入っていた。

 ――ナイフは、このため?


 これほど虚しいのに、記憶の中の冬花は、僕を愛おしそうに見つめるのだった。

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