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31 嫌なこと

 時刻は二十三時を回った。消灯時間はすでに過ぎ、しんと静まり返っている。

 入院費は高くついたが、僕は個室で入院することにした。


 どうせ使い道のない貯金なのだ。どうでもいい。


 それに大部屋で入院するとなれば、友達化した同室の人たちが話しかけて来るに違いない。

 今は他人と関わることがひどく煩わしい。

 あんなに友達を欲していたのに、最後は一人になりたいと思うなんて皮肉なものだ。


 薄闇の中、携帯電話が震える。さっきからチャットアプリの通知が止まらない。

 宮越くんが主任に事情を話してくれたのだろう。職場のグループチャットは僕を心配するメッセージで溢れかえっていた。


 まがい物の友情なのに。


 いちいち返信する気も失せ、見なかったことにする。

 唯一、派遣会社のエージェントには電話で事情を説明したが、彼女は市外に住んでいるのだろう。僕の体調を気遣ってくれたものの、声音は冷たかった。

 手のかかる派遣社員だ、とでも思っているのだろう。


 友達化していない人たちと話すのは久しぶりだったので、やはり世の中はこんなものかと落胆した。


 たとえ冬花ちゃんを手に掛けたとしても、僕が戻る世界はどうせろくでもない。


 僕は枕の下に手を入れた。硬くて冷たいものが触れる。そっと引き出すと、それは僕の部屋にあった包丁だった。


「……あの悪魔め」


 ヨルの嗤い声が聞こえるようだ。

 あれほど僕から死を遠ざけておいて、最後の最後にこれだ。悪魔の手の平の上で踊らされているようで気分が悪い。


 だが、悔しいが病院で死ぬにはこれしか方法がないだろう。

 病室のカーテンから漏れる微かな月明かりが、包丁の刃を鈍く照らしている。


 柄を強く握りしめたが、現実感がない。

 僕は何度、死を覚悟すればいいのだろうか。

 その度に、この世に未練なんてないと改めて思う。

 誰にも必要とされない世界をもう一度味わって死ぬぐらいなら、僕にとって都合のいい世界のまま終わらせたい。


 包丁の刃を指の腹でなぞりながら、十日前にも僕は同じことをしていたことに気づく。


 あの日から、結局何も変わらなかった。

 悪魔と契約をしても、僕は僕のまま。

 あと一時間もしないうちに、ヨルの魔術は消える。

 ちらと、ベッドテーブルに置いたままの携帯電話を振り返った。

 冬花ちゃんとは連絡がつかないままだ。


 …………。


 死ぬ前に、もう一度だけでも話がしたい。

 もし万が一……明日から彼女が僕のことを他人だと思ったとしても、僕にとって、彼女はただ一人の友達だ。

 僕は包丁をサイドテーブルに置き、冬花ちゃんへ電話をかけた。

 頼む、出てくれ。


 もう一度、会いたい。せめて声を聞かせてほしい。


 ツーツーツー。


 だが、何度かけ直しても、彼女は電話に出てくれない。

 もしかして、もうヨルの魔術が解けてしまったのだろうか?

 いや、そんなはずはない。

 ヨルは悪魔契約は絶対だと言い切っていた。裏を返せば、契約違反はできないということだ。

 携帯電話のディスプレイは、二十三時五十分という時刻を指した。

 もうここで、終わりにするべきか。

 携帯電話を布団の上に投げ出し、ベッドの上に座り直す。どくどくと心臓が痛いくらいに脈打つ。緊張で吐き気がする。


 今度こそ。今度こそ、僕は死ぬ。


 痛くないといいな。どうか、すぐに死ねますように。

 死ぬ前に看護師さんが通りかかったら、蘇生させられてしまうかもしれない。いや、ヨルのことだ。そのあたりも抜かりないのだろう。


 僕は暗い部屋で、ぎゅっと目を閉じる。


 冷たい刃が、喉元に触れる。


 と、不意に廊下からコツコツと床を叩く足音が聞こえてきた。看護師さんか? と、咄嗟に包丁を布団で隠したのと同時に、病室の扉が開いた。

 そこには、冬花ちゃんがいた。


「北村くん。こんばんは」


 異様な状況に、僕は言葉が出てこなかった。


「なんでここに? 消灯時間はとっくに……」

「看護師さんに言って、通してもらった」


 そんなこと出来るのだろうか。不審には思ったが、現に彼女がここにいるのだから、そうなのだろう。異様な事態だと分かっているのに、今はそれを追求する気になれなかった。


 冬花ちゃんはふらふらと覚束ない足取りで、ベッドサイドへ歩み寄ってくると、うっすらと微笑を浮かべた。大きなショルダーバッグを斜めがけにしていて、見舞い客として来るには、Tシャツと半ズボンという、ややラフな格好だ。


 急いで駆けつけてくれたのだろうか。それなら嬉しいが……。


 暗がりの中でも、彼女の頬が赤くなっているのがわかる。その様子から、またお酒を飲んだのだと悟った。少しだけ、顔もやつれているような気がする。

 僕の表情を見て、冬花ちゃんは気まずそうに自分の頬を手で撫で、


「ちょっと、嫌なことがあって……飲んじゃってた」


 と、視線を逸しながら言い訳がましく呟く。


「携帯も昨日から失くしちゃって……ほんとバカみたい、あたし」

「そう、なの?」


 なるほど。だからずっと連絡がつかなかったのか。

 意図的に無視をされていたわけじゃないとわかって、内心ほっとする。


「どうして僕がここに入院しているって知ったの?」

「それより、なんで入院することになったの?」


 僕のほうが先に質問をしていたのに、質問で返されてしまった。不自然に感じつつも、


「ちょっと、海で溺れちゃって」


 冬花ちゃんを殺す代わりに死のうと思った。なんて、口が裂けても言えるわけがない。


「そんな。危ないよ」

「うん、次は気をつけるよ」


 僕は、ちらりとサイドテーブルに置いた携帯電話を見る。時刻は二十三時五十二分。

 もう少しで、魔術が解けてしまう。


「体調はもう大丈夫なの?」

「うん、もうすっかり」

「……そう。良かった」


 冬花ちゃんは泣き笑いのような表情をつくる。すると、見る間に彼女の目尻から涙が溢れ、そのまま頬を伝ってこぼれ落ちた。

 僕が声をかけるより先に、彼女はその場に崩れ落ちるように座り込むと、声を押し殺して啜り泣く。僕は慌てて彼女に近づき、その肩を抱き寄せた。


「冬花ちゃん、何かあったの?」

「なんでもないの。なんでも……」

「それならなんで泣いてるの」

「ごめん、あたしが悪いの」

「え?」


 冬花ちゃんの声は震えていて、はらはらと涙が頬を伝う。

 こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎようとしている。彼女を心配する気持ちとは裏腹に、要領を得ない冬花ちゃんの態度に、少しだけ苛立ちが募る。

 ふと、背中に視線を感じたような気がして、僕は背後を振り返った。

 いつの間にか、ヨルが立っていた。

 病室の壁にもたれかかり、僕と目が合うと、面白そうに微笑む。

 何笑ってんだよ、とつい声が出てしまった。するとヨルはさらに目を細め、ポケットから何かを取り出した。見覚えのある、四角い……冬花ちゃんの携帯電話だった。


 こいつ……!


「お前が盗ったのかよ」


 思わず立ち上がると、冬花ちゃんは不思議そうに顔をあげる。そのまま、僕の視線を辿った彼女は、



 その言葉を聞いた瞬間、床がぐにゃりと歪むような感覚に襲われる。


 今、なんて?


 呆然として、声が出ない。

 ヨルは唖然とする僕たちを見ると、白い歯を見せながら笑う。


「携帯、盗んじゃってごめんなさい。お二人が電話をしちゃったら、面白くないと思って」


 冬花ちゃんは状況が飲み込めないのか、目を白黒させている。


「まだわからないんですか? 北村さんは冬花さんのために、死のうとしたんですよ」

「え?」


 冬花ちゃんはそこで初めて瞬きをすると、僕にゆっくりと振り返る。


「なんで? あたしのため? どういうこと? 意味がわからない」

「……冬花ちゃん。君も、ヨルと契約をしたの?」


 はっ、と冬花ちゃんが目を見張って喉を鳴らす。それが答えだった。

 ヨルはぴょんぴょんと軽い足取りで僕らへ近寄ってくる。硬直する僕らを横目で見ながら、我が物顔でベッドに腰を下ろした。

 そのまま長い足を組むと、とても楽しそうに微笑んだ。


「お二人は十日前、市内全員の人とお友達になれる契約をしましたよね」


 全身から体の力が抜けていく。

 心臓がうるさいぐらいに、どくどくと脈打った。耳鳴りに目眩。吐き気まで込み上げてきた。

 今にも倒れてしまいそうだ。全身の毛穴から、汗が吹き出てくる。

 凄まじい勢いで、脳裏に彼女と過ごした十日間の記憶が通りすぎていった。

 宮越くんが冬花ちゃんに馴れ馴れしく話しかけていたり、同窓会で僕の元に駆けつけてくれた時……車に乗り込む冬花ちゃんへ注がれていた人々の視線。


 ――「最初から、友達なんかじゃないよ」


 岡田に言い放った、彼女の言葉。


 ――「友達は、ちゃんと選ばないとだめね」


 ああ、選ぶって。そういうことだったのか。


「消灯時間が過ぎても病室に来れたのは……」

「ヨルが協力してくれたの」


 僕は額に手を当て、サイドテーブルに体を預ける。

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