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29 死に場所

 死に場所は、海に決めた。


 自分にとって、一番ふさわしいと思えたからだ。

 入水自殺が上手くいくのかはわからない。ただ、この世界からひっそりと消えたかった。


 海の藻屑になって消えるのが、北村太一という孤独な人間にはお似合いだ。

 海岸に戻ってきた頃には、すっかり夕暮れになっていた。


 嵐でも来るのだろうか。空は薄暗く、風が強いせいで雲の流れが早いし、波も高い。

 海岸に人の気配はない。風と波の音が鼓膜を震わすばかりだ。

 誰にも見咎められないのは都合がいい。顔を打つ砂の粒を払いながら、僕は一歩一歩、海に近づいていった。


 そういえば、コパンに餌をやっていなかった。


 ずっと世話をしてきた可愛い相棒だったのに。最後に頭を撫でてやればよかったかもしれない。

 ……いや、きっとあいつのことだ。僕じゃなくても飼い主になりたい人はたくさんいる。今頃、どこかの誰かに腹を見せて喉を鳴らしているに違いない。

 コパンも僕のことなど必要としていないだろう。

 今さらながら、彼に引っ掻かれた手の傷がズキズキと痛みだす。


 最期が喧嘩別れなんて、僕らしい。


 波打ち際までやってくると、生ぬるい波が僕の靴を舐める。誘われるように、一歩踏み出すと今度は勢いよく打ち付けた波で、くるぶしまで浸かった。

 ふと思い至って、携帯電話や財布を海の中へ放り投げる。

 死体があがったとき、身元がわかるのが嫌だったからだ。

 どうせ歯の治療痕や、指紋で判明するのかもしれないが。

 さらに一歩、もう一歩、とゆっくり海の底へ近づいていく。海水で濡れた下着が肌に張り付いて気持ちが悪い。だんだんと水も冷たくなっていき、体が震えてくる。

 腰の辺りまで海に沈んでくると、波に揉まれた瞬間、爪先が浮いた。

 ふわりとした浮遊感に、恐怖が這い上がってくる。

 このまま沖に向かって進めば、二度と戻れない。


 引き返すなら今だ。


 その時。ぽつりと冷たい滴が鼻先に落ちてきた。空を仰ぐと、厚い雲間から涙のような雨がぱらぱらと降ってくる。

 呆然と立ち止まっている間にも雨の勢いは増していき、あっという間に僕の体はずぶ濡れになっていった。


 人生最期の日にしては、あまりにも惨めだ。


 頬を伝う涙だけが熱を帯びていて、まざまざと生を実感する。

 僕は、まだ死にたくないのかもしれない。

 走馬灯のように、冬花ちゃんと過ごした思い出がよぎる。

 歯を食いしばりながら、恐る恐る一歩を踏み出す。


 さらに体が浮く。


 激しい波が、僕の体を飲み込む。

 もんどり打つように、僕は薄暗い海の中で溺れた。

 波に飲まれたとき、水を飲んでしまった。苦しい。

 反射的に抵抗しようと手足をばたつかせる。がぼがぼと、虚しく指が水を掻く。

 ほんのわずかに、爪先が海底に触れた。

 だが、ここで立ち上がってしまっては意味がない。


 少しの辛抱だ。


 ここで意識を失えば、全てが終わる。僕は冬花ちゃんを守って死ぬことができるのだ。


「北村さん、無茶なことをしますね」


 海中だというのに、その声は異様にはっきりと聞こえた。

 思わず目を開ける。真っ暗な闇の中で、赤く輝く二つの光があった。


 ……ヨル。


 その瞬間、ものすごい力で体が海面に押し上げられた。

 息を吸った瞬間、飲み込んだ海水が気管に入って激しく咳き込む。そんな僕の背中を、何者か――いや、ヨルが丁寧に撫でた。


 彼女は、まるで海水浴でも楽しむかのように立ち泳ぎしている。


「いつからそこに」


 ぞっとする僕にも構わず、ヨルは朗らかに笑いながら、


「逃げられないって言ったじゃないですか」

「逃げたわけじゃない。僕は死のうと思ったんだ」


 ヨルは目を細め、ぱちぱちと拍手をする。


「お友達のためにここまでやったのは、北村さんが初めてです。ちょっとびっくりしました」

「お前……」

「でも、まだ九日目です。そんなに生き急がなくてもいいじゃないですか」

「僕はもう決めたんだ。大切な人を殺すぐらいなら、死んだ方がマシだ」

「北村さんは、本当にロマンチストですね。だから、いつまで経っても本当の友達が出来ないんですよ」

「なに?」

「そんなに怒らないでくださいよ。ヨルは北村さんと喧嘩をしたいわけじゃないんですから」

「いけしゃあしゃあと、よく言う……」


 ヨルは微笑みながら、僕の額を指で小突いた。

 あ、と思ったときには遅く、ぐるりと世界が反転したような感覚に陥った。


「もう少し楽しみましょう?」


 ヨルの声が、遠くなる。

 僕の意識は、そこで途切れたのだった。

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