死に場所は、海に決めた。
自分にとって、一番ふさわしいと思えたからだ。
入水自殺が上手くいくのかはわからない。ただ、この世界からひっそりと消えたかった。
海の藻屑になって消えるのが、北村太一という孤独な人間にはお似合いだ。
海岸に戻ってきた頃には、すっかり夕暮れになっていた。
嵐でも来るのだろうか。空は薄暗く、風が強いせいで雲の流れが早いし、波も高い。
海岸に人の気配はない。風と波の音が鼓膜を震わすばかりだ。
誰にも見咎められないのは都合がいい。顔を打つ砂の粒を払いながら、僕は一歩一歩、海に近づいていった。
そういえば、コパンに餌をやっていなかった。
ずっと世話をしてきた可愛い相棒だったのに。最後に頭を撫でてやればよかったかもしれない。
……いや、きっとあいつのことだ。僕じゃなくても飼い主になりたい人はたくさんいる。今頃、どこかの誰かに腹を見せて喉を鳴らしているに違いない。
コパンも僕のことなど必要としていないだろう。
今さらながら、彼に引っ掻かれた手の傷がズキズキと痛みだす。
最期が喧嘩別れなんて、僕らしい。
波打ち際までやってくると、生ぬるい波が僕の靴を舐める。誘われるように、一歩踏み出すと今度は勢いよく打ち付けた波で、くるぶしまで浸かった。
ふと思い至って、携帯電話や財布を海の中へ放り投げる。
死体があがったとき、身元がわかるのが嫌だったからだ。
どうせ歯の治療痕や、指紋で判明するのかもしれないが。
さらに一歩、もう一歩、とゆっくり海の底へ近づいていく。海水で濡れた下着が肌に張り付いて気持ちが悪い。だんだんと水も冷たくなっていき、体が震えてくる。
腰の辺りまで海に沈んでくると、波に揉まれた瞬間、爪先が浮いた。
ふわりとした浮遊感に、恐怖が這い上がってくる。
このまま沖に向かって進めば、二度と戻れない。
引き返すなら今だ。
その時。ぽつりと冷たい滴が鼻先に落ちてきた。空を仰ぐと、厚い雲間から涙のような雨がぱらぱらと降ってくる。
呆然と立ち止まっている間にも雨の勢いは増していき、あっという間に僕の体はずぶ濡れになっていった。
人生最期の日にしては、あまりにも惨めだ。
頬を伝う涙だけが熱を帯びていて、まざまざと生を実感する。
僕は、まだ死にたくないのかもしれない。
走馬灯のように、冬花ちゃんと過ごした思い出がよぎる。
歯を食いしばりながら、恐る恐る一歩を踏み出す。
さらに体が浮く。
激しい波が、僕の体を飲み込む。
もんどり打つように、僕は薄暗い海の中で溺れた。
波に飲まれたとき、水を飲んでしまった。苦しい。
反射的に抵抗しようと手足をばたつかせる。がぼがぼと、虚しく指が水を掻く。
ほんのわずかに、爪先が海底に触れた。
だが、ここで立ち上がってしまっては意味がない。
少しの辛抱だ。
ここで意識を失えば、全てが終わる。僕は冬花ちゃんを守って死ぬことができるのだ。
「北村さん、無茶なことをしますね」
海中だというのに、その声は異様にはっきりと聞こえた。
思わず目を開ける。真っ暗な闇の中で、赤く輝く二つの光があった。
……ヨル。
その瞬間、ものすごい力で体が海面に押し上げられた。
息を吸った瞬間、飲み込んだ海水が気管に入って激しく咳き込む。そんな僕の背中を、何者か――いや、ヨルが丁寧に撫でた。
彼女は、まるで海水浴でも楽しむかのように立ち泳ぎしている。
「いつからそこに」
ぞっとする僕にも構わず、ヨルは朗らかに笑いながら、
「逃げられないって言ったじゃないですか」
「逃げたわけじゃない。僕は死のうと思ったんだ」
ヨルは目を細め、ぱちぱちと拍手をする。
「お友達のためにここまでやったのは、北村さんが初めてです。ちょっとびっくりしました」
「お前……」
「でも、まだ九日目です。そんなに生き急がなくてもいいじゃないですか」
「僕はもう決めたんだ。大切な人を殺すぐらいなら、死んだ方がマシだ」
「北村さんは、本当にロマンチストですね。だから、いつまで経っても本当の友達が出来ないんですよ」
「なに?」
「そんなに怒らないでくださいよ。ヨルは北村さんと喧嘩をしたいわけじゃないんですから」
「いけしゃあしゃあと、よく言う……」
ヨルは微笑みながら、僕の額を指で小突いた。
あ、と思ったときには遅く、ぐるりと世界が反転したような感覚に陥った。
「もう少し楽しみましょう?」
ヨルの声が、遠くなる。
僕の意識は、そこで途切れたのだった。