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28 本当の僕

 冬花ちゃんを殺さなければならない?


 ヨルの手を払い除け、僕は彼女から逃げるように海岸をあとにした。

 とんでもないことになった。


 取り返しがつかないことをしてしまった。


 心臓が早鐘を打つ。


 部屋に戻ろうかと思ったが、ヨルがいつ帰ってくるかわからない。二度とあの悪魔と顔をあわせたくなかった。


 転がるように無我夢中で走った僕は、気がつくと駅の改札をくぐっていた。

 ちょうど滑り込んできた電車に飛び乗ると、乗客たちが一斉に僕を見る。


 痛いくらいに突き刺さる視線と、今にも声をかけてこようと腰を浮かす人たちを見て、背筋がゾッとする。適当にあしらいながら、次の駅に着いた瞬間、我先にと車両から飛び出した。


 背中へかかる声を無視して、一気に駅の階段を駆け下りる。


 ただただ、気味が悪い。


 人がたくさんいるところに来れば少しは恐怖が薄れるかと思ったが、逆効果だった。

 友達化した人たちが全員ヨルの手下のように思えて、視線を感じるだけで吐き気がする。


 人気のない路地に逃げ込み、誰も通りかからないことを確認した僕は、ずるずるとその場に座りこんだ。


 目を閉じると、瞼の裏で冬花ちゃんの笑顔が弾けては消える。


 ――『冬花さんの命をください』


 茹だるほど暑いはずなのに、ヨルの声がリフレインするたび悪寒が走る。

 あの悪魔に、冬花ちゃんの命を差し出すわけにはいかない。


 なんとかしなければ。


 僕は携帯電話を取り出し、友達化した人たちの連絡先に、片っ端から電話やメールを送った。この中に、悪魔祓いについて詳しい人間がいるかもしれない。

 だが、結果的に期待するような返答は得られず、悪魔払いだの、宗教だの、エクソシストだのとしつこく尋ねる僕に、彼らの反応は二極化していった。


 一つは、「病院に行けば?」と一蹴する者。


 もう一つは、「それなら、私の教祖さまが」や、「地球と繋がれば、悪魔も滅せられる」などと、与太話に引き込もうとする者だ。


 いや、現に悪魔がいるのだから、彼らの中には本物がいるのかもしれない。

 しかし、今から一人一人に会って、効果を確かめるような時間は残されていなかった。

 それなら教会にでも行ってみようか。

 祓ってくれるかはわからないが、もしかしたら有益な助言が得られるかもしれない。

 僕は携帯電話で近場の教会を探した。

 もう日も傾きはじめている。早くしなければ、九日目が終わってしまう。


「無駄ですよ、北村さん」


 聞き覚えのある声と同時に、握っていた携帯電話を何者かに掴まれた。

 ハッとして振り仰ぐ。

 いつの間にか、僕を見下ろすようにヨルが立っていた。腰が抜けるほど驚いて、悲鳴をあげてしまった。ヨルは僕に構わず、奪った携帯電話の画面を見つめると、面白そうにほくそ笑む。


「今までも、彼らに頼った契約者達はたくさんいました。でも、ヨルは今ここにいる。どういうことかわかりますよね?」

「お前……」

「もう一度、読み返しますか?」


 ヨルが右手をかざすと、指先からボゥッと炎がゆらめいた。

 見つめている間にも、炎の中から焼き消されたはずの契約者が蘇っていく。すっかり元通りになったところで、僕に差し出してきた。


「い、いらない。こんなもの!」

 反射的に手で払う。


「北村さん。感情で動くクセ、直したほうがいいですよ」


 ヨルは呆れたように言いながら、契約書を拾い上げる。


「この契約は正当なものです。どんなに力のある退魔師がいたところで、悪魔との契約は破棄できません」

「……僕のこと、ずっと見張っていたの?」

「当たり前じゃないですか。まだ契約は終わっていないのですから」


 ヨルはゆっくり膝を折り、地面に座り込む僕の顔を覗き込んだ。まるでペットを慈しむように、僕の頬を両手で撫でる。


 赤い瞳の中に、怯えた僕の顔が映っていた。


「ヨルからは、逃げられません」


 瞬きをすると、ヨルの姿はもうどこにもなかった。

 足元には画面にヒビの入った携帯電話が落ちていた。一筋の希望のように思えたが、ヨルの言う通り、悪魔契約は絶対なのだろう。


 十万人の友達がいたところで、悪魔には敵わない。

 代償を支払ってでも、友達が欲しいと望んだのは僕自身なのだ。

 悪魔契約など、するべきではなかった。

 歪んだ方法で、他人の心を手に入れようとしたばかりに、冬花ちゃんを巻き込んでしまった。


 一体どうしたらいいんだ。


 路地の隙間から、行き交う人たちをじっと見つめる。

 こんなにたくさんの人が存在しているのに、世界中で一人ぼっちになったような気がした。


 僕は、何のために契約をしたのだろう。

 ただ、友達が欲しかっただけなのに。

 冬花ちゃんの細い体にナイフを突き立てる自分を想像しただけで、ぞっとする。

 そんなこと出来るわけがない。


 誰か……誰か助けて。


 こんなとき、縋れる相手は一人しかいない。

 冬花ちゃん。

 彼女の声を聞きたくてたまらない。震える指先で、冬花ちゃんの電話番号に電話をかけた。


『北村くん、さっきぶり。どうしたの?』


 スピーカーから明るい声が聞こえた瞬間、ほっと全身の力が抜けていく。


「ごめん、突然電話しちゃって」

『ううん? それよりどうしたの。ちょっと声が変だよ?』


 優しい声音を聞いた途端、ぽろぽろと目尻から涙が溢れた。

 僕のことを気遣ってくれる、友達。

 親にも見捨てられ、大した人間関係を築くことが出来なかった僕。

 そんな僕を案じてくれる人がいる。


 僕のたったひとつの居場所……。


 ああ、無理だ。彼女を殺すなんて出来っこない。


「なんでもないんだ。ちょっと声が聞きたかっただけだから」

『北村くん? 本当に大丈夫? 今どこにいるの?』


 問いかけには応えず、電話を切った。


 すぐに冬花ちゃんがかけ直してきたが、それも無視し、電源を落とす。

 このまま通話していたら、うっかり悪魔のことを話してしまいそうだった。そんな与太話をして、頭がおかしいヤツだと思われたくはない。

 彼女の声を聞いて、僕は自分の中で踏ん切りがついたような気がした。


『――じゃあ、あなたが死にますか?』


 ヨルは、はっきりとそう言った。


 冬花ちゃんを殺す事ができないのであれば、自分が死ぬしか無いということだ。

 さっきは気が動転してはっきりと答えられなかったが、こうして落ち着いて考えてみれば、それが最善なのではないかと思う。

 そもそも、落ちるところまで落ちてやれと決意をしたからこそ、ヨルと契約をしたのだ。


 どうせ最初から大した人生じゃなかったではないか。

 何一つうまくいかない人生。家族も、恋人も、仕事も、友達も。僕は何一つ持っていない。


 そんな人生に、一体なんの価値がある?


 そもそも、僕のエゴのために悪魔契約をしたのだ。

 僕のしょうもない人生のために、冬花ちゃんを巻き込むことなんて出来ない。


 死のう。


 いい夢を見た。

 冬花ちゃんだけじゃない。宮越くんや職場の同僚たちも優しくしてくれた。

 もういいじゃないか。


 冬花ちゃんを失い、また一人ぼっちの人生に戻るなんて考えただけでぞっとする。

 ならば、ここでケリをつけよう。


 九日間の優しい夢を抱いたまま、この世界から消えよう。

 そう心の中で決めると、なぜかまた涙が滲む。

 自分でも、どうして泣いているのかわからない。

 決心したはずなのに、こんなにも生への執着があったなんて。

 だが、路地でむせび泣く僕に誰も気づかない。


 これが本当の僕。


 忘れていた、本当の僕なのだ。

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