海岸に着くと、すぐに波打ち際で遊んでいるヨルを見つけることができた。
サンダルを片手に持ち、素足で濡れた砂の上を歩いている。麦わら帽子に白いワンピース。長く艶のある髪を潮風になびかせ、無邪気に浜辺で戯れる姿はとても愛くるしい。
すっかり陽が昇った晴天の下で波がキラキラと照り、ヨルの白い肌がいつもより輝いてみえた。背中に羽根が生えていたら、天使と見間違えたかもしれないほどに。
風が強いせいか、今日は人気がない。まるでプライベートビーチみたいだ。
コパンのことがあって少し気持ちが沈んでいたが、彼女の姿を見ると少しだけホッとした。
「ヨル」
後ろから声をかけると、彼女は動きを止め、ゆっくりと振り返った。
赤い瞳が、僕を捉える。
「北村さん、おかえりなさい」
ヨルはにっこりと形のいい唇を歪めて笑みをつくる。
「昨日はどちらへ?」
「ごめん。友達……冬花ちゃんの家に泊まったんだ」
「だと思いました。北村さん、すごく嬉しそうだから」
「わかる?」
「バレバレです。それより、本当の友だちは見つかりました? もう九日目ですよ」
「うん、見つかったよ」
僕が言うと、ヨルの目がぱっと輝いた。
「やっぱり、冬花さんですか?」
ヨルの声は弾んでいた。
「うん。ヨルのおかげで、楽しい人生を送れそうだよ」
「それはなによりです!」
ヨルは自分のことのように嬉しそうに笑ってくれた。そのまま濡れた素足で、ぴょんぴょんと足踏みまでしている。まるで子供のように喜ぶ仕草が本当に可愛らしくて、照れくさくてむずむずする。
「北村さんの願いが叶って、ヨルは嬉しいです!」
「ありがとう」
僕はコホンと咳払いをしながら、ゆっくりと彼女に近づいた。ヨルはくるぶしあたりまで海に浸かっていたので、僕も思い切って靴を脱いで裸足になる。
生暖かい波に飲み込まれると、大きな手に撫でられたようで、ぞくぞくした。
そのまま二人並んで水平線をぼんやりと眺めていたが、
「あのさ。そろそろ代償のことを聞いてもいいかな」
ようやく切り出すことができた。
「あ、ちゃんと覚えていてくれたんですね」
「そりゃそうだよ」
ヨルは僕をちらりと横目で見ると、唇を少し吊り上げる。
「代償のことなんですけど」
「うん」
ヨルの目が、弓なりに細くなった。
「冬花さんの命をください」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
聞き間違いだろうか。
呆然としながら、まじまじとヨルを見つめる。
だが、彼女は笑みを湛えたまま口を開かない。
「ヨル?」
「聞こえませんでしたか?」
「いや、あの」
「だから、代償は冬花さんの」
「ヨル、やめてよ。そんな冗談、笑えないよ」
自分でも、言葉尻が荒くなっているのがわかる。額に汗が浮かんで、顎から滴り落ちた。
「冗談?」
彼女の顔から、サァと笑みが消えていく。
「冗談でこんなこと言うわけがないでしょう」
冷淡な声だった。
「北村さんにとっての、本当の友だちの命。それが契約の代償です」
カッと頭に血が上り。ヨルの肩を強く掴んだ。
「何言ってんだ、無理だよ。無理に決まってるだろ!」
「無理? あなた、勘違いしてはいませんか? ヨルは天使じゃありませんよ」
「それは」
「友だちがいない北村さんが、たくさんの友だちに囲まれて、この九日間楽しく過ごしたのでしょう?」
ヨルは素っ気なく僕の手を振り払う。
「精算の時が来ただけです。それを他人の命で賄ってあげようって言っているのですから、ヨルは天使より優しいと思いますよ?」
「何をぬけぬけと……。最初から、僕に冬花ちゃん……友達を殺させるために、契約をしたの?」
ヨルは答えない。
だが、にんまりと心から楽しそうな笑みを浮かべる彼女の表情を見れば、一目瞭然だ。
『――今までの契約者さんたちは、すんなり部屋に置いてくれたのに』
初めて会った日。ヨルはそう言って僕の部屋にあがりこんできた。
……ああ。彼女は初めてではないのだ。
「ヨルは九日目が一番好きです。みなさん、それぞれ反応が違うので。北村さんは、どんな顔をするんだろうってずっと楽しみにしていました」
そこでヨルは、ぷっと吹き出し、くつくつと肩を震わせて笑う。
徐々に声量が大きくなり、やがてお腹を抱え、身をよじって哄笑した。
一体、何がそんなに面白いんだろう。
「明後日までに冬花さんを殺してください。さもなければ……」
「この悪魔め!」
僕は力づくで彼女を押し倒した。大きな水しぶきがあがり、僕らはずぶ濡れになった。ヨルの黒い髪が海面を伝うように覆い、ゆらゆらと揺れる。
「ふざけるな! そんなこと出来るわけがないだろ!」
「じゃあ、あなたが死にますか?」
淡々とした物言いに、言葉が詰まる。
「わかっているんです。たかが他人のために死ぬなんて、人間には無理です。今までもそうでした」
肩を掴む手に力を込めた。しかしヨルは怯むどころか、挑発するように微笑む。
「悪魔との契約は絶対です」
「お前……」
「結果はわかりきっていますが、北村さんがどう行動するのかヨルは見守っています。今日を含めてあと二日あるんですから、ゆっくり殺し方を考えてみてはいかがですか」
ヨルはそう言うと、僕の胸をやんわりと押し返してきた。
触れられたことにゾッとして思わず飛び退く。
だが、そんな僕の態度にもヨルはまったく動じず、濡れた髪の毛を絞りながらゆっくりと立ち上がった。
「冷えましたね。風邪を引いては大変です。お部屋に戻りましょうか、北村さん」
そう言って、海の中で座り込む僕に手を差し伸べてくるヨルは、今までとまったく変わりなくて……僕は狂ったように叫び声をあげた。