こんなに満ち足りた気持ちで朝を迎えるのは初めてだった。
もうすこしゆっくりしていきなよ、と冬花ちゃんは言ってくれたが、ヨルのことが気がかりで、僕はまた来ると言って彼女の家を後にした。
今日は風が強い。
僕は何度も向かい風にあおられて顔をしかめる。まるで行く手を阻まれているようだ。
でも、そんなことは全然気にならない。むしろ、熱を持った頭を冷やすのにちょうどいいかもしれない。
昨日は、とても楽しい夜だった。
ソファに二人で腰を掛け、とりとめのない話をして、映画を観て、出前を取って、それからまた他愛のない話をする。
そうしている間に空が白んで、僕らは短い仮眠を取って、眠い目を擦りながら「おはよう」と笑い合う。ただそれだけだった。
僕たちは恋人同士じゃないから、色っぽい展開とは無縁だ。
不思議なほど、彼女に触れたいとか、それ以上のことをしたいなどという欲求は湧いてこなかった。
彼女といると、僕は自然体でいられる。
『友達』という、僕の存在を認めてくれる人がいるだけで十分だ。
ヨルの魔法が解けても、きっとこの気持ちは変わらないだろう。
僕は、『本当の友達』を手に入れたのだ。
…………。
帰路を急ぐ足を止め、僕は自分の胸に手を当てた。
ざわざわとした不安が、喉元までせり上がってくる。
悪魔に支払う代償……。
ヨルが僕に要求する代償は、一体なんだろう?
――『北村太一の命や、身体に関わるような代償は求めない』。
彼女は僕とコパンの命に関しては保証すると約束をしてくれた。
いや。何を今さら怖気づいているのだろうか。
少しくらい大変なものでも、支払う覚悟は出来ている。それに、ヨルは僕に『本当の友達』をくれた悪魔……いや、天使なのだ。
きっと、そんなものか、と思うようなものに違いない。
ああ、そうだ。コパンにもちょっといいキャットフードをたくさん買ってあげよう。
僕は再び足を踏み出す。
途中、友達化した人たちから声をかけられたが、今までで一番愛想よく応えることができた。
本当に、今日はいい朝だ。
部屋に戻ると、ヨルはいなかった。
代わりに、『海へ行ってきます』という下手くそな字の書き置きがテーブルの上に置いてあった。
こんな風の強い日に海なんか行ったら危ないぞ。と思ったが、悪魔にそんな心配は無用かもしれない。
ふと部屋の窓に目をやると、摺りガラス越しにコパンが座っているのが見えた。
「コパン、おはよう。いい餌を買ってきてあげたよ」
声をかけながら窓を開けると、ちょこんと座っていた彼がビクリと毛を逆立てて飛び退いた。
「どうしたんだよ?」
おずおずと手を伸ばしてみたが、コパンは低い唸り声をあげてこちらを威嚇する。喉元を撫でてやろうと触れた瞬間、鋭い爪が僕の手の甲を引っ掻いた。
「いたっ! 何するんだよ!」
思わず声を荒げると、コパンはシャッと一鳴きし、素早くベランダから走り去ってしまった。
ベランダには無惨に皿ごとひっくり返された餌と水入れが散乱している。
「……なんだよ、あいつ」
舌打ちをしながら餌入れを蹴飛ばし、ため息をつく。
せっかく高い餌を買ってきてやったのに。食べさせる気も削がれて、僕はそのまま乱暴に窓を閉めた。
以前の僕なら、コパンが懐いてくれないことに不安を覚えたかもしれない。
でも、今の僕には冬花ちゃんがいる。
猫ごときに一喜一憂する僕ではない。
「…………」
ひゅっ、と息を飲む。
思わず口元に手を当てた。
こんなこと、今まで考えたこともなかったのに。
エアコンが起動していない部屋は茹だるほど暑いというのに、ゾッと鳥肌が立つ。
僕は、何を考えた?
いや。
いやいや。
理由もなく僕にそっけなくなったコパンのせいだ。
懐かない猫なんて、可愛いと思わなくて当然だ。
首を横に振って、不穏な思考を取り払う。
海に行かなければ。