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25 北村くんがいいの

「あれ? 前よりキレイになってる?」


 ごみ袋や衣服で乱雑としていた廊下はすっきりと片付けられていて、より家が広く感じられる。酒瓶があちこちに転がっていたリビングも、今やモデルルームのように整頓されていた。

 テーブルの上に置いてあるウィスキーやビールも、まるでインテリアのように見える。


「あたしの友達が片付けてくれたの」

「へえ……」


 家の中を掃除させるってことは、僕より親しい人なんだよね?

 喉まででかかった言葉を、ごくりと飲み込む。仮初めの友達である僕が、彼女の交友関係に対して口を出す筋合いはない。


「氷用意するから、適当に座っててね」

「ありがとう」


 キッチンに消えていった冬花ちゃんに返事をしながら、ふかふかのソファに腰を埋め、まじまじと部屋を見回す。

 そういえば、冬花ちゃんのお母さんはこのリビングで。

 天井を見上げると、豪華なシャンデリアがぶら下がっていた。


 まさか、あそこから首を吊って?


 ドラマや映画で観た凄惨なワンシーンが、フラッシュのように脳裏をかすめる。

 ゾクっと寒くもないのに鳥肌が立った。天井からぶらさがった人間の死体が容易に想像できてしまう。


 冬花ちゃんは、この家に住んでいて怖くないのだろうか。

 視線を逸して、自分の薄汚れた靴下をじっと見つめる。


 彼女は、この部屋でどんな想いを抱えたまま酒を飲んでいるのだろう。


「大丈夫? 痛む?」


 頭上から声が聞こえて、ビクッと肩が跳ねた。振り仰ぐと、水枕を片手に持った冬花ちゃんが立っていた。


「これで少し良くなったらいいんだけど」

「最初から大した顔じゃないし、ちょっと歪んだくらいどうってことないよ」


 氷枕を受け取りながら、わざと自虐的なことを言ってみた。けれど冬花ちゃんはクスリとも笑ってくれなかった。場を和ませようとしただけなのに、失敗だったみたいだ。


「本当に、岡田をあのままにしておいていいの?」

「うん。元はと言えば、あたしが期待させるようなことをしたのが悪いんだし。あれだけ言えば、もう興味も失せるでしょ」


 彼女は僕の隣に腰をかけると、大きなため息をついた。


「それに、半分は嘘だし」

「嘘?」


 さらに問いかけようと口を開いたところで、


「友達は、ちゃんと選ばないとだめね」


 冬花ちゃんの何気ない一言が、ズキッと僕の胸を刺す。

 ちゃんと……。そうだよな。友達というのは、冬花ちゃんが選ぶものなのだ。

 僕は、冬花ちゃんの恋人でも、友達でもない。

 ちゃっかり友達ヅラしているだけの、図々しい他人だ。


 だが……。

 ……この二日間、誰と何をしていたの?


 喉に言葉がつかえ、吐き気がする。

 僕の本質は、岡田と変わらないのかもしれない。


 僕よりも大事な友達って、誰?

 僕のことは、どうでもいいの?

 嫉妬が胸の内でとぐろを巻いて膨らんでいく。今にも醜い雑言が飛び出してきそうだ。


 そうなれば、僕たちの関係は音を立てて崩れてしまうだろう。

 貧乏ゆすりをしながら、じっと突き上げる衝動を抑えつけた。

 ふと、冬花ちゃんの言葉が、頭の中でリフレインしていた。


 ――最初から、友達なんかじゃないよ。


 まるで、僕自身がそう言われたみたいだ。

 冬花ちゃんから一番遠い存在は、僕だ。

 それなのに、こうして友達ヅラをして彼女の隣にいる自分自身が、ひどく不気味に感じる。


 ――僕に残された時間は、あと二日。


 二日後、僕は冬花ちゃんの友達でいられるのだろうか。


「北村くん。来てくれてありがとね」


 不意に、冬花ちゃんは僕の手を握りながら独り言のように言った。

 振り返ると、彼女は今にも泣きそうな表情で僕を見つめている。


「当然のことだよ。僕は冬花ちゃんの友達、だし」

「あたしが一昨日から連絡しなかったこと、怒ってる?」


 ストレートな物言いにぎょっとする。


「そんなことないよ。どうかしたのかな? って、ちょっと気になっていたくらいで」

「他に友達を作ろうとしてたの」


 まさかこんなにはっきり言われるとは思っていなかったので、面食らってしまった。

 彼女が友達に依存していることは、よくわかっているはずだ。

 重ねられた手をやんわりと解き、握りこぶしをつくる。


「そっか」

「北村くん以外にも、友達がほしかったから」

「スペアが足りなくなったの?」

「そんな言い方しないで」


 冬花ちゃんは髪の毛を掻きあげながら、寂しそうに息を吐いた。


「でも、あたしが間違ってた」


 冬花ちゃんは、テーブルの上に置かれていた携帯電話を手にとると、通話履歴を僕に見せてくれた。そこには、ずらりと人の名前が並んでいる。


「さっき、半分は嘘って言ったでしょ。あたし、いざとなったら警察に電話するつもりだったの」

「え?」

「逆恨みされるのが嫌だから通報するのが嫌だったんじゃないの。誰かに助けに来て欲しかっただけなの」


 冬花ちゃんは、自嘲気味に笑う。


「でも、誰も来てくれなかった。……北村くん以外は」

「冬花ちゃん」

「おかしいよね。こんなにたくさんの友達がいたはずなのに」

「……」

「大事な友達が一人いれば、それでいいや」


 彼女はそう言いながら、携帯電話に登録されていた連絡先を次々と削除していった。その横顔は無機質で、何の感情も読み取れない。

 しばらく呆然とその様子を見守っていたが、はたと気づいて冬花ちゃんの手を押し止める。


「冬花ちゃん、もういいよ。わかったから」


 彼女は顔をあげて、疑わしそうに僕を覗き込んだ。


「僕も嬉しかったんだ。同窓会のあと、冬花ちゃんが迎えに来てくれて」

「それは当然じゃない。だって」

「僕らは友達だもんね」


 冬花ちゃんは安堵したように、ふっと頬を緩めて微笑む。

 そして、そのまま置いてあったウィスキーの瓶を手に取ると、しっかりとした足取りでキッチンに向かっていった。

 何をするのだろうと思い、僕も立ち上がってついていくと、彼女はシンクに瓶の中身をぶちまけた。


「何してるの、冬花ちゃん」

「もうお酒を飲むのはやめるの」

「どうして?」


 ドバドバと豪快な音を立てて、値の張りそうなウィスキーが見る間に排水溝へ飲み込まれていく。


「あたしね。ずっと死ぬつもりだったんだ」


 冬花ちゃんの声は、少し震えていた。


「アルコール中毒で死ねるなら、本望かなって。お母さんが死んだこのリビングで、あたしも死のうってずっと考えてた」

「どうして、そんなこと」

「あたしの人生、何もないんだもん。男とお金しかないお母さんより、何もないの」


 彼女はため息をつくと、空になった瓶を乱暴にシンクの中に放り込む。


「でも、こんなんじゃだめだなって思えてきたの。北村くんのおかげだよ」

「僕は、何もしてないよ」

「ううん。あたしのために駆けつけてくれる人なんて、人生で初めてだったんだ。友達って、こんなにかけがえのないものなんだね」


 冬花ちゃんは僕を振り返ると、にっこりと照れたように、そして心から嬉しそうに笑った。


「ありがとう、北村くん」


 頭が痺れたようになって、目眩がする。胸の内から、気持ちが溢れだしてくるようだ。


「僕も初めてだよ。自分よりも傷つくのを見たくないって思ったのは」

「そっか。似た者同士だね。あたしたち」


 僕らは互いを見つめ合いながら笑いあった。唇を吊り上げすぎて、頬が痛くなり、体が熱を帯びる。ふんわりと笑う冬花ちゃんがとても眩しく見えた。


「じゃあ、友達としてあたしの禁酒に協力してくれる?」

「いいよ。シンクに捨てる手伝いをすればいいの?」

「それもあるけど。……お酒の代わりに、ずっとあたしのそばにいて」


 ドクンと心臓が鼓動を打った。


「僕でいいの?」

「北村くんがいいの」


 冬花ちゃんは、殴られた僕の鼻に手を伸ばすと、親指の腹で優しく撫でる。


「あたし、北村くんに困ったことがあったら、絶対に助けてあげる」

「ありがとう。僕も、友達のためなら何でもできるよ」

「嬉しいけど、無茶はしないでね。あやうく死んじゃうかと思ったんだから」

「別にいいよ。死ぬくらい」


 冬花ちゃんは驚いたように目を瞬いた。


「僕を必要としてくれる人のために死ねるなら、それこそ本望だよ」


 ヨルが部屋に訪ねてこなければ、あの汚いワンルームの部屋で終わっていた命なのだ。いまさら、惜しいとは思わない。


「死ぬなんて、だめだよ。北村くんが死んじゃったら、すごく寂しいもの」


 冬花ちゃんの手が、僕の頬を包み込む。


「冬花ちゃんの手、冷たいね」

「北村くんも。あたしたち、似た者同士だね」


 電灯の下で、きらりと冬花ちゃんの濡れた瞳が光った。

 彼女は僕にとってかけがえのない人だ。

 冬花ちゃんこそ、『本当の友達』だ。

 この気持ちは、仮初めなんかじゃない。

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