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18 八月十三日(金)(三日目)

 唐突に玄関のインターホンが鳴った。

 工場での仕事を終え、朝日と共に眠りについていた僕はびっくりして身を起こす。

 この部屋に人が訪ねてくることなんて、皆無に近い。

 どうせ新聞か宗教の勧誘だろう。

 イライラした気持ちを抑えて、枕元に丸めていたタオルケットを引き寄せ、自分の体を包んだ。


 だが、インターホンはしつこく鳴り続ける。耳を塞いで、再び眠ろうと目を閉じたところで、


「北村さん、大変です。女の子が来ています!」


 ヨルが慌てたように僕の体を揺らした。


「は?」


 ぱっと顔をあげる。

 女の子……? オンナノコ……。


「早く早く!」

「わかったよ」


 急かしてくるヨルにうんざりしながら、布団から這い出し、髪の毛も整えないまま玄関ドアを開けた。


「北村くん、こんにちは。すごい寝ぐせだね」


 そこには、冬花ちゃんが立っていた。今日はショートヘアを後ろで一つに束ねている。そのせいで、一瞬誰かわからなかった。


「な、なんでウチがわかったの?」

「北村くんがこのアパートに帰っていくところが、家の屋上から見えたの」

「……なるほど。それで、なにか用?」

「今日ヒマ?」


 咄嗟に返事ができなかった。今日は、ヨルと契約してから三日目だ。

 冬花ちゃんだけじゃなくて、他の人たちとも関わりを持つべきなのだろう。

 いや。友達をスペアだと言い切る彼女とは、もう……。

 返答に迷っている僕の心情を察したのか、彼女の表情がふっとさみしげなものに変わった。


「だめ?」

「わかった」


 即答していた。自分の意思の弱さが憎たらしい。冬花ちゃんは嬉しそうに微笑むと、後ろ手に持っていたパンパンに膨むビニール袋を押し付けるように手渡してきた。


「北村くんならそう言ってくれると思ったんだ。これ、差し入れ」

「またお酒?」

「今日はおつまみも入ってるから。あがってもいい?」


 部屋を覗き込もうと背伸びをする冬花ちゃんを見て、ギクリとする。

 部屋にはヨルがいる。

 やましいことはないが、同棲している(ように見える)と知ったら、面倒なことになるかもしれない。


「ちょ、ちょっと待ってて。すぐ片付けるから」


 僕は冬花ちゃんに頭を下げ、素早く玄関ドアを閉めた。


「ヨル、ごめん。ちょっと隠れてて!」


 言いながら部屋に戻ったが、そこにヨルの姿はなかった。


「あれ?」


 洗面所とトイレ、クローゼットの中も覗いたが、どこにもいない。

 ここは二階だ。飛び降りられない高さではない。

 そっとベランダに出て階下を覗き込んだが、ヨルはいなかった。

 悪魔だから姿を消すことぐらいは簡単に出来るのだろうか。

 もしかして、気を使って出て行ってくれたのか?


 それなら都合がいい。ありがとう、ヨル。


 仕切り直して、散らかっていた部屋を手早く片付ける。

 カーテンレールにヨルの着替えもぶらさがっていたので、それもクローゼットに押し込んだ。

 部屋の中はヨルが普段から清潔に保っていてくれているおかげで、すぐにきれいになった。

 むしろ、よれたシャツに、年季の入った半ズボンを身に着けている自分が一番小汚い。


 こんな姿で冬花ちゃんの前に出てしまったことが、今さら恥ずかしくなった。

 いそいそと着替えて、風呂の鏡の前でポーズを決めてみる。


 あ、ひげも剃ってなかった。おまけに歯も磨いていないし、髪の毛は思っていたよりボサボサだ。


 というか、(悪魔を除いて)他人しかも女の子!を自分の部屋に招き入れた経験がないので、どれだけきれいにしておけばいいのかわからない。


 素早く顔を洗い、僕は自分の頬を叩いて気合いを入れる。

 相手は冬花ちゃんだ。きっと、なんとかなる。

 大きく深呼吸をし、僕は玄関ドアを開けた。


 冬花ちゃんは、アパートの壁に背を預けるようにして携帯電話をいじっていた。


「待たせちゃってごめん。どうぞ入って」

「ううん、あたしこそ、勢いで来ちゃってごめんね」

「大丈夫だよ。ちょっと散らかってるけど……どうぞ」


 冬花ちゃんは部屋に入るなり、しげしげと物珍しげに見渡す。


「へえ。結構キレイにしてるんだね」

「ああ、うん。きれい好きなんだ」


 僕じゃなくて、ヨルが、だけど。


「あれ? 猫がいる! かわいい!」


 言われて初めて、ベランダにコパンが座っていることに気がついた。

 久しぶりにやってきてくれた彼の姿に、僕はほっと安堵する。

 よかった、元気そうだ。

 窓を開けて膝を折りながら、コパンにそっと指先を伸ばした。

 だが、今までなら窓に手をかけるだけで寄ってきてくれたというのに、コパンは僕たちに胡散臭そうな視線をやったまま、近づいてこない。


「コパン、おいでよ」


 僕がさらに手を伸ばすと、彼はのっそりと近づいてきて、にゃあんと一声鳴いた。

 指の腹で顎の下を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細め、尻尾をピンと立てる。


「わあ、可愛い」


 遠巻きに様子を見ていた冬花ちゃんも、目を輝かせてコパンの背をそっと撫でた。撫でられるのが大好きな猫だったはずなのに、特に嬉しがる素振りもなく、くりっとした丸い目を胡散臭そうに冬花ちゃんへ向けている。


「いつもは、もっと愛想がいいんだけどな」

「そうなんだ? 猫ってこんなもんかと思ってた。っていうか、コパンって北村くんが名前をつけたの?」

「地域猫だから、僕が勝手につけて呼んでる名前なんだけどね」

「どういう意味なの?」

「さあ。たまたま見かけたお店の名前なんだ」


 嘘だった。コパンはフランス語で『繋がりの深い友達』という意味だ。

 正直に言ったら寂しいやつだと思われそうで、つい誤魔化してしまった。


「なんかオシャレな名前だね。コパンくん? ちゃん? わかんないけど、よろしくね」


 コパンは冬花ちゃんに「にゃあ」と返事をする。

 よかった。いつものコパンに戻ったみたいだ。

 それから、ひとしきり二人でコパンを構ったあと、冬花ちゃんが買ってきたコンビニ袋をあけて、ビールで乾杯した。


「ねえ、氷もらってもいい? ついでにコップも」

「うん、いいよ」


 冬花ちゃんが立ち上がってキッチンに向かう。それを見ながら、僕は自分の心が弾んでいることに気づく。

 まるで恋人同士の会話みたいだ。


「あれ? 北村くん、彼女いるの?」


 えっ、と思って振り返ると、冬花ちゃんはヨルが使っていたマグカップを手にしていた。


「あっ、いや……それは」

「彼女持ちなら先に言ってよ! 誤解されちゃったら大変じゃん」

「違うよ、それは女友達のっていうか!」


 悪魔を友達呼ばわりしていいのかわからないけど。


「専用のマグカップまで置かせておいて、女友達ぃ?」

「ほんとだって。だいたい、僕みたいな冴えない男を相手にする人なんかいないでしょ」

「そこまで言ってないのに」


 冬花ちゃんは納得のいかない表情を浮かべながらも、無地のコップを二つ手にとって戻ってきた。

 彼女はごく自然に僕の隣へ腰を下ろすと、缶ビールをグラスへ注ぐ。ぺろりと舌なめずりをする姿は、餌を前にしたコパンに似ている気がする。


「そういえば。今まで聞いてなかったけど、冬花ちゃんって何歳なの?」

「二十三歳だよ」

「じゃあ、同い年だ」

「そうなんだ! なんか嬉しいね」

「仕事してるの?」

「ううん。今は無職。お金に困るまでは、このままでいいかなって」

「まあ、働くのって大変だしね」


 自分でもよくわからないフォローを入れた。


「生活費はどうしてるの?」

「親の金」


 吐き捨てるように言い放った彼女の言葉に、空気がピリついた。


「でも、ずっとニートってワケじゃないよ。少し前まではモデルやってたし」

「なんで辞めちゃったの?」

「お酒飲みすぎて遅刻を何回かしたらクビになっちゃった。はあ、今思い出しても罪悪感で死にそう」


 冬花ちゃんは苛立ったように髪の毛をガリガリと掻きむしる。

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