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12 あれ?

 僕はテーブルの下で固く拳を握り、すうっと大きく深呼吸をした。


「だけど、僕は今月末で打ち切りなんですよね?」


 サッと主任の顔が引き攣った。


 まるで術が一瞬で解けたように感じて、ドクンと心臓が跳ね上がる。

 いくら友達化しているとはいえ、図々しかったかもしれない。


「いや、やっぱりなんでも……」

「オレ、聞いてないですよ」


 宮越くんは、唸るように言った。はっとして振り返ると、彼は前のめりになりながら主任を睨みつけている。


「北村さんが辞めたいって言ったんですか?」

「……」


 さっきまで上機嫌で微笑んでいた主任の表情がみるみる凍りつき、怒ったように眉尻がつり上がっていく。

 今にも怒声を浴びせられそうで、さーっと全身の血の気が引く。


「いや、いいよ。宮越くん」

「良くないですよ。北村さん、ずっと仕事頑張ってたじゃないですか。それなのに打ち切りって……納得いかないです」

「えっ」


 意外だった。まさか宮越くんが僕の仕事を認めてくれていたなんて。

 じぃんと胸の奥が温かくなる。

 でも、僕のために主任に噛みつけば、関係ない宮越くんだって目の敵にされるかもしれない。

 かばってくれるのは嬉しいが、巻き込んでしまっては大変だ。

 僕は、そっと宮越くんの服の袖を引いた。


「ありがとう、宮越くん。もういいから」

「だけど」

「……契約は、延長しよう」


 不意に聞こえた絞り出すような主任の声に、僕らは驚いて振り返った。

 聞き間違いかと思ったが、主任は気まずそうに顎を掻きながら、ぎこちなく僕に頭を下げた。


「すまん、北村。これからも、よろしく頼むよ」


 まるで僕の機嫌を取るように、主任は僕の背中を優しく叩く。


「本当、ですか?」

「ああ。派遣会社には話しておく」


 主任のぶっきらぼうな返答を聞いた途端、全身から一気に力が抜けてしまった。

 どうやら僕は、自分が思っていたよりもこの仕事が気に入っていたようだ。


「ありがとうございます……」

「よかったですね、北村さん。これからもよろしくお願いしますね」


 それほど親しい間柄でもないのに、彼はまるで自分ごとのように喜んでくれる。

 友達化しているおかげだということは十分わかっているが、こうして友達のために行動を起こすことのできる宮越くんの人間性にますます強い憧れが募る。

 いい人だ、本当に。

 優しくて、勇気があって、明るくて、人気者。

 もしも逆の立場だったら……いくら彼が友達でも、僕は助けに入ったかどうかはわからない。


「……」


 ……あれ?

 ふっと顔をあげて、主任と宮越くんを見やる。

 じゃあ、


 すとん。


 その瞬間、胃のあたりでとても大切な何かが、欠けて落下したような感覚がした。

 思わず腹をまさぐって、撫でてみるが特段変わったところはない。

 でも、寒くもないのにやたら鳥肌が立って、息をするのもなんだか苦しい。

 足元からじりじりと嫌なものがせり上がってくるようだ。

 見てはいけないものが、近づいてくるような……。


 いやいや。何を考えているんだ、僕は!


 頭の中のイメージを振り切るように、ぶんぶんと首を横に振るう。


「どうかしたのか、北村」


 僕の奇行に、露骨に眉をひそめる主任と、きょとんと小首を傾げる宮越くん。

 普段であれば気味悪がられるところだろうが、今の二人にならこれくらいしたところで関係は壊れることはない。


「ちょっと嫌なことを思い出して」と適当な言い訳を吐き、僕は何事もなかったようにすっかり冷たくなった弁当の蓋を開けた。

 二人は少しの間沈黙していたが、やがてそれぞれ箸を持って弁当を掻き込み始める。


 不意に、


「そういや、ビールの話に戻るんですけど……このまま行っちゃいません?」


 意外な誘いに、あやうく固いご飯が喉に詰まりそうになって、盛大に咳き込んでしまった。

 宮越くんは「あーあ」と言いながら、すかさず僕の背中をさすってくれる。


「こ、このままって……夜勤明けってこと?」

「ですです。昼になったら、どっかで集まりましょうよ」


 つまり、昼飲み?

 なんだろう、すごくいい響きだ。

 いかにも仲の良い友達同士のイベントって感じがして、すごく良い。


「ふふふ。北村さん、その目は決まりですね?」


 どうやら思いっきり表情に出ていたらしい。宮越くんはニヤリと笑う。

 そのまま僕らの視線は主任に向けられたが、


「さすがに仕事終わりに飲む元気はねえよ」


 野良犬を追い払うように手を振り、頬杖をついて唇を尖らせた。


「じゃあ、二人で行きましょうか」

「宮越くんは……僕で……いいの?」

「いいから誘ってるんじゃないですか。あとでチャット飛ばしますから、返事くださいね」

「わ、わかった」

「おい。俺との約束も、ちゃんと果たせよ?」


 まるで拗ねた子供みたいに呟く主任の口調がおかしくて、僕らは目を合わせて微笑んだ。

 そうか……友達との飲み会というのは、こうやって自然に決まっていくものなのか。

 主任と宮越くんの他愛のないやり取りを聞きながら、静かに弁当をつついた。

 時々二人から話題を振られるが、自分でも驚くほど緊張が解けていて、徐々に自然と返事ができるようになっていった。


 二人は『本当の友達』にはなれないかもしれない。


 あと九日間だけの、仮初めの居場所かもしれない。

 けれど、今の僕はとても充実している。

 これもすべてヨルのおかげ。

 あの悪魔は、僕にとっての天使だ。

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