わかっていたことではあるが、職場の人間も友達化していた。
作業場はもちろん、廊下で社員たちに挨拶をすれば「お疲れ様」という労いと、マスク越しにでもわかる笑顔が返ってくる。
あんなに素っ気なかった同僚たちも、仕事中に何気ない雑談を振ってくれたりする。
普通の人にとっては当たり前の日常なのかもしれないが、ほとんど孤立状態だった僕にとってみれば、こうして誰かから話しかけてもらえるというのは、まさしく天変地異に等しい出来事だ。
もちろん、社内には市外から通勤している人もいる。
彼らは一夜で一転した僕の扱いを気味悪がっていたが、これが悪魔の力だとは考えもしないだろう。
一部の人と友達になれないのは残念だが、それは仕方がない。
僕は作業場で仕事をこなしながらも、高揚した感情を抑えられず、つい鼻歌を口ずさんでいた。
けれど、心の片隅にはごろりと石のように転がっているものがある。
来月末で、この工場を去らねばならないという事実だ。
ふとした瞬間にエージェントから告げられた『更新打ち切り』という言葉が脳裏をかすめ、包丁を握る手が止まる。
どんなにこの職場で親しい人間をつくったところで、来月になればすべて水の泡だ。
もちろん、『本当の友達』が見つかれば、職場が変わっても関係は継続するだろうが、今のところ冬花ちゃん以上に話が盛り上がった人には会えていない。
僕は顔をあげ、隣の作業場でせっせと商品を箱詰めしている主任を遠巻きに見つめた。
出社してから口は利いてはいないが、今日は一度も叱られていない。
いつもなら、些細なことで難癖をつけてくる主任が、だ。
主任は市内住みだったはず。
ヨルの魔術がかかっているなら、直談判してみる価値はある。
僕は同僚たちと一緒に休憩室へ入るなり、愛妻弁当をつつく主任の元へ近づいていった。
「あの」
主任は怪訝そうに僕を見上げると、あからさまに眉をひそめる。
まさか市外住みだったか!? と、身構えたが、
「なんか酒臭ぇな、北村」
予想に反して、主任はふっと頬が緩ませて愛想のいい笑みを浮かべた。
反応に驚きつつ、頭を下げながら素早く自分の服を嗅いでみる。
上着は取り替えたが、体についた酒の匂いは取れていなかったようだ。
「すみません。夕方まで飲んでいたので」
「ふうん。よく飲むのか?」
「は、はい。たまに……」
反射的に、つい見栄を張ってしまった。
主任は「ふうん」とさして興味もなさそうな相槌を打ちながらも、
「じゃ、今度付き合えよ」
「えっ!?」
「なんだ。俺とじゃ嫌なのか?」
「いえ、まさか!」
僕はぶんぶんと大げさに手を振る。
主任から飲みに誘われるなんて思ってもみなかったが、友達化しているなら当然の流れかもしれない。
「行くなら、今週末だな」
主任はふんふんと一人でうなずき、携帯電話のカレンダーアプリで予定を確認しはじめた。
そのまま立っているのも不自然なので、おずおずと主任の隣に座って成り行きを見守る。
「北村はどんな酒が好きなんだ?」
「ぼっ、僕はビールをよく飲みます」
「んじゃ、クラフトビールの店でも行くかあ」
どうやら、本気で僕と飲みに行くつもりのようだ。
相手が誰でも、飲みの誘いというのはそれなりに嬉しくはあった。
だが、普段の主任の性格を知っているからこそ、浮かれてばかりではいけないだろう。
短気で神経質な主任のことだ。
少しでも粗相があれば、何を言われるかわかったものじゃないからだ。
それにいくら友達化しているとはいえ、主任と『本当の友達』になる想像もできない以上、正直――時間の無駄だ。
けれど断る理由も見つからないし、その勇気も出ない。
だが、主任は僕の心中など知るよしもなく、せっせと携帯サイトで居酒屋を検索している。
「ここはビールがうまくてな」「駅から遠いな」「高くつきそうだな」などと独り言を呟いているが、その声音は柔らかく、優しかった。
……主任って、意外と面倒見がいいんだな。
まるで知らない人みたいだ。
――『悪魔に心を操られた人間なんて、プログラムされたアンドロイドと変わらない』。
ヨルと悪魔契約をする前に、そんなことを考えていたことを思い出す。
僕の目の前にいる主任は、本当に僕の知っている主任なんだろうか。
いや、もし本当にアンドロイドなら、とっくに前原さんや冬花ちゃん、それに職場の人たちと『本当の友達』になっているはずだ。
あくまでも、ヨルの魔術は基礎
少しでも主任の機嫌を損ねるようなことをすれば、元の木阿弥だ。
意識して背筋を伸ばし、緩みそうになっていた頬をきゅっと引き締める。
わざとらしく咳払いをし、改まって主任へ向き直って言った。
「あの、主任。ちょっとお話が……」
「ん?」
「契約のことなんですけど」
「北村さーん、飲み会するんですか?」
突然僕らの会話を遮るように背後から声がかかった。
主任と一緒に振り返ると、弁当を片手に持った後輩の宮越くんが立っていた。
彼は昨日の朝にグループチャットで簡単なやり取りを交わしていて、友達化しているのは確認済みだった。
「オレも連れていってくださいよ」
宮越くんは遠慮なく僕の隣に座ると、ニコッという効果音が聞こえてきそうなほど完璧な笑みを浮かべている。
「は、はあ……」
いくら友達化しているとはいえ、先輩と主任が一対一で話をしている間に割り込んでくるのは、さすがに社交性スキルが高すぎるだろ。
しかも、わざわざ主任がいる飲み会に参加をしようとするなんて、僕からすればドMにしか思えない。
主任はそんな宮越くんのことが可愛いようだ。
「図々しいやつだな」
口調は荒っぽいが、まんざらでもなさそうなのがその証拠。
薄々感づいてはいたが、主任は宮越くんのことが大のお気に入りなのだ。
主任だけじゃない。おそらくこの工場で彼のことを嫌う人間はそういないだろう。
僕だって、よく話したこともない彼のことが好きなのだから。
天性の人気者というのは、人間社会において最上の才能だとつくづく思う。
悪魔契約をしてまで手に入れたいものを、宮越くんは最初から持っている。
……いいなあ。
僕を挟んで話を進める二人の顔を、交互に眺めた。
宮越くんは持参した弁当を広げながら、
「主任は結構飲めるクチなんですか?」
「おう。飲むならとことんいくぜ、俺は」
「へえー。主任って、酔っ払ったら暴れたりしそうなイメージだから、ちょっと怖いなあ」
宮越くんの軽口に、ヒヤリとする。
「オレはいつだって優しいじゃねえか」
「またまたー。よく言いますよ。ねえ、北村さん?」
「えっ」
ちょっと待ってくれ。いきなり話題を振られても困る。
仲のよい二人のキャッチボールを遠目で見守る外野のような気持ちでいたのに。
突然ボールをパスされても、どう動けばいいのかわかるわけがない。
しかも、主任いじりなんて高難易度にもほどがある。
僕の舌は石になったみたいに固まって、言葉がまったく出てこない。
そのせいで、三人の会話に妙な間が空いてしまった。
不穏な雰囲気が漂い始めると、まるで空気が針のように変化し、僕の全身をチクチクと刺してくるようだ。
キーンという耳鳴りも響いてきて、今まで騒がしく思えた休憩室の雑音が急に遠くなっていく。
宮越くんの張り付けたような笑顔が恐ろしい。
主任の方を向き直る勇気がない。
どうしよう。なんて返すのが正解なんだ?
僕はテーブルの上の弁当を両手で包みこむようにしながら、ゴクリと喉を鳴らした。
「ぼ、僕は……」
「あははっ。北村さん、そんなマジに答えなくていいですよ」
僕の返事へ被せるように、唐突に宮越くんが吹き出した。
「ふつーに、怖いって言えばいいと思います」
「でも」
慌ててフォローしようとしたが、主任はやれやれと首を振りながら苦笑する。
「特にお前には厳しくしすぎたところがあるからな。怖がられても当然かもしれん」
二人の反応に、「へ」という間抜けた声が出てしまった。
「でもな。別にお前のことが嫌いってわけじゃねえんだぞ?」
「……」
主任は僕の肩をバンバンと気安く叩く。
……嫌いなわけじゃない?
それは友達化しているから? それとも、元から?
いや、この際どっちでもいい。
今なら……今の主任になら、訊ける。