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10 クセになる

 そう思うと、パッと視野が広がったように明るくなった。

 僕はウィスキーの瓶をテーブルの上に戻し、膝の上でそわそわと手を組んだ。

 それなら、もっと彼女と仲良くならなければ。

「遊びに行こう」と誘ってみようか。


 だが、いくら友達化しているとはいえ、所詮は『冠婚葬祭には呼ばないけど、仕事帰りの飲みくらいなら付き合ってくれるレベル』。


 そう考えると図々しいかもしれない。もし断られたら、立ち直れる自信がない。

 僕はなんとか彼女の関心を引けるものを知りたくて、ぐるりとリビングを見回した。


 すると、高級感のあるリビングには似つかわしくないものが視界に映った。

 ビアガーデンのチラシだ。壁にピン止めされていて、でかでかと表記された日付……八月十二日――明日だ――の部分が赤い丸で囲まれている。


 開催地は、隣の駅。


「明日、ビアガーデンに行くの?」


 チラシから目を離さず訊ねると、


「うん。北村くんも一緒に行く?」

「ふえっ?」


 思いもよらない誘いに、声がひっくり返ってしまった。


「い、いいの?」

「うん。二人だけじゃさみしいなって思ってたんだ」

「二人?」

「そう、男友達」


 喜びに膨らんだ僕の心は、しゅるしゅると萎んでいった。

 仮に冬花ちゃんの友達が友達化していたとしても、いきなり初対面の人を相手に、会話ができるスキルなんて持ち合わせていない。


 輪に入れなくて、自分だけちびちびビールを啜る姿が容易に想像できた。

 それだけならまだしも、空気の読めないことを言って場を凍りつかせでもしたら、冬花ちゃんにも嫌われてしまうかもしれない。


 ついさっき、前原さんを不快にさせてしまったみたいに。


「せっかくだけど、やめとく」

「そか。じゃあ、しょうがないね」


 冬花ちゃんはさしてがっかりした様子もなく、さっさと引き下がった。

 もう少し強引に誘ってくれてもいいのに、なんて僕のワガママなんだろう。

 ちょうどその時、ズボンの尻ポケットに入れていた携帯電話が振動した。

 前原さんと飲みにいく前に、楽しくて時間を忘れてはいけないとアラームを設定していたのだ。携帯電話の画面を見ると、二十一時を回っていた。

 そろそろ帰らなければ。

 アラームを止めて、重たい腰をあげた。


「もう帰るの?」

「うん。これから仕事だから」

「そっかあ。夜勤って大変だね」


 冬花ちゃんに先導されながら、僕はリビングから長い廊下に出る。玄関ドアが目の前に迫ったところで、彼女の遊びの予定はおろか、連絡先すら訊いていないことに気づいた。

 足を止めて、冬花ちゃんを振り返る。


「あの」

「どうしたの?」


 言え、言うんだ。連絡先を教えてほしいと。

 ぎゅっと拳を握りしめる。寒くもないのに、嫌な汗が首筋を伝った。


「いや、なんでもない」

「うん? そっか」


 小首を傾げる冬花ちゃんへ曖昧に笑い返し、玄関のドアを開けた。


「またね、北村くん」

「うん。また、ね」


 僕に手を振る冬花ちゃん。だけど、もう片方の手には、しっかりとウィスキー瓶が握られていて、つい苦笑してしまった。

 この笑顔も見納めかもしれない。


「お邪魔しました」


 頭を下げながらゆっくりとドアを閉めると、思った以上に音が響いてギクリとする。

 もう二度とお前の入る隙はない、と言わんばかりだ。

 彼女となら友達になれそうだったのに……僕に勇気がないばかりにチャンスを不意にしてしまった。

 名残惜しくて、僕は門をくぐる間も何度となく玄関を振り返った。


 僕に残された時間は、あと九日。

 九日間のうち、再び彼女と話す機会なんて来るのだろうか。

 僕は自己嫌悪に苛まれながら、とぼとぼとアパートへ戻った。


 × × ×


「おかえりなさい、北村さん!」


 アパートの部屋に戻ると、飛びつくようにヨルが駆け寄ってきた。

 僕を待っている間、風呂にでも入ったのだろう。さらさらとした髪から、華やかなシャンプーの匂いがふわりと香った。


「た、ただいま」

「全然帰ってこないから心配してたんですよ!」


 今にも僕を抱きしめんばかりのヨルを、慌てて押し返す。

 彼女は太ももが露出した半ズボンのパジャマに着替えていた。

 もともと端正な顔立ちのヨルは、それだけでセクシー女優さながらの色香が漂う。

 水を弾くような白い生足は、男の僕には刺激が強い。少しだけ触れたヨルの肩も柔らかくて、ついドキッとしてしまった。


 だが、服の胸元には『Kill You』という不穏な文字がプリントされていて、水玉だと思った絵柄もよく見るとドクロだった。


 さすが悪魔。いい趣味をしている。


「北村さんのことだから、海で入水自殺でもしたのかと思いましたよ」

「大げさだよ」


 といっても、包丁で首筋を切ろうとしていた僕に説得力はないが。

 あまりじろじろと見つめるのも気が引けて、ヨルから素早く視線を外す。


「それで、どこに行っていたんですか?」

「えっとね……」


 ヨルの問いに答えながら、いそいそと仕事の準備をして気をそらした。酒の匂いが体についていそうだったが、シャワーを浴びる時間はなさそうだ。


 ヨルは僕の話にふんふんと相槌を打っていたが、冬花ちゃんの家に行ったと告げると、


「わあ。いきなり女の子を引っ掛けるなんて、北村さんも隅に置けませんね」


 と、にやにやと嬉しそうに笑う。


「たまたまだよ。それに、多分これっきりだしね」

「えー。そんな悲しいこと言わないでくださいよ」

「連絡先も聞きそびれちゃったし」

「でも、楽しかったんじゃないんですか?」

「うん、すごく」

「それなら、冬花さんもきっとそう思ってるはずですよ」


 そうだろうか。

 そうだといいな。


 ベランダの窓ガラスを見ると、僕の頬はだらしなく緩んでいた。そこではじめて、自分がかつてないほど浮かれていたのだと気がつく。


 ……それだけ、冬花ちゃんは僕にとって特別な人だったのだ。

 窓には、僕の背後に立つヨルも映っている。

 最初こそ恐ろしいと思ったものだが、こうして見守ってくれているヨルは、僕にとっては女神だ。窓越しに笑いかけると、ヨルがこちらに歩み寄ってくる。


「北村さんが楽しいのなら、ヨルも契約した甲斐があります」

「僕のほうこそ、刺激的な経験をさせてもらってるよ」


「うふふ」と、ヨルは愛嬌たっぷりの笑みを浮かべた。


 きゅっ、と心臓が高鳴るのを感じる。

 これ以上一緒にいたら、すっかり魅了されてしまいそうだ。


「じゃあ、僕は仕事に行くけど……朝まで一人で大丈夫?」

「お任せください。映画を観ながらお留守番をしてますから」

「映画?」


 ヨルがいそいそとテレビ台の扉を開けると、そこにはレンタルビデオショップ店で借りてきたのであろうDVDが、ドンと山積みになっていた。


「北村さんのカードをお掃除中に見つけたので、つい」


 傍らには、たしかに登録していたことすら忘れていた僕の会員証が置いてある。


「勝手に使ってごめんなさい」


 意外とちゃっかりしてるのかもしれない。……いや、まあ、初対面で家にあがりこんできたのだから、もともとそういう性格なんだろうが。

 何を借りたのかと思って手に取ってみると、すべてホラー映画だった。


「ホラー、好きなの?」

「ハマると、クセになるんですよね」

「いい趣味してるね……」

「悪魔ですから」


 ヨルの赤い目が、細められる。

 その瞳の輝きに、なぜか一瞬、鳥肌がたった。

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